41 君の隣
どれだけ拳をきつく握りしめても、手が震えてしまう。
俺は固く目をつぶったまま、とうとう言った。
「俺は、礼知さんのことが好きです。けど、どうしても、自信がない……」
「ベータだから?」
礼知さんの声は、静かだった。どこか優しげですらあった。
甘やかされているみたいで、俺はぽろぽろと不安を口にした。
「それだけじゃありません。俺今、無職の宿無しです」
ふっと、息を吐く音が聞こえて、俺は顔をあげた。
礼知さんは微笑んでいた。
作り笑いじゃないと一目でわかった。
少しうるんで、柔らかで、目じりが赤く染まっている。
俺は逆に、ぐっと口を引き結んだ。
人には絶対見せられない、厚かましすぎる、俺の本心。
俺だけが、彼のこんな顔を、知っているんだったらいいのに――。
どうしてこんなことを、望んでしまうんだろう。
うつむく俺の頭に、ぽんと手を置かれた。
「少しそこで待ってて。寝ててもいいよ」
そんなわけには……、と思ったものの。
ドライヤーの音を聞くうちに、瞼が重くなってきた。
自分で思っていた以上に疲れていたらしい。
唸るような機械の音に瞼を開けると、鼻先にコーヒーの香りがふわっと届いた。
気づけば礼知さんはすでに身支度を整え、部屋にあったコーヒーマシンまで起動させていたらしい。
ぼんやりと彼の様子を見ていると、彼は真新しいスリッパを持って俺の足元へ置いた。
「ちょっ、礼知さん!」
うう、礼知さんに使用人みたいな真似をさせるなんて、いたたまれない。
けれど礼知さんは頓着せずに、俺をソファーへ手招いた。
L字型に配置されたソファーはやたらと身の沈むやつで、俺は無様に「うわ」と声を立てた。
きちんと座りたかったけれど、全然うまくいかない。
礼知さんはそれを笑うでもなく、コーヒーを二人分置いて、俺の対面に腰を下ろした。
「君はさ、自分のすごさを知らないんだな」
チラリと見ると、礼知さんは涼しい顔でいつものように姿勢よく座っていた。
礼知さんは、俺のいったい何を見て、すごいなんて思ったんだろう。
まともにソファーに座ることさえできないのに?
「あの、礼知さん」
「待って、彗。今、理性と戦ってるんだ。……そうだな、先に私の話をしようか」
疑問を差し挟む前に、彼はそう言って微笑んだ。
いつもの、隙のない礼知さんがそこにいた。
「初めて、私のオフィスに君を招いたとき、君はすぐに見抜いたね。部屋の中におかしな空間があるって」
言われて彼のオフィスを思い出す。
広々としたフロアの奥にある、クラシカルな彼の部屋。
確かにちょっと、寂しい感じの空間が空いていた。
「あれはね、私が立つための場所なんだ」
「立つんですか?」
壁際に礼知さん。まるで似合わないな。等身大パネルならわかるけど。
俺の気がちょっと逸れたのがバレたのか、彼は苦笑を浮かべた。
俺はドキッとしてコーヒーを一口すすった。
それをソーサーに戻すタイミングを見計らって、彼は話を続けた。
「父は厳格な人で、幼いころはたびたび部屋の隅に立たされたものだよ」
「礼知さんが……?」
「でもそこは、私にとっては落ち着く場所だった」
思いがけない告白に、俺は耳を疑った。
「――うちの両親は仲が悪くてね」
彼は、自分の考えに沈み込んだみたいに見えた。
俺は口を挟むこともできず、上げかけた手をそっと押さえた。
「私はいつもどこか、自分の席がないように感じていたんだ」
俺は彼の両親とは一欠片の面識もないけど、瞬発的に反感を抱いてしまった。
彼にこんなことを言わせるなんて!
礼知さんは、何でも持っているんだと思っていた。地位や名誉、お金、完璧な容姿とふるまい。
でも今、彼の瞳に陰りが見えた。
「だから壁際が、自分の正しい立ち位置なんじゃないかって思っていた」
「絶対にそんなことないですよ!」
居場所がない?
そんな悲しいことを言わないで欲しい。
「礼知さんなら、引く手数多でしょうに!」
「うん。君なら、そう言うんじゃないかって思ったよ」
彼はあっさり言ったけれど、まだどこか寂しそうだった。
ずっと彼のこと、王子様だと思っていた。俺には手の届かない人だって。
だけど、もしかしたら礼知さんは、完璧なんかじゃなくて――そうならざるを得ない環境に育っただけなのかもしれない。
素の礼知さんは、もっと素直で、笑い上戸で。
あれ? ということは――。
「もしかして俺が、さんざん礼知さんを王子様扱いしてきたのは、負担だったんじゃ……」
「それが……。自分でも意外なんだけどね。君が、うっとりしたまなざしを向けてくるのは嫌じゃないんだ」
寛容すぎるだろ!
「気持ち悪くないんですか!」
「全然。可愛いなとは思うけど」
妙なことを言われて、肩がギクッとした。
けどそれ以上に、ほんの一瞬垣間見えた、視線の鋭さが気になるなあ。
それ、可愛いって顔かな?
大型の肉食獣みたいだったよ?
「はじめて君に頼んだ仕事を覚えている?」
話題の転換に、俺は内心ほっとして頷いた。
「もちろんです。オメガルームのコーディネートでしたよね」
「そう。あの部屋のソファーに並んで座ったよね」
「……はい」
俺はぎこちなく頷いた。
俺にとっては、はしゃぎにはしゃいだ、ちょっと恥ずかしい思い出だ。
「一目で気に入ったよ。居心地がいいってこういうことなのかなって」
真っ直ぐな称賛が面映い。同時に、いい仕事をしたなという満足感もあった。にやけたいのか口をすぼめたいのか自分でもわからず、もにょもにょと迷ってしまった。
「大げさですよ……」
「そうかな」
彼は首を傾げた。怖いくらい真剣な顔をしていた。
「あの時思ったんだ。これから先、どんなことがあっても――」
言いながら彼は、音もなく立ち上がった。
俺も立とうとしたけど、柔らかすぎるソファーに苦戦するうち、彼はもうすぐそばまで来ていた。
「たとえ誰かを蹴落とすことになろうとも」
礼知さんはじっとこっちを見ている。視線で射止められたみたいに、俺は身動き一つ取れなかった。
ゆっくりと距離が縮まり、するりと頬をなでられる。
彼の声が耳をくすぐった。
「君の隣に座るのは私だって」
そして宣言通り、彼は俺の隣に腰を下ろした。
先ほどまでとは違い、深く体を沈ませて。
「君を、私の居場所にしたいんだ」
息がかかりそうなほど間近で見つめられて、俺は、声も出せなかった。
今、いったいなんて――?




