第二十一話「桜梅桃李 ーおうばいとうりー」④
李々視点です。
遅れて風呂に入ろうとした彼女が見たのは……?
更衣室に入ろうとした瞬間、わたしは目を疑った。
桜ちゃんが、あられもない姿で立ち尽くしていたのだ。
桜ちゃんの裸なんて、眼福でしかない。
すらりと引き締まっていながら、女性らしいたおやかさを秘めた美しい玉体。性的ないやらしさなど欠片もない。もはや至高の芸術の域に達している。
それなのに、わたしの目は裸どころではなくなった。
桜ちゃんが、壁を拳で殴りつけたのだ。
「――――ふうぅぅぅ」
桜ちゃんが。真っ赤な顔で息を吐き出した。何かに抗うように、必死に深呼吸を繰り返している。
初めて見た。
あんな普通の女の子みたいな、桜ちゃんの顔。
壁を殴りつける辺りはやっぱり桜ちゃんだけど、あんな風に顔を赤くして取り乱すなんて初めてだ。わたしの前ですら一度もなかった。
(…………やっぱり、そうなんだ)
桜ちゃんは、葉月さまのことが好きなんだ。
異性として、意識し始めたんだ。
心の中で呟いただけで、空しくなった。分かっていたことなのに、それが確信に変わっただけなのに、どうすればいいのか分からない。
やっぱり、ろくなものじゃない。わたしが見る未来なんて。
よりによって、桜ちゃんと蛍さまの会話が見えてしまうなんて。どうしても気になって、口の動きを読んでしまうなんて。桜ちゃんの人間らしい心の変化を、親友として祝福できないなんて。自分が男だったら葉月さまなんかより……などと、無意味なことを想像して死にたくなるなんて。
本当に、わたしなんて、ろくでもな――――
『李々? 何をしてるの?』
後ろから声をかけられた。
否。花鶯さまに、後ろから声をかけられる未来を見た。
(…………まずい)
暑さあたりで倒れた花鶯さまだが、思いのほか早く回復したのだ。風呂にも問題なく浸かれるそうだ。
だから花鶯さまも、じきに更衣室に来る。
そうしたら今の桜ちゃんを目撃される。顔を真っ赤にして、動揺しているところを花鶯さまに見られてしまう。
それは、非常にまずい。
まずいまずいまずいまずい!!
巫女の使命で頭がちがちの生真面目女に、この状況を見なかったことにする柔軟さなどない。今すぐ排除――この場から遠ざけなければ!
わたしは足音を立てないよう細心の注意を払いつつ、即座に更衣室から離れた。
そしてわたしの予知通り、花鶯さまは更衣室へと向かっていた。わたしに気付いた花鶯さまが足を止め、目を丸める。
「李々? あなた、先に風呂に入ったはずじゃないの?」
「それが、仕切りに穴が開いていたようでして。ただいま修復中とのことですから、それまで時間を潰しましょう」
「え、穴? それはもう直ったって菜飯が――」
「新たに出てきたみたいですよ。だから直るまで、二人でお話でもしましょうよ。ほらほら、あそこにちょうど部屋もあることですし」
花鶯さまの思考を遮る勢いで、背中を押して風呂場から遠ざける。
案の定「ちょっと、身分を弁えなさい!」と喚き出したが、それどころではない。桜ちゃんの尊厳がかかっているのだ。
わたしは半ば強引に、談話室へと花鶯さまを押し込めた。
普段は下々の者たちが憩いの場として使っているが、別に巫女を入れてはならないという規則はない。規則があったとしても関係ない。
「まったく……巫女をこんなところに押し込めるなど、前代未聞だわ」
「いいじゃないですか。今日は無礼講ですよ」
「それは風呂場での話でしょう! まったくもう」
ぐちぐちと文句を言いながらも、人を呼ぼうとはしない。
多分、わたしの意図を半分くらいは察したのだろう。
頭はうんざりするほど固いが馬鹿ではない。生真面目なだけで、他人の気持ちには人一倍敏感なのだ。本当に、昔から変わらない。
「……ねぇ、かおちゃん」
花鶯さまの顔が、あからさまに引きつった。
「ちょっと! その呼び方止め――」
「えー、いいじゃん。せっかく二人きりになったんだから、孤児院にいた頃みたいにお話しようよ。かーおちゃん」
「…………ここにいる間だけよ」
花鶯さまが溜め息をついて、腰を下ろした。わたしもその隣に座る。
「それで? 何の用?」
「うーん、別にこれといって用があるわけじゃないんだけど」
「そんなわけないでしょう」
呆れ顔の花鶯さまに、いやいやと作り笑顔を向ける。
(ないんだよなぁ。本当に)
こちらから話を持ちかけてなんだが、花鶯さまとは特別仲良くしていたわけではない。何度か話をしたことはあるけど、これといって思い入れもない。かおちゃんという愛称も、他の子たちがそう呼んでいたから知っているだけだ。
ただ一時期、同じ孤児院にいた。それだけの関係でしかない。そんなことは花鶯さまだって分かっている。ただ、わたしに気を遣っているだけだ。
(……相変わらず、馬鹿な女)
