39 大事になってる
「彗!」
俺、運動神経にはそれなりに自信があった。
徒競走だって、学年で三位くらいだったし。
でもそれはあくまでベータとしてであり、アルファの本気には敵わないのだと、彼の腕の中に絡めとられて思い知った。
混乱の渦の中、真っ先に伝わってきたのは彼の体温だった。
「――って、冷たっ! 礼知さん、いつからあそこにいたんです?」
礼知さんは答えず、ますますきつく俺を抱きしめた。
本当に、どうしてここに?
なんだかまるで現実感がない。
「ほ、本物ですよね……?」
「偽物でも出たの?」
「俺の脳内には大量発生してますよ! ――じゃなくて、どうしてここが?」
疑問は渦巻くが、その時ちょうど人影が差した。どうやら教会の閉館準備にやってきたようだ。
抱きすくめられる俺を見て、キョトンとしている。
「とにかく、いったん離れましょう! 風邪を引きますよ!」
「彗が温めて」
「場所! せめて場所を変えましょう!」
「逃げない?」
「う……、ひとまずは」
礼知さんは俺の手首をがっしり握って、坂を下り始めた。連行スタイルだった。
諦めモードでついていくと、彼は不意に足を止め、教会を振り仰いだ。
「半分は賭けだよ。彗が以前、ここに来たいと言っていたから」
覚えていてくれたんだ……。
胸の奥がじんわりと温かくなった。
礼知さんの視線は、いまだ教会に向いている。
「ほんの百年ほど前までは、アルファとオメガであっても、同性同士の結婚は禁じられていたんだ」
また話が飛んだので、俺はキョトンと彼を見つめた。
けれど、彼の目が再び俺を映した時、息が止まるかと思った。
その視線に、勝手に、熱のようなものを感じ取って。
「今は誰も何も禁じていない」
静かな声が耳に残って、歯の根が合わなくなった。
おかしなことに、俺にはそれが、告白めいて聞こえた。
頭に余計な血が回らないように、俺は急いであたりを見回した。
「なんかこう、誤解が! またあらぬ噂が蔓延しちゃいますよ!」
「ああ……」
礼知さんはくだらないとでも言いたそうな顔で笑って、今度こそ歩き始めた。
「私が、ベータの尻を追いかけ回しているとかいうやつ?」
礼知さんに下品な言い方をさせてしまって、俺は思わず顔をしかめた。
けれど彼の方はあっさりと「噂じゃないよ」などとあくまでも軽い口調で言った。
「実際、こうして君のことを追ってきただろう?」
「否定してくださいよ! 妙な関係を疑われてるんですよっ。よりによって――」
そのときなぜか一瞬、言葉がのどに引っかかった。
そしてようやく絞り出した声は、かすれて、ひどく情けないものだった。
「……俺なんかと」
坂の向こうから観光客らしい一団がやってきて、道端で立ち止まる俺たちを怪訝そうにのぞき込んだ。
彼らが追い抜いて行ってようやく、礼知さんがつぶやいた。
「俺、なんか……?」
彼はこちらに背を向けたままで、声には苛立ちがこもっていた。
俺は、叱られるのを恐れて反射的に叫んでいた。
「だって、そうじゃないですか! 俺の存在が、礼知さんを貶めてる」
雪でぬれた路面を見つめながら、自分の言葉を反芻し、本当にそうだと実感する。
今すぐ離れなきゃ。
腕を引こうとしたら、さらに強い力で握りこまれた。
「礼知さん……」
長い沈黙のあと、重たい溜息が聞こえてきた。
「貶める、か。……そんなに遠いのかな。彗にとって、私は」
胸がギュッと痛かった。
俺、矛盾している。彼を突き放さなきゃいけない。それが彼のためだとわかっている。だけど、彼を、傷つけたくない。
どうするべきか答えを出せないまま、そろりと顔をあげると、彼は片手でスマホを操作しているところだった。
何度目かのコール音のあと、彼はきっぱりと相手に告げた。
「彗を捕獲した。作戦終了だ」
「礼知さん、いったい誰に……」
「ちゃんとついてきたら、全部説明する」
おとなしくついていった結果、どさっとベッドの上に放り投げられた。
靴はとっくに脱がされて、入り口付近に乱雑に転がっている。
礼知さんはチェストのトレイに鍵を置き、ゆったりとした仕草でコートをかけた。
「あの、体も冷えてるでしょうし部屋を取るのはいいんですけど、ここ、ツインですよ」
「監視を緩める気はない」
「そんな人を監視しているみたいに――いや、今バッチリ監視って言いました!?」
「彗。逃げようなんて思わないほうがいい。君の大切な先輩たちが、ドアの前で寝ずの番をする羽目になるよ」
「それめっちゃ恨まれるヤツ! っていうか先輩たちが来てるんですか!?」
「紗乃幌の便利屋に片っ端から声を掛けたからね」
「大事になってる!?」
「彗、騒いでいないで脱いで」
「へ?」
「上着のことだよ。かけるから」
「自分でやりま――」
「そこを動かないで。今君が自由に動けるのはそのベッドの上だけだよ」
あれー? 笑顔だけど、目が笑ってないな。
俺の安物のジャンパーを、やけに恭しくハンガーにかけてから、彼は隣のベッドにすとんと腰を下ろした。
「それからね、彗。彗の声はいつまでだって聞いていたいけど、今は最優先で答えて欲しいことがあるんだ」
優雅な笑みを向けられて、こんな時だというのに、俺はうっかり見惚れてしまった。
それが見抜かれたのか、礼知さんはすっと笑みを消した。
「どうして逃げたの?」
背中に汗が伝った。
寒いと思ったら、彼の方がもっと寒いはずだと思い出す。
逃げたい気持ちがなかったとも言えないけれど。
「話の前に! 風呂に入ってください! こんなに冷え冷えじゃ、心配で話なんてできませんよ!」
「そうして欲しいなら、早く答えたほうがいい。君の答えを聞くまでは動かない」
追い詰められた俺は、一番答えやすいものから口にした。
「俺がいたら、社のみんなに迷惑をかけるからです!」
「だったら君のいる会社をつぶせば、懸念もつぶれるかな?」
「困ります!」
そんなこと、礼知さんがするはずもない。
けど俺はパンク寸前で、言葉を選んでいる暇も余裕もなかった。
「本当は俺、礼知さんから逃げたんです! 礼知さんが好きだから!」
ぶちまけてしまってから、俺は口を塞いだ。
怖くて、礼知さんの顔を見れなかった。
それなのに、口は止まってくれない。
「だけど、こんなこと周りに知られたら――」
「知ってるよ」
優しい声が耳元に届いた。
おそるおそる顔をあげると、彼は何をいまさら、みたいな顔で苦笑していた。
「……え?」
「みんな知ってる。祖父もそうだし、君の会社のみんなだって。……隠してるつもりだったの?」
「いやそういう、推し活的な好きではなくて――」
あれ? これ……言う必要あるか。
混乱のあまり、うまく呼吸もできずにいると、礼知さんはくしゃっと俺の頭を撫でた。
「じゃあ、少し温まって来ようかな」
「へ……?」
しばらく考えてようやく、彼の指が浴室に向いていることに気付いて、カクカクと頷く。
「逃げたら裸だろうが追うから」
冗談なのか本気なのかよくわからないことを言って、礼知さんが立ち上がる。
シャワーの音が聞こえ始めて、体から一気に力が抜けた。
せめて今のうちに、気持ちを整理しなきゃ。そう思うのに、何も考えられなかった。
心臓だけが、いつまでもうるさかった。




