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7 眠らぬシャマオと幽明刀


 湖畔の花園でカノンと別れて、しばらく経っていた。

 シャマオはまだ影から逃げている。

 ときおり、振り返りながら歩き続ける代わり映えしない日々だ。

 それでも、拠り所ができたことで足取りのほうはずっと軽かった。


 思い切って斬り結ぶことも考えた。

 勝てばあらゆる苦悩から解き放たれる。

 しかし、負ければ死ぬ。

 いまひとつ踏ん切りがつかないまま、こうして歩を止められずにいる。

 なにより、あの影と向かい合うのが怖かった。


(逃げてばっかだね、あたしゃ……)


 胸に抱いた幽明刀が情けない主人の顔を見上げている気がして、惨めな気分になった。


 茜色の空が細く切り取られた、谷底の道。

 一足早く夜が来たようで、道沿いの小川は墨のような色をしていた。


「困ったね……」


 谷に入ってからもうずいぶん歩いている。

 しかし、一向に分かれ道がなかった。


(もし、この先が行き止まりなら……)


 一本道を引き返すことになる。

 それは、あの影に自ら近づくということ。

 鉢合わせになるかもしれない。

 その場合、逃げ場はないのだ。


「……」


 暗くなるにつれて嫌な予感が膨らんでいく。

 そして、こういった不安は得てして当たるものだ。

 長い暗殺者暮らしで培われた直感は滅多なことでは外れない。

 引き返すなら早いほうがよい。

 警鐘のように胸の中で激しさを増す心臓がシャマオにそう告げていた。

 それでも、足は前へ前へと向かっていく。

 自分からあれに近づくなんて考えたくもなかった。

 だから、逃げて逃げて逃げて……。

 そして、悪い予感は現実のものとなった。


「あ、はは……」


 覚えず、笑いが口を突いた。

 落石が道を塞いでいた。

 天然のダムと化した岩の壁から黒い水がしたたり落ちている。

 猫のように身軽なシャマオにもここを乗り越えることは難しそうだった。


「頼むよ、カノン」


 これだけが唯一の頼みと神に願う気持ちで幽明刀を抜いた。

 震える両手で握りしめ、踵を返そうとした、そのときだ。

 シャマオは気づいた。

 薄氷のような刃がほのかに光っていることに。

 こんなことは初めてだった。

 幽明刀がこの世ならざるものの到来を告げている。

 口の中が一気に干上がった。


「……」


 カノンは息を呑んで振り返った。

 黒ずんだ血のような空と、真っ暗な谷底の小道。

 あらゆる輪郭が闇に溶けた道は、目に映るものすべて自分を追いかけてくる影に見える。


「……」


 静かだ。

 水の音しかしない。

 寒いのに汗が止まらなかった。

 それは、おのれの体があれの接近を感じているからにほかならなかった。


(いる……!)


