Faille 15
――患者はよく来る。それは色んな原因を抱える人間が集まる。うつ病、過労、自暴自棄、死にたいという気持ち、不安……、そして多重人格。
ある日、変わった患者が来た。いや、見た目は真面な少年だった。だから学生生活や家族問題で抱えて来たのかと予想していたら、それは全然違っていた。
いや、普通だったのだ。あまりにも普通過ぎて正直対応に困っていた。だから初日は適当にうつ病に対する薬を渡しておいた。
しかしその後も何度かその少年は来ていた。それも、彼1人ではない。親御さんも同行で来る。彼は酷い形相で、下を俯いて僕の前に座っていた。
そして時折『もう死にたい』と口に出す事もある。原因は凶悪な虐めが原因していると表向きでは説明されていたが、彼が抱え込んでいるのはそこではないということを、僕は何となく予想はついていた。
前髪が目を隠すように。時折見せるその瞳は、虚しさそのものを現していた。ちなみに、虐めは女性から受けたと話は聞いている。とにかく軟弱な男で、その辺にいる中学生にも劣る体型と想定してもおかしくはない。彼はずっと長袖を着ていたから、あまり体型を想定するにはちょっと難しかったが。
しかし、彼はある日突然異変を起こした。
途端に明るくなっていたのだ。髪は多少分けていて、茶色にも染髪し、中身も外見も明るい印象しかなくなったのだ。
だからもう僕の精神科には通わないと、冗談を言うような様子で振る舞っていた。だが僕はその途端に起こった事にも見過ごすことはできず、通院を要求した。彼がそれを拒否することはなくなったが、最初の一ヶ月半あたりはずっと同じ対応で終わった。
しかし、逆に言えば一ヶ月半で終わったのだ。
そしてある日突然。与謝野氏は変わり果てた表情で僕の元へかけつけた。髪は茶色だった。しかしなぜだろう。明るい格好はしている。なのに前以上に暗い、いや、もう何でもしそうな雰囲気しか漂わない顔だった。
僕は彼の長い診察をし、その状態で直接結論付けた。
『落ち着いてよく聞いてくれ。君は解離性同一性障害なんだ』
『だったら何――どいつもこいつも――』
『いいかい? 多重人格というのを知ってるかい?』
『知らない……。何それ』
『人はね、トラウマを抱えるとそれを忘れようと精神が勝手に別の人格を生みだすんだ。だから、もしかしたら――』
『黙れよ、もう。人格とか、面倒臭いよ。僕は、初めてここに来たはずだ。なのにどうしてそんな適当な事を言われなくちゃいけないのかな?』
そう、彼は完全に記憶を飛んでいた。
その後、与謝野氏は刺殺、そして麻薬密売の疑いで逮捕された。街に存在するストリートギャングも大規模に巻き込まれた惨殺事件だ。
僕の対応に間違いがあったのか、それとも彼の元々の人格に問題があったのか。原因はよく分からなかった。
確かに人は変わっていた。顔つきも、言葉使いも激しく。以前は少し奇抜な少年らしい口調だった。『~だろうが』『~じゃねぇの?』など。
しかしあの時は『~じゃん』『~じゃないかい?』とかだった。何が原因で彼をそこまで変えてしまったのかは、僕には分からなかった。
そしてそれ以来、まだ一度も会っていない――。
医者の話を全て聞いた亜里沙は、礼をして速やかに病院から撤退した。
佳志が典型的な多重人格者であることはこれで証明された。亜里沙本人、その心当たりは十分過ぎるほどにあるからだ。
しかし、そのもう1つの人格がもし先程あったあれだとしたら、普段の人格は一体何なのだろうか?
