4 眠らぬシャマオと幽明刀
「……」
シャマオは小さな気配を感じた気がして振り返った。
足は止めない。
歩きながら疲れた目で後ろを確かめ、何もいないことに少し安堵し、そして、また10歩と進まないうちに振り返った。
木立の影。
木漏れ日の揺らめき。
張り出した枝葉。
そのすべてがシャマオには得体の知れない魔物に見えてならなかった。
足を止めるのが怖かった。
三十路をとうに過ぎ、小じわが気になり始めた大の女だ。
それが真っ昼間の森で幽霊に怯えながら小走りしている。
人に見せればさぞかし笑いを誘うことだろう。
それでも立ち止まるわけにはいかない。
気力と体力の続く限り歩き続け、足が言うことを聞かなくなったら歩けるようになるまで少し休む。
ずっとその繰り返し。
片時も眠るわけにはいかなかった。
あれは、もうすぐそこまで迫っているかもしれないのだから。
(さすがにそろそろ限界だね……)
地図に名前すら載っていない奥深い森。
まだ暗いうちから道なき道を歩き始め、すでに太陽は天頂に達していた。
「今、ひと休みしないと夜動けなくなっちゃうね」
しかし、こんな見通しのきかないところでは、とても気が休まらない。
せめて見晴らしのいい場所でないと。
あれが来たら、すぐに見つけられるように。
「……どこだろうね、ここは」
夜のような深い森を抜けると、シャマオは光の中に投げ出された。
湖畔。
白と黄色の花に少しの桃色がまじる花園のような場所。
湖面には光の波が走り、対岸の、さらにずっと向こうには野生馬らしき茶色い点が草を食んでいる。
「えらく陽気なところに出ちまったね」
シャマオはおのれの皮肉を笑った。
そして、またひとたび背後を振り返り、猟犬の影を見た野ウサギのように足を速めた。
「……おや」
水辺には思いがけず先客がいた。
丸岩に腰かけてぱしゃぱしゃと水を蹴る少女。
白いワンピースと風になびく黒い髪は絵画のように優美で、それゆえに、場違いだった。
こんな秘境めいた場所に少女が、それもたった一人。
街中で熊と鉢合わせるよりよほど不気味だ。
「お客さんかな?」
少女にそう問われ、初めて水辺に看板が転がっていることに気がついた。
「創作武器屋、……っ?」
「カノンって読むの。私の名前ね」
「それじゃひょっとすると、あんたがあの?」
人の立ち入らぬ山紫水明の地を渡り歩く、うら若い武器屋の話は、その武器の秀逸さとともに半ば伝説となって人々に語られている。
「私のこと、知ってるんだ」
「そりゃもう、その筋じゃ有名だからねえ。でも、あたしが初めてカノンの名を聞いたのは5つか6つのガキの時分だよ。あんたはどう見ても……」
シャマオは少女の顔を覗き込み、
「っ」
寒気を覚えて身を引いた。
雪のような肌艶の、しかし、そのどこかに緑青まみれの銅像を彷彿とさせる古めかしさがあった。
見た目と歳がかけ離れているのだ。
(エルフみたいな子だね)
シャマオは刹那、気を呑まれた。
そして、目の前にいる少女が伝説に謳われる武器屋に相違ないことを肌身で悟り、胸が高鳴った。
カノンの武器なら「あれ」を殺れるかもしれない……。
「渡りに舟だよ」
「ってことはお客さんだ」
「そーだよ。わざわざこんなとこまでご足労なあたしをさ、ホラ、たぁんと歓迎しとくれよ」
「私、接客は評判悪いんだけどね」
くすりともせず言い、カノンは闇のような目でシャマオを見つめた。
「それと、私は客を選ぶんだ」
「あはは。こんなところで客選んでたら失業まっしぐらじゃないかい?」
「これで客足は絶えないほうでね。ひと月と同じ場所にいられないんだ」
あんたの腕ならそうだろうね、とシャマオは腹を震わせた。
「それで? あたしはどうすりゃあんたに認めてもらえるんだい? 逆立ちでもしてみようかね」
「背中のそれ、見せてもらえる?」
「……へ?」
「小刀だよ、その」
ゾッと背筋が粟立つ。
隠し刀を見抜かれたのは、これが初めてのことだった。
「ああ、これね。いいよ。好きなだけ見てちょーだいよ」
シャマオは努めて笑顔で、服の下から小刀を抜き出した。
笹の葉に似た極薄の刃。
背中の湾曲に沿って隠し持つのに最適な、ペラペラの暗器。
それを氷の目で見つめ、カノンは小さく頷いた。
「……よし。人の血は吸ってないね」
「おや、わかるものかい?」
「うん。ひと目で」
「さすが伝説の武器屋さんだ」
シャマオは内心ホッと胸をなで下ろしながら、お茶目にねだる。
「そいじゃ、売ってくれるね?」
「ううん。あなたには売らない」
「……?」
首をかしげるシャマオに、カノンは5本の指を扇のように広げてみせた。
「カノン武器の五箇条だよ。知らない? 私はね、人殺しに武器は売らないようにしているんだ」
真っ黒な目が驚くほど間近に感じる距離でシャマオを見上げていた。
息が詰まるようだった。
「あなたの体から血の臭いがする。何人殺したの?」
夜の闇を全部集めたようなその視線の、尋常ならざる重さがシャマオをうつむかせていた。
口角は自然と上がり、不格好な笑みを作る。
額から噴き出した汗が不揃いなえくぼを滑り落ちていった。
ごくり、と喉が鳴る。
(こりゃ役者が違うや……)
シャマオは両手を上げて降伏のポーズをする。
「訊いていいかい? どうして人殺しにゃ武器を売ってくれないんだい?」
「そんなの私が悲しむからに決まってるでしょ。自分の子に殺しの手伝いなんてさせたくないからね」
意外にも平々凡々な理屈が返ってきて、かえって面食らった。
しかし、普遍の真理であろう。
「正解だ。あんた、いい目を、それにいい鼻を持ってるね。そうさ。あるよ、あたしは人を斬ったことが。それも何度もね。でも、仕方ないじゃないか。それが仕事なんだからさ」
シャマオは薄刃の小刀を指の間に躍らせた。
「あたし、暗殺者なんだよ。結構な凄腕のね」
「ふーん」
「……あはは。そういう客は珍しくないって顔だ」
「実際そうだからね」
瞬きをしないカノンの目はまさしく銅像のようだった。
「それでも、あたしゃ、どうしても殺りたい奴がいるんだよ」
シャマオは商売道具の笑みを引っ込め、できうる限りの真剣さを疲れ切った顔に示した。
「あんた、幽霊を斬る刀とか持ってないかい?」