 間違いない。

 見えないが、わかる。

 追いついてきたのだ。

 あれが。

 影が。

 もうすぐそばまで来ている。


「……」


 シャマオは油断なく構えた。

 そうして、どのくらいの時間が流れたか。

 空も谷もすべて黒一色になった頃、それは岩陰から突然飛び出してきた。

 黒い塊。

 人の形をした影。

 真っ黒な両手を突き出して、もつれるような足取りで、しかし、恐るべき速さで迫ってくる。


『……』


 声が聞こえた。

 口もないのに何かささやいている。

 笑ったように見えた。

 顔のない顔が。

 ただの真っ黒な塊の中に、たしかに白い歯が見えた。

 すぐ耳元で息遣いが聞こえて、シャマオは総毛立った。


「……っ!」


 逃げたい。

 だが、もうどこにも逃げ場はなかった。


「やるしか、ないんだね」


 覚悟を決めた瞬間、一気に恐怖が遠のいていった。

 あるのは使命感。

 やらねば、という鉄の意思。

 この感覚は前にも一度覚えがあった。

 初めて仕事をおおせつかったときだ。

 迷いに迷い、でも、最後には腹をくくったのだ。

 あのときもこうして冷たい刃を握っていた。


「あっはっは。あんたもいい加減しつこいね。もう逆にさ、あたしのこと好きだろ?」


 シャマオは仕事用の人懐っこい笑みを浮かべた。


「年貢の納め時だとか思ってんのかい? お生憎様。あたしゃ天下の一文無しさ。代わりに、とびきりの上物をくれてやるよ!」


 濡れた地を蹴って風になる。

『飛猫』と称えられるその俊敏さでシャマオは閃光のごとく突っ込んだ。

 黒い腕が伸びてくる、その下を掻い潜り、握りしめた小刀で弧を描く。

 影の、脇腹がザクロみたいに裂けた。


「斬れた!」


 手がじんと熱くなる、確かな感触。

 標的の血脈を断ったときと同じ手応え。

 しかし、呪霊の傷は墨で塗り直したように塞がった。

 声なき怒声を上げ、猛然と迫る。


「この……!」


 すれ違いざまに腕を叩き落とし、反撃をかわしながら足の腱を断つ。

 並の人間なら3度は殺せるほどの刃を浴びせても、呪霊は不死身の怪物のように襲いかかってくる。


「この刀でもダメだってのかい!?」


 いや、あのカノンの武器だ。

 万に一つもそんなはずはない。

 シャマオは視界を覆っていく黒いものを、頭を振って振り払った。


「……っ」


 幽明刀を握り直したとき、指の腹が硬いものに触れた。

 目釘だった。

 途端にカノンの顔が脳裏をよぎった。

 別れ際の苦労話とともに。


 ――その小刀さ、刃が半分向こう側にあるからね、柄に固定しておくの大変だったんだよね。


「……!」


 シャマオは稲妻のように理解した。

 本来、この世に存在しないはずの呪霊をこの世に繋ぎ止める、そんな目釘となるものがあるのだ。

 斬るべきは影に非ず。

 その根――呪いの核たるもの。


 シャマオは目を凝らした。

 闇を見透かす猫の目が影の中に小さな光を見出す。

 月光を返す、どす黒い光。


「――そこッ!」


 振り抜いた幽明刀が小さな硬い感触を斬っていた。

 呪霊が断末魔の絶叫を上げた。

 そんな気がした。


 真っ黒な返り血が雨のように振りかかる。

 その一滴としてシャマオを濡らすことはなかった。

 谷に射し込むひと筋の月光の下、影は塵となって消えていった。





「ねえ、あんた。今日はぐっすりさんだね」


 シャマオは目をこすり、片目を薄く開けた。

 木漏れ日が無数の斜線を引く、穏やかな昼下がり。

 自分を覗き込む老爺の柔和な丸顔を見て、シャマオは体を起こした。


「……」


 爆睡していた。

 昨晩、ついに因縁の敵に区切りをつけ、燦然と昇る朝日を眺め、――そこからの記憶がぷつりと途切れている。


(どうやら、安心して寝ちゃったみたいだね……)


 路傍で眠りこけるなど、暗殺者にあるまじき大失態だった。


「……あんた、誰だっけね」


「旅の薬売りだよ。ほら、先日ルル川沿いの道であんたとすれ違った……。あんた言ったじゃないか、眠らなくてすむ薬ないかいってさ」


 そういえば、そんな憶えがある。


「仕入れてきたよ、これ飲めば眠気がカッ飛んで3日は眠れなくなる。買ってくだろ?」


「いいや、悪いねじいさん。そいつぁもういいんだ。あたしはご覧の通りぐっすり眠れるご身分になったんでね、これからは寝坊助の猫みたいに過ごすつもりだよ」


 シャマオはひとつ伸びをして、豪快なあくびを披露した。


「はっはっは。そりゃいいね。人生それが一番だよ」


「でも、それじゃじいさんが仕入れ損になるね。こいつをお代と思って受け取ってくれないかい?」


 二つに割れた透明な石をしわだらけの手に握らせる。

 幽明鉱の原石だ。

 呪霊の目釘だったものだが、今は木漏れ日を受けて淡い虹色の光を振りまいている。


「こりゃ綺麗な石だね」


「そうさ。でも、叩いちゃダメだよ。叩くとあの世逝きのおっかない石だからね」


 シャマオはケタケタ笑って、荷を担ぎ上げた。


「行くのかね?」


「まあね」


 でも、行くあてはない。

 帰る場所も。

 暗殺者稼業は懲り懲りだった。

 さて、どうしようかねぇ、と考えあぐね、気ままな旅暮らしも猫みたいでいいかもしれないと思い至る。

 道の先をぼんやり見つめていると、老爺が思い出したように言った。


「そういや、あんたとすれ違った後さ、黒い変なのを見かけたけど」


「あー、あんな奴、あたしが斬って捨ててやったよ」


「へえ! あんた、オバケの類を斬れるのかい! じゃあさ、ここから南に1日ほどのところにあるエカボ村ってとこに行ってみたらどうだい?」


「そりゃどうしてだい?」


「なんでも夜な夜な悪霊がわんさか出るみたいでね、祓い人を探してるんだ。きっと村の人、大喜びだよ」


 曲がった背中に薬籠を揺らして去っていく老爺を見送り、シャマオは南に足を向けた。


「旅の腕利き祓い人『飛猫』のシャマオ様、か。うん、悪かない響きだねぇ」


 行き先が決まったようだった。

 大陸中の悪霊を祓って回るのも面白そうだ。

 シャマオは幽明刀を陽光にかざし、そして、歩き出した。

 今度は前だけを見て。

 猫のような軽やかな足取りで。

 どこまでも真っ直ぐに。


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