Faille 16
――惨めだ。
――無念過ぎる。この人生。
――――俺以外の人間は全員、ゴミ屑にしか見えない。それにしか見えない瞬間が必ずある。
――だから俺は、人間というものを信じない。信じれるのは自分のみ。ただそれだけだった。
――俺はどんなに鍛えても強くなれず、昔から軟弱な生き物だ。だから強い生き物に狙われやすい。小中学校の頃、俺は常に決まった女からイジメを受けていた。毎日金を揺すられ、万引きをすることを命令され、何が何でも俺の責任に押し付けられ、ある日優しくされたと油断した末路にはその女の男にボコボコにされた。
男からの仕打ちも多かったが、俺は異性から見下されるその惨めさは尋常じゃなかった。だから俺はいつも独りで本を読むことしかできず、クラスでは隅でジッとしてる事しかできなかった。その感覚と牢の奥の感覚とでは、あまり大差がなかったのだ。
そして中学生のある日、初めてラブレターというのを貰い、俺は少し期待していた。というか、その日はルンルンとしながら教室を入っていくくらいにテンションが高かった。
しかし下校後、約束の倉庫の中に俺は行ったが、そこには複数の女が立ち構えており、俺は嫌な予感を察しすぐに倉庫を出ようとしたが、その時は既に鍵をかけられ、遅かった。
酷い目にあった。無理やり脱衣され、上半身のありとあらゆる部位を彫刻刀で削られ、泣き叫ぶほどに痛い仕打ちを受け、下半身を撮られて弱味を握られた。俺はもう逃げ場などなかった。
――バカらしい。恋愛? 結婚? お付き合い? ナメてんのか? 反吐が出る。
女なんて所詮、中身はウジ虫より汚いクソに過ぎなんだよ。
けどそんな俺にも、信じれる人間が1人だけいた。
実の姉、与謝野愛衣。姉貴は泣いて帰って来る俺を毎日励ましてくれて、それは小学校の高学年になってからずっとだ。低学年の頃は母もいたので、それで十分だったが、なぜか両親の記憶はあまりない。
だから俺は姉貴だけは誰よりも、強いて言えば自分よりも信じていた。
彼女はとある詐欺に巻き込まれ、今では五百万相当の借金を抱え込んでいた。だから中学生の俺は毎朝、学校前に新聞配達をし、懸命に銭を集めていた。それは小学校の頃からやっていたのだ。
体力が決してあるわけではない。根性もない俺は、それでも悩み抱える姉貴の力になりたかった。
新聞配達ではどうしてもすぐに五百万は集まらず、俺は邪道を進んででも早くお金を集めようとし、惨めな中学を卒業した後、俺はある仕事に手を染めた。
ヤクザ絡みの、麻薬密売だ。しかし自分は密売者とバレてはいけない。だから俺はさり気なく、とある男を狙って売りさばくことにした。
黄金美町では一匹狼として有名だった、五十嵐潤だ。どこのチームにも属していないため、妙な噂が立たないことを保証し、彼に近付いた。
巧妙に彼の弟子入りをし、潤が風邪を引いた時に俺は奴に麻薬を売った。もちろんそれを麻薬と言って売ってはいない。
計算通り、彼はどんどんそれに依存し、俺にその麻薬をどんどん買っていき、知らぬ間にか自分の懐には七百万もの大金が集まっていた。
つまり、潤は恐らく闇金で多額の借金をして俺の商品を買ったということだ。彼が普通の銀行で借りれる訳がない。
大金を用いて姉貴の部屋に行こうとすると、ドアの奥から妙な笑い声を俺は聞き逃さず、ドアに耳を当てた。どうやら誰かと電話しているようだ。
『ははは、本当ね。ちょろいよマジで…! つーかