40 オメガなら
逃げるつもりは本当になかった。
だけど十数分後、俺はバスローブ姿で出てきた礼知さんに押し倒されていた。
濡れた髪からぽたりとしずく落ちて、俺の頬に当たった。
礼知さんが身に着けているのはバスローブだけだった。いつもはきっちりと守られている胸元が、俺の目の前でさらけ出されていた。
しっとりと汗のにじむ体から、立ち上る彼のフェロモン。
俺は何とか視線を引きはがした。
「それ着ている人、生で初めて見ました」
「彗の分もあるよ――じゃなくて」
と彼は邪魔くさそうに前髪をかき上げた。
目をそらしたはずなのに、それでも視界に飛び込んでくるなまめかしい仕草や、形の良い額。
俺は両手で顔を覆うことで、何とか奇声を飲み込んだ。
色っぽいっていう言葉の意味を、今、初めて知った気がする。
相手は礼知さんだぞ、俺!
妙な想像をするんじゃない。
必死に言い聞かせているってのに、礼知さんは俺の手を指でツーっとなぞった。
些細な刺激に、大げさなほど肩が震えた。
「逃げないって言ったよね?」
「誤解なんです! ただ、喉が渇いて……」
そう、飲み物を求めてそろりとベッドから降りたところを見つかって、再びベッドに戻されただけだ。
押し倒されているみたい、なんてのは俺の主観に過ぎなくて――。
「こっちを見て言ってくれないか」
「むむむ無理です!」
ぎゅっと目をつぶってぶんぶん首を振っていると、ため息が落ちてきた。
「そんなに私が怖い?」
囁くようなその声が、ひどく寂しげに聞こえた。
「……え?」
俺は思わず手の隙間から礼知さんを窺った。
「やっぱり、去勢したほうがいいかな」
「は? え!?」
「フェロモンも出なくなるし、少しは彗の警戒も和らぐ?」
俺は両手を顔から外して、ぽかんと礼知さんを見上げた。
何を言ってるんだ、この人……?
冗談?
いや、本気っぽいのが怖いな。
「あの、差し出口ですけどね。その言い方だと、俺のためなら何でもする、みたいに聞こえますよ」
「正しく伝わって何よりだよ」
驚きのあとは、強い怒りが湧いてきた。
そんなことされたって、少しも嬉しくない。俺のせいで彼が損なわれるなんて、考えたくもないことなのに!
気づけば彼につかみかかっていた。
「俺はベータですよ!」
「それが何」
彼はムッとした様子で顔をしかめたけれど、俺の方がずっとムカついている。
ブレーキならとっくに壊れていて、秘めておくつもりのことまであふれ出した。
「せめてオメガならよかったって――そう言ってたでしょう?」
礼知さんはハッと目を見開いた。
それからばつが悪そうに、俺から目をそらした。
――ほらな。
心のどこかに冷静な自分がいて、自分の怒りをあざ笑っていた。
「まあ、言ったようなものか。……そうだね、君がオメガならと考えたことはあるよ」
俺はため息を必死で堪え、彼のバスローブから震える指を引きはがした。
どう転んだって、俺はオメガにはなれない。
なら、話はこれで終わりのはずだ。
けれど彼は、頭がぶつかりそうな距離まで近づいてきて、低い声で囁いた。
「そしたら、無理やり抱いて番にしてしまえるのにって」
「……だ……く?」
言われたまま繰り返したものの、言葉の意味はするりと抜け落ちていった。
理解できないはずなのに、腰から力が抜けて、気づけばベッドに背をつけていた。
天井のライトを隠すように、礼知さんが身を乗り出した。まるで大きな体で俺を覆い隠すみたいな体勢だった。
バスローブ、ちゃんと仕事しろ!
俺が乱したせいだけど、八つ当たりしたくなった。
たくましい肩、滑らかな胸筋。バキッと割れた腹筋の割れ目、どこもかしこも目の毒だった。
「君が……」
ゆっくりと瞬きしながら、礼知さんが何か言いかけた。
彼は細く重たい溜息をついて、ぎこちない動きで身を起こす。
「ベータで良かったんだ」
俺は視線だけで彼の動きを追った。
「えっと……?」
「君の尊厳を、傷つけたくはない」
あ、と。声を立てそうになった。
俺は、呼吸の乱れがどうか彼にバレないようにと、願った。
そうだ、何も起こるはずがない。
でも俺今、少しだけ――。
衣擦れの音が聞こえた。礼知さんがバスローブの乱れを直しているところだった。気まずくて、俺はさっと視線をそらした。
その間に、彼は隣のベッドに移動していた。俺と向き合うように座って足を組み、片手で顔を隠すようにしてつぶやいた。
「だからいっそ――」
彼の指先がわずかに震えているように見えて、俺は慌てて半身を起こしたが、それ以上は身動きできなかった。
アルファのフェロモンが、この部屋に満ちている。
けれど彼は今、暴れ出しそうなそれを必死に押さえつけようとしているように見えた。
「彗だってその方が安心じゃない? アルファを捨てたほうが」
アルファを捨てるって……。
去勢!
そこにつなげちゃう!?
何だって彼は、そこまで自分を追い詰めてしまっているんだ。
まさか――。
カラカラだったはずの喉がごくん鳴った。
礼知さんは顔を半分隠したまま、瞳だけはじっと俺を捕らえていた。
彼の声は弱弱しく掠れていた。
「和倉とも縁を切って、ただの礼知としてなら……彗は受け入れてくれる?」
どうしてだろう。その時俺の脳裏をかすめたのは、中学生時代の礼知さんの写真だった。
王子様スマイルを身に着けたあの頃。
あの頃から隠し続けていた彼の一番弱いところを、今、俺にさらけ出している。
そんな気がした。
俺、逃げたままでいいのかな。
彼に、ここまで言わせて。
噛んでしまっていた唇を無理やりこじ開けた。
「俺、……俺は――!」