一夜限りの女が産み落とした子で、緋家に迎えられるまではただの庶民だった。そんな過去を知っているわたしとは、本当なら無駄に接触したくないはずだ。
それなのに、こうしてわたしに気を遣う。
国のための生き神なのに、人への情を捨てられないのだ。そのくせ、律儀でくそ真面目だから、誰よりも巫女で在ろうともがくほかない。
(あ、そうだ)
周囲に人はいない。人が来る気配も、予知もない。
それなら、ここで話してしまっても問題ないだろう。どうせそのうち、言っておこうと思っていたことだ。
「あるにはあるんだけどねぇ。やっぱ話さない方がいいのかなーって」
「もったいぶってないで早く言いなさいよ」
「そう? じゃあ遠慮なく」
念のために言質もとった上で、改めて口を開く。
「蛍さまって、かおちゃんの実の妹でしょう? 本妻の子――」
花鶯さまがわたしの口を押さえた。
文字通り、必死な顔で。
「誰も聞いてないし、誰も来ないよ」
口を押さえられているけど、普通に喋れた。根っからの善人は、こういう時にまで無意識に加減をする。
口を封じたければ、この場で殺してしまえばいいのに。
できるわけないか。
こんな震えた手じゃ、虫一匹も殺せない。
「なんで……知って……」
「ただの情報収集だよ。もっとも、かおちゃんに妹がいるって知らなかったら、分からなかっただろうけど」
「わ、私は、妹がいるとしか言って――」
「個人情報は、むやみに表に出さない方がいいよ? どこで悪用されるか分からないから。まぁ、あの頃のかおちゃんはただの孤児だったもんね。仕方ないか」
花鶯さまの震えが、いっそう強くなる。
「…………何が狙いなの?」
「狙いなんてないよ。こんな情報、桜ちゃんにとって何の価値もないもの。だから、桜ちゃんだって知らない。知ってるのはわたしだけ」
「じゃあ、なんで今、私に……?」
「ついでだよ」
「ついで?」
「そう。二人きりになる機会があったら、忠告しておこうかなって。その程度」
「忠告って……何を?」
動揺しながらも、花鶯さまはわたしの口から手を離した。
「蛍さまはこのこと、知ってるの?」
「…………知らない」
「そんなことだろうと思った」
蛍さまが下女だったというのは、おそらく嘘だ。
夜長姫の顔の記憶だけを、民衆から綺麗さっぱり消すなんて芸当ができるのだ。人一人に偽の記憶を植え付けることくらい、造作もないだろう。
本当に、御三家というのはどこもかしこも闇が深い。その中でも緋家はまだ可愛い方だと言うのだから、反吐が出る。
「だったら、言っておいた方がいいと思うよ」
「言えるわけないでしょう……!」
花鶯さまの声に、怒りが芽生えた。もっとも、そんな震えた声では威嚇する小動物にしか見えないけど。
「それでもだよ。黒湖様の加護とやらで不老不死に近いとはいえ、ずっと一緒にはいられないんだから」
「そんなの、当たり前――」
「わたしもね、双子の妹がいたんだぁ。もう死んじゃったけど」
花鶯さまが、分かりやすく驚いた顔をした。
「わたし、地主の娘だったの。でも、うちの親、いろいろと悪さをしてたみたいでさ。身分を剥奪されたあげく鬼として処刑されちゃった。馬鹿だよねぇ。才能も人望もないのに分不相応な欲を抱くから、そうなるんだよ」
花鶯さまの表情が、みるみるうちに青くなる。
蛍さまもそうだ。何を考えているのか一目で分かるし、馬鹿みたいに人が良い。
本当に、そっくりな姉妹だ。
「わたしと妹は親戚の家に引き取られたんだけど、鬼の子供なんて、周りからの風当たり強いじゃん? 親戚の人もみんなおかしくなっちゃって、姉妹共々虐待されて……それで、妹は死んだの」
わたしと妹は違った。そっくりなのは顔だけだった。
わたしと違って妹は、正真正銘の良い子だった。妬ましいほどに嘘偽りのない善人だった。抱きしめたくなるほどに、不器用な子だった。
今、目の前で、瞳孔まで震えている花鶯さまのように。
「わたしが言いたいのは、人はいつ死に別れるか分からないし、死んだら何もできないってことだよ。姉さまと呼んですらもらえなくなる」
「…………」
「視察が終わったら、次に会えるのは一年後でしょう。その間に死んじゃうかもよ? たとえば、夜長姫みたいに」
「そんなこと――!!」
「絶対にないと言える? わたしの妹だって優しくて素直な良い子だったのに、虫けらみたいに殺されちゃったよ?」
花鶯さまが絶句した。まぁ、そりゃそうか。
(…………そろそろ、大丈夫かな)
時間稼ぎは充分した。
桜ちゃんのことだ。今頃、何事もなかったかのように涼しい顔をしているはず。
「忠告したからね。後はお好きにどうぞ」
それだけ言って、首を垂れた。従者の李々に戻るために。
花鶯さまは巫女に戻る余裕もないのか、呆然としたまま座り込んでいる。わたしを見ようともしない。
阿呆面の巫女さまを置いて、わたしは談話室を後にした。
⑤に続きます。
次で、温泉回終了です。