佳志は確かに怒点が非常に低い凶暴な男だが、言葉遣いだけは奇抜ではない。思い返してみると二人称の時は『お前』『オメエ』で、黙らせたいときは『うるせえ』で終わらす。それ以外は『そうかい』や『~だよ』だ。
本当に野暮な男ならもう少し語尾は汚いはず。医者の話を聞く限り、その細かい口調からも人格の変換は十分見当づけることができる。
そう、気持ち悪いくらいに丸い言葉なのだ。まるで知った言葉を即座に使おうとする海外の人間みたいに。
大規模な惨殺事件……、それは不良集団さえも巻き込まれるという恐ろしい刺殺事件らしい。
あの佳志なら絶対にやりかねないはず。しかし普段の彼ではやらないはずなのだ。亜里沙には分かっていた。
彼は必ず、不意打ちだろうとあるお約束のフレーズがある。
『ではここで問題。今から死ぬのは次の内どっちでしょう?』
これはもう何度か聞いたことがある。亜里沙でさえも口に出してしまうほどに馴染んでしまっているほどに。
彼が人を刺す時には必ず、そう確認する。それはどれも、どう考えても分かる答えなのだ。だから相手が正解をすれば絶対に殺す事はしない。つまり普段の佳志は確かに人を殺そうとはするが、実際のところ人を殺すことはしないはずなのだ。
ゆえに不意打ちで自分を容赦なく刺そうとする彼は、何かおかしいと亜里沙は違和感を感じたのだ。
それに彼は人格が変わった時の笑顔と普段の人格時での笑顔では全然違うのだ。変わった時の笑顔は、確かにさわやかだが、どこか作っているような感じがする。
しかし普段の人格時での笑顔は、必死に口を釣り上げようとした彼なりの成果を現しているように思えてくるゆえ、真実な笑みと受け入れることができるのだ。だからその笑顔の価値観さえも見分けがつく。
彼が女性を気嫌いする理由は単なる虐めだけではない。それは医者の話しからしてもそんな感じはしていた。
だが、その真実が未だかつて亜里沙は予想さえできなかった。そもそもなぜ多重人格に陥ったのか。大きなトラウマを抱えて初めて人格は別れるものであって、生まれつきではないはずなのである。
つまり、必ず原因がある。それに越したことはないのだ。
佳志には限りない謎がとにかく詰め込まれていて、亜里沙1人ではとても考え切れず、頭がパンクしそうになる。
「今日もあの野郎とデート……には見えねえな」
路上を歩いていると、後ろから高い声が聞こえた。振り向くと、あの五十嵐が立っていた。
「あの頃の……負け犬」
「負けてねえよ!」
「何でもいいわ。デートっていうの止めてくれない? キャンセルよキャンセル。それより、アナタは佳志の何なの? ライバル? 腐れ縁?」
「ライバルでも腐れ縁でもねぇよ。列記とした敵だ」
「ふーん。それで、五十嵐潤くんは街のストリートギャングのどこに所属するのかな?」
「生憎無所属なんでな俺も。ハッキリ言えばあのクソ野郎と同じだ。だがなぁ、同じ一匹狼でも俺はゼッテェアイツをボコす」
「無所属でも一匹狼でも何でもいいわよ。それより、アンタは何でそこまでして佳志を倒したいのよ?」
「ケイジ……? ……与謝野はよ、前は俺のパシリだったんだよ」
「何ですって?」
五十嵐はビルに持たれ、タバコに火をつけた。
「別に都合の良い話を持ちかけてる訳じゃねぇよ。事実だからな。アイツは本当に俺の事を何でも聞くパシリだった。それも、アイツから弟子入りしてきたからよ。学校も行かない俺だったが、アイツも学校には行っていないプー太郎だった。だから次第に俺もアイツに気を許した訳だよ」
「そ……それで?」
