第二十一話「桜梅桃李 ーおうばいとうりー」⑤
葉月視点です。
温泉後の食事を終えた頃には、すっかり夜が深くなっていた。
ぼんやりと縁側に座りながら、厚い雲に覆われた夜空を眺める。
少しのぼせたからだろうか。頬に当たる夜風が、いつになく気持ちいい。こんなにも湯に長く浸かったのは、いつ以来だろう。
梟の鳴き声が、どこからともなく聞こえてきた。
(…………まだかな)
眼前の小さな井戸の中で、湯がぽこぽこと心地良い音を立てている。井戸を覆う木製の格子蓋の隙間から、ほのかに湯気が上がっていく。
傍らには卵が二つ。
今回の試合の優勝賞品、温泉卵用の卵だ。
本来は優勝した花鶯組のものだけど、花鶯さん曰く『不本意だった』とのことで、結局みんなで分け合うことになったのだ。花鶯さんには申し訳ないけど、ありがたい。これで桜さんと温泉卵を食べることができる。
だけど、当の桜さんがまだ来ない。
僕の部屋に来てもらえるよう、菜飯さんに言伝してもらったけど、仕事が忙しいのだろう。一向に姿を現さない。
やり方は三郎さんから教わった。先に食べることはできるけど、それは寂しい。外の大きな湯井戸を囲んで、みんなでわいわい食べるという選択肢もあるけど、僕は桜さんと二人で、静かに味わいたい。
(食事は済んでるから、お腹は空いてないけど……)
いかんせん、温泉卵の誘惑が辛すぎる。
部屋に戻る前に、外でわいわい組のみんなが温泉卵を作る様子を見てしまったせいか、さっきから体がうずうずして仕方な――――
「ごめん、待たせたわね」
後ろから、凛とした声がした。
喜びのあまり、心の臓が飛び跳ねた。
その勢いのまま振り返り、足を縁側の石段に思いきりぶつけてしまった。大したことはなかったけど、思わず「あいた!」と声が上がった。
「ちょ、大丈夫っ?」
「大丈夫大丈夫! それより早く食べよう!」
「……本当に待たせちゃったみたいね。じゃあ、さっそく」
桜さんが苦笑しながら、僕の隣に腰掛ける。それから、傍らにある卵を手に取った。僕も同じく卵を手にする。
付属の袋に卵を入れ、湯井戸へと近づく。湯気が顔全体をふわりと包んできた。
袋ごと格子の隙間から入れて、湯に浸す。それから落とさないよう、袋の紐を格子に結びつけた。願いごとを込めながら、丁寧に。
(なんだか、おみくじみたいだ)
三郎さん曰く『ただのおまじない』らしいけど、僕は好きだ。願いが叶うかどうかは別として、縁結びみたいで楽しい。わくわくする。
目を閉じて、湯井戸に手を合わせる。
ちらりと隣を見た。
桜さんは、まだ目を閉じている。手を合わせているだけなのに綺麗だ。存在そのものが尊い。僕も再び、目を閉じた。
長いようで短い時間が、湯けむりと共に流れていく。
目を開いて、隣を見る。
桜さんと目が合った。なんだか可笑しくなって、二人して笑い合った。
「桜さんは、何を願ったの?」
「秘密」
「えぇー」
「葉月はどうなの?」
「僕は…………秘密かな」
「聞いた意味ないじゃない」
桜さんがまた笑う。僕もつられて笑った。
「本当に久しぶりね。こんなにゆっくりしてられるのは」
「従者って、四六時中忙しいもんね」
「忙しいのは葉月もでしょう。日夜、巫女の訓練やら舞の練習やらに明け暮れて」
「僕はまだ、休んでいられる時間があるから」
他愛のない会話を、笑い合いながらふわふわと続ける。
湯の立てるぽこぽことした音と、頬を撫でる柔らかい夜風。体で感じる全てが気持ち良くて、夢見心地だ。
「あ、そろそろ良いんじゃない?」
桜さんが身を乗り出す。僕も立ち上がり、湯井戸に近づいた。
湯けむりに包まれながら、格子に結んだ紐を解く。水気で湿った紐を引っ張って、袋を井戸から掬い上げた。袋から湯が滴り落ちる。
袋を開くと、ふわりと湯気が上がった。
すっかり温まった卵が、袋の中から顔を出した。
袋から卵を取り出し、付属品の器具で殻をコンコンと叩いて上だけをくり抜く。殻の中から、とろとろの白身が顔を出した。
(うわ…………っ)
すごい、これ……プリンみたいだ。
見た目からして、僕の知っているコンビニの温泉卵とは違う。完全に別物だ。
「いただきます」
桜さんがその一言と共に、小さな匙で卵を掬った。匙から零れそうな白身を吸うように食して、はむはむと唇を動かす。
桜さんの頬が緩んだ。
その表情だけで、どれだけ美味しいか伝わってくる。卵の熱のせいか、湯けむりのせいか、頬がほんのりと赤い。唇の端には、白身のかけらがついている。
桜さんと、目が合った。
そして気が付いた。
桜さんの顔に、指を伸ばしかけた自分に。
「葉月?」
「あ、えっと…………唇が」
「唇? あぁ……」
桜さんが、自分の唇にそっと触れた。
指でさぐって、唇の端についた白身をぺろりと舐め取る。
「葉月も食べたら?」
「――――あ! い、いただきます」
熱くなった顔を見られないよう、慌てて視線を逸らす。
目を奪われた。心の臓を持っていかれた。
仕草は野性的なのに美しい。色気とかそんな次元じゃない。こんなことがあるのか。温泉卵を食べているだけなのに。
(これは、危険すぎる……っ!)
邪な自分を祓うべく、目の前の温泉卵に集中する。
殻から掬い上げた白身が、とろけるような姿を見せつけてきた。匙が小さいから、零れそうになる。落とさないように唇で吸った。
柔らかい。想像以上の柔らかさだ。舌触りが良い。
「美味しいでしょう。ここの温泉の成分には塩が含まれていてね、だからそのままでも食べれ――――」
桜さんの表情から笑顔が消える。
気まずそうに僕を見て、うつむいた。
「…………ごめん」
「気にしないで。僕は大丈夫」
笑ってみせたけど、桜さんの表情は依然として暗い。逆に悪いことをしてしまったような気がした。
確かに、味を感じられたら、もっと楽しめるのだろう。
でも、そうじゃない。
そんなことは、どうでもいいのだ。
「僕は、桜さんが隣で笑ってくれているだけで、すごく幸せだから」
桜さんが驚いたように目を見開く。
そして、笑ってくれた。
僕のために作った笑顔だろうけど、嘘じゃないことは分かる。僕の言葉を、嬉しいと思ってくれたのだと。
桜さんが再び、殻から卵を掬う。今度は黄身が混じっていた。
掬った卵を口に含んで、頬を緩める。
その笑顔を見ながら、僕も再び卵を掬い取った。
『桜さんは存外、普通の人だと思いますよ』
ふと、菜飯さんの言葉を思い出す。なぜ苛ついたのか、あれから考えた。
嫌だったのだ。
桜さんの強さを、否定された気がして。
あの強い瞳を、軽んじられたような気がして。
桜さんのことを何も分かっていないと、言われたような気がして。
(でも……その通りだったのかも)
桜さんは強い。
僕なんかよりずっと強くて、逞しくて、気高くて。
だけど、それだけじゃない。味覚を失った僕を見て気まずくなる。そんな普通の女の子なのだと、今になって気付いた。気付かされた。
悔しかった。
菜飯さんの方が、桜さんを理解しているような気がして。
(……温泉卵を食べながら、何を考えてるんだか)
今の自分を想像して苦笑した。桜さんに悟られないよう、また卵を口に含む。
桜さんは、自分のことを『鬼』だと言う。
世間から見たら、そうかもしれない。桜さんの重ねた業が、人であることを許さないのかもしれない。
僕は今まで、桜さんならそれでも大丈夫だと思っていた。
だけど、そうじゃなかったとしたら?
本当は苦しいのに、弱さを表に出せないだけだとしたら?
(…………それは、駄目だ)
凛とした強さに酔いしれる。そんな甘い蜜だけを吸うような真似は許されない。それで桜さんの感情を殺してしまうなんて、あってはならない。だって僕は、桜さんの笑顔のために生きているのだから。
だからこそ、桜さんの弱さを理解したい。
その弱さを、受け止められる強さが欲しい。
あの日、桜さんが、僕の笑顔を肯定してくれたように。
「――――ごちそうさまでした」
空になった卵の殻を見つめながら、再び想いを込める。願いとして。戒めとして。桜さんのことを、誰よりも理解するために。
梟がまた、どこかで鳴いた。
次回、堅国の視察&蛍の舞編です。第三章の終盤となります。
次の更新まで、しばらくお待ちください。
<各話タイトル解説(第二十一話)>
【桜梅桃李……個性ある花々が、それぞれに花を咲かせること】
今回の花には、二つの意味があります。
一つは、試合の参加者全員です。
各々が温泉を楽しむ姿を、純粋な温泉回として描いております。
もう一つは、タイトルにある「桜梅桃李」に当てはめた「四人の少女」です。
今回は「桜、花鶯、蛍、李々」の四人に焦点を当てた回でもあります。桜と李々は名前通りで、梅は花鶯、桃は蛍を指しています。
ちなみに花言葉と共に、以下のように照らし合わせました。
桜(山桜)……桜
花言葉「あなたに微笑む」「純潔」「高尚」
→人の手で作られたソメイヨシノではなく、古来からある野生の山桜。飾らない美しさを持つ(葉月が抱く)桜のイメージ。
梅……花鶯
花言葉「艶やか(紅梅)」「気品(白梅)」
→花の色で花言葉が違う。紅梅は、周囲を自分の色に染める時(本来の彼女)。白梅は、巫女として振る舞う時。
桃……蛍
花言葉「あなたに夢中」「天下無敵」
→食用として有名。メンタルも体の強さも天下無敵。魔除けとしても有名(巫女としての才能がある)。花鶯に夢中になる。
李……李々
花言葉「誤解」「困難」「甘い生活」「幸福な日々」
→ポジティブな言葉(幼い頃の何不自由ない生活)と、ネガティブな言葉(家族を失った過去)を併せ持っている。
個性ある花々は、思い思いに咲いた先に何を見出すのか。
花たちの行く末を、今後も温かく見守っていただけたら幸いです。




