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10 砕けた拳のシュラーゲン


 ナナンア密林の緑は相も変わらず蜂蜜酒のような濃密な香を放ち、木漏れ日も火矢に似ていた。


「何も変わらんな、ここは」


 シュラーゲンは額の汗を太い腕で拭った。


 敗走とパーティー崩壊。

 あれから、もうじき1年になろうとしていた。

 だというのに、久しぶりに訪れた冒険者ギルドも、馴染みの冒険者たちも、せいぜいひげの長さが変わった程度の変化しかない。

 あの忌まわしいティグンナーデルの討伐依頼書も掲示板に張り付いたままになっていた。


 あの後、3つのパーティーが虎口に消え、依頼書は半ば呪物とみなされ捨て置かれたらしい。

 そんな依頼を一人で受けたシュラーゲンに、知己らは口を揃えて言った。


「死にに行く気か?」


 シュラーゲンは答えなかった。


(俺は変わったのだ)


 背中でそう言い残し、現在、のたうつ蛇のような無数の根を越えて密林を進んでいる。

 腕の中で鈍い光を放っているのは輝晶砲という名の切り札。


(これは怪物だ……)


 フローゼンベルク山地からの帰路、少なくない魔物とぶつかった。

 そのすべてをこいつは食らい尽くした。

 あるものは骨片すら残らぬほどの業火に焼かれ、あるものは巨大な氷塊の下に埋もれた。

 空を悠然と舞っていた竜までもが地に没した。

 怪物なのだ、これは。

 持ち主であるおのれ自身をも、いつか食い尽くしてしまうのではないかと思わされるほどに。


「変わらぬな、貴様も」


 ナナンア密林に接する広大な砂原、デゼア砂漠。

 嵐の海を茶色く染めたような光景がシュラーゲンの前に永遠と広がる。

 その砂塵舞う中にティグンナーデルはいた。

 サビ色の毛並みを陽光にギラつかせ、誇り高く天を望む巨影。

 あの日と同じ優雅なたたずまいは美しくさえあった。


(まだこちらには気づかぬか)


 シュラーゲンは巨大な葉の陰に伏している。

 鷹の目をもってしても用意には見つけ出せない距離があった。


「あの日の屈辱の、けじめだ」


 今日、この日のために用意したとびきりの魔石を装填口に押し込み、シュラーゲンは輝晶砲に抱きついた。

 スコープの中のティグンナーデルがあの日の恐怖を思い起こさせる。

 拳では決して敵わぬ相手。


(だが、この一撃なら……!)