「アイツはある日、俺にある薬を渡してきた。風邪で悩んでいた俺に訳の分からない薬を持ちかけてきたが、その時は本当にひどかったからひとまずそれで何とかしようとした。だけどそれは全然関係なかった。風邪が治るというか、また別の症状が起きた気がしたのだ。アイツからもらった薬をどんどん要求するようになって、俺は薬物の中毒者になった。俺は自分が取り返しのつかないところまで来てるという事に気付き、そして与謝野をぶっ潰そうと思った時には、既に奴は例の惨殺事件で捕まってた。だからよ、たった一年で出れるはずがねぇと俺は思ってたんだよ。なのに既にアイツはあの公園に座ってた。だから俺は、今がチャンスだと思い、声をかけた」
五十嵐は徐々に怒りをこみ上げる声へと流れて行った。
「けどよぉ、アイツはまるで俺の事なんて真っ新に忘れたかのようなふるまいをしやがって……。俺は本気でぶっ殺してぇ気分になったよマジで! だからムカついてんだよ! あんなに媚びて、あんなに俺を慕ってた奴にナメられるって思うと滅茶苦茶ムカつくんだよ! だから俺は、アイツを殺す。マジで殺す。意地でもぶっ殺す! 警察なんてもう怖くねぇ。俺だって何度か鑑別所行った身だからそこらへんは何とでもなるんだよ」
それが五十嵐と佳志との関係だった。
しかしそれは佳志を変える原因ではないはずなのだ。自ら弟子入りしたとなると、その原因も不可解ではあるが。
五十嵐は亜里沙に警告した。
「あんまりアイツと関わらない方がいいぞ」
「何でよ?」
「いずれ殺されるからに決まってんだろ。アイツは人をハエかアリンコにしか見えてねえんだよ。きっとお前もその1人だ」
「彼が人をそういう目で見てるとは、私には思えないけどね」
「何だと? 俺の方が付き合いが長いんだよ。ちょっとツルんだだけで、分かる相手じゃねぇんだよ!」
「………そうね。だからあと一週間。あと一週間だけでも彼と分かち合う時間が私には欲しい」
「どうしてそこまでしてアイツと関わりてぇんだよお前は!」
「同僚だからよ。それに、私はアイツに大きな借りを作ってる。それに今私は彼の全てを調べつくす作業をしてるのよ。今誘導尋問されてるの、知ってる?」
「くっ……。俺は認めねぇ。あんな奴が警察の端くれだなんてよ」
五十嵐は路上に唾を吐き、その場から立ち去った――。
しかし、亜里沙は彼の肩を叩き、笑顔でこう言った。
「未成年の喫煙は、補導対象って知ってるかな?」
その後、彼は署に連行された。
――何か、色々知った気がする。私は何も知っていなかった証拠だ。単なる危険人物かと思ったら、典型的な人格破綻者だったとは、到底予測がつかなかった。
それでも私は、彼が本当に人を殺したくて惨殺事件を行ったとは、思いたくはなかった。なぜなら彼は、不甲斐ない私を素手で打って叫ぶほどに必死に、助けてくれたから。
一見悪者にしか見えない彼に、ほんの一瞬だけ正義の味方になってくれていた瞬間が私には見えた。
だから、どんなに汚い人間だろうと私は借りを返さなければいけない義務がある。
それに……、危ない男だけど、彼がいなくなる時の空白感、そして虚無感は身体全体で感じ取れるほどに値する辛さだったから――。
亜里沙がそう独りで悟っていると、次第に本当にその虚無感は倍増し、次第には『会いたい』という気持ちさえも芽生えてきた。
――なぜだろう――彼は私の何かを思い出させてくれる――だから会いたい――今すぐにでも――。
彼女は目を閉じてまっしぐらに、その宛先のない道を走り込んだ。走れば何かに会えるような気がする。そう彼女はわずかに期待をしていた。
「アイツなら今、俺の若い衆が徹底的に叩きこんでるよ」
ダッシュの途中、見たことのある厳つい巨漢が彼女にそう言った。亜里沙は途端に急ブレーキし、その巨漢に話を聞いた。
「アンタ、さっき佳志に名乗った……ヨサノ?」
「あぁ。俺は紛れもなく、与謝野慎だ。あの野郎、まさか俺らGSF集団にたった一人で立ち向かってくるとは思わなかったよ」