 シュラーゲンは引き金を引いた。

 紫電が砂原を裂いた。

 空が割れるような轟音がする。

 それは輝晶砲が放つ砲声であり、ティグンナーデルの絶叫だった。

 魔力を吸い尽くされてクズ石となった雷の魔石が砂の上に排出された。

 それと時を同じくして、巨体が砂の上に横倒しになる。

 巨体から黒い煙が立ち昇り、風で横に流れていく。

 空を行く雲が茶色い地平線の彼方に消えても、ティグンナーデルはぴくりとも動かなかった。


 死んだのだ。

 あれほど強大に感じたティグンナーデルが哀れなほど容易くその命を終えた。

 こちらに気づいてすらいなかっただろう。

 何が起きたのかさえ。

 まさしく稲妻に打たれたように、あれは死んだのだ。





「ティグンナーデル討伐を祝してえええ! 乾杯あああああああああい!」


 その晩、シュラーゲンは魔王を討ち取った勇者がごとき歓待を受けていた。

 浴びるほどの酒を飲み、柄にもなく武勇伝を叫んだ。


 翌朝。

 その酔いと眠りから醒めたとき、シュラーゲンはまだ夢の中にいるようだった。


「俺があのティグンナーデルを……」


 本当に倒したのだろうか。

 見つめた拳は無傷のままで、酒の臭いを漂わせていた。


 その日から始まったシュラーゲンの快進撃には凄まじいものがあった。

 名のある魔物をことごとく駆逐し、冒険者ランクはあれよあれよと金等級になった。

 冒険者たちからは英雄のようにもてはやされた。

 だが、拳を捨てたシュラーゲンを道場主の父や、その門徒たちはすっかり見限ったようだった。


 冒険者としてのセカンドライフが軌道に乗った頃、散り散りになった仲間たちを呼び戻すことを考えるようになった。

 しかし、どうしても一歩踏み出せなかった。

 今の自分を見せたいと思えなかったのだ。

 形容しがたい負い目のようなものを常に感じていた。


 魔物との戦闘はいつも一方的だった。

 引き金を引く。

 それだけですべてが終わる。

 活躍の量に反して、その実感には乏しい。

 拳に返ってくる、全身を震えさせるほどの衝撃が懐かしくもあった。


「俺は本当にこれでいいのだろうか」


 重ねた名誉の分だけ自分が理想としていた冒険者像から乖離していく気がした。

 自分ではない何かが称賛を浴びるのを、少し後ろから眺めている。

 そんな気分。


『五光のシュラーゲン』の名はいつしか国中に広がっていた。

 魔王軍との戦闘に駆り出されることもあった。

 どの戦場でも、まるで高名な騎士のように賛美され、三顧の礼で迎え入れられた。

 その期待を遥かに上回る屍の山をシュラーゲンは築き続けた。

 魔物のいなくなった戦場で喝采を浴び、顔も知らぬ兵士たちに囲まれる。

 こんなもの、俺じゃない。

 ……俺はなんだ?

 何がしたいんだ、俺は。

 栄光の隣に、常にそんな葛藤があった。


 退屈だった。

 敵の呼吸と切り離された、後方の高台。

 死闘に向かう兵士たちの遥か後ろで引き金を引き続けるだけの日々。

 まるで自分が輝晶砲の一部になったようだった。

 おのれがもうとっくに怪物の歯牙にかかっていたことをシュラーゲンは今更悟ったのだった。


 そんなある日のこと。

 護衛の兵士の、ほんのわずかな隙を突いて1匹のゴブリンが茂みから飛び出してきた。

 ほかのすべてに目もくれず、ただシュラーゲンだけを見据え、突っ込んでくる。


(装填が……!)


 間に合わなかった。

 とっさに突き出した拳がゴブリンの頭をスイカのように砕いた。

 その瞬間、拳から全身へ凄まじい電気が走った気がした。

 それは、久しく忘れていた感覚。

 拳打をもって敵を制す、拳闘士の五感。

 命を懸けた敵に、おのれもまた命懸けで返答する。

 その美学が鮮やかに爆ぜていた。


「ほほう! シュラーゲン殿はまるで拳闘士だな! 砲がなくともそれほどにお強いとは、いやはや!」


 兵士長がうなり声を上げた。


「俺が……拳闘士」


 自分の中の冷え切った空虚に、熱い水が流れ込んできたようだった。


「そうか。俺は拳闘士なのだな」


 シュラーゲンはその日、初めて最前線に出た。

 拳を2つだけ持ち、愚直に誰よりも前へ。

 10ほどの魔物を倒した。

 輝晶砲を使えばもっと楽に手早く、その何十倍の敵を倒せていただろう。

 かすり傷ひとつ負わなかったはずだ。

 だが、確かな達成感があった。

 俺が倒したのだ、という今ここに生きる感覚が。


「うおおおおおおおおおおおおお!!!」


 シュラーゲンは誰よりも大きな声で吼え、拳を天に突き上げた。

 じんわりと残った痛みが、握りしめた熱と汗が、我が子のように愛おしかった。

 そして、わかった。


(俺は、俺の拳が好きだったのだな)


 砕けたのは拳ではなかった。

 心だったのだ。

 名声も武勇も勝利もいらない。

 必要なものは最初からこの腕の先にあったのだ。





 借りたものを返しに行かなければ。

 その一念でシュラーゲンは再びフローゼンベルク山脈の中腹に立った。

 凍りついた瀑布の下にカノンはいなかった。

 かまくらを作り、その中に輝晶砲を押し込んだところでハッとする。


『オタマジャクシはどんなに迷走しても最後にはカエルになるんだよ』


 そんなカノンの言葉が耳朶に蘇った。


「ご店主にはすべてお見通しだったか」


 拳闘士の子は拳闘士になるさだめだったらしい。


「ご店主、お返し申す」


 記憶にあるカノンの姿に向かって一礼し、ティグンナーデルの毛皮を輝晶砲の傍らに置いた。


「感謝申し上げる。俺の武器に気づかせてくれたことを、切に」


 立ち去りかけて、ふと興が湧いた。

 あるいは、記憶の中のカノンの可憐さがそうさせたのかもしれない。

 シュラーゲンは岩砕きの拳で氷瀑を打った。

 拳圧によって溶けた氷壁が再び凍りつく。

 おのれの拳を刻み込み、名刺代わりとした。


「さて、遠回りをしてしまったが仲間たちに会いに行くとするか」


 凍てつく白い風の中、男の拳だけが赤い熱を帯びていた。


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