「どこにいるの!?」
問うと、慎という男は素直に場所を教えた。
★
GSF集団の溜り場は黄金美地区のコンテナ埠頭。人は誰も来ない。奴らにはもってこいの溜り場である。
亜里沙が駆けつけた時には、既に黒ずくめの男達は集まっていた。そう、傷だらけの佳志を囲んで。
「何だコイツ? 血蒼くね?」
「うっわ気色悪! 人間じゃねぇだろマジで!」
男達はそう彼を嘲笑っていた。
「お前らどけ」
慎は舎弟たちをドカし、変わり果てた佳志の胸ぐらを掴んだ。
「テメェ、どこの誰だか知らねぇが、俺らは別にお前に恨みがあった訳じゃねぇんだよ。なのにお前は自ら喧嘩を売って来た。どうやら加藤を代理とした集会も邪魔したそうじゃねぇか」
「………………」
頭から血は流れおち、佳志は口を開く力さえ残っていなかった。
当然、その光景を見ていた亜里沙は激怒した。
胸ぐらを掴んでいる慎の背中を思い切りドロップキックした。佳志はようやく亜里沙の存在に気付き、目を見開いた。
「…………オメエ……何やってんだよ」
「アンタは黙ってなさい! ここは私が何とかするから」
「何とかしてどうにかなる問題じゃねえぞ……。オメエは警察なんだから拳銃でも何でもやってれば――」
「うっさい! 私をバカにしないでよ! 黄金美町ではただの傷害罪では逮捕されないのよ。それは一般人宛でも同じ。だから今コイツらを連行してもすぐに出れてしまう。だから……」
亜里沙は黒ずくめの男達に向けて構えた。
「こう見えても、アンタよりは強い方よ」
佳志の瞳には、信じられない光景が映っていた。
彼女が言ったのだ。『GSF集団は街で一番強い』と。なのに、その連中にも劣らないその格闘技術は半端じゃなかった。
次々と油断していた男達はアスファルトに頭をぶつけ、コンテナに頭をぶつけた男は失神さえもした。
残りは幹部とアタマの慎となった。さすがに彼女一人ではどうにかなる相手ではないという事は、誰でも承知していた。
そう確信した佳志は懸命に立ち上がった。
「………オメエに一つ聞きたい。どうして俺を助けた? 俺とオメエは元々敵同士。しかもさっき俺はお前に、酷い事をしたはずだ」
「アンタが、大好きだからよ」
亜里沙は佳志の方を向かずにそう答えるが、『息子代理人としてね』と付け加える時は少し彼の方を振り向いて囁いた。
最初は不気味な形相をしていた佳志も、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「そうかい。まぁそれなら仕方ないか」
「分かってくれて何よりよ。じゃあ、先輩の私の指示に従いなさい。私はGSFの幹部を相手する。アンタは……、同じ苗字の人間を何とかしなさい!」
その指示を受けた佳志は、まるで今までやられた体力が全回復したかのようにその辺に落ちている一メートルほどの鉄パイプを持ち、亜里沙よりも速く、GSF集団のテッペンである与謝野慎の首を狙った。
鉄パイプが彼のコメカミに直撃する――と思いきや、それはなかった。
慎はその棒を片手で押さえたのだ。
「そんなんでこの俺を倒せると思われちゃ、GSF集団は成り立たねぇんだよクソガキ!」
慎は棒ごと振り回し、佳志を倉庫の壁に投げた。
その光景を蹴散らす最中である亜里沙は見てしまい、一瞬動揺してしまった。亜里沙も隙を見せ、男達に身柄を確保されてしまった。
「へっ、愛のパワーで俺ら倒せると思ってんじゃねぇぞこのアマ」
「このっ……! 離せ!」
奴らは堅い靴の足の裏で彼女の腕、足首を押さえつけ、完全に動けぬ状態となってしまった。
佳志は結局失神してしまい、慎の相手ではないということを証明した。
慎は「敵でもない」と唾を吐いた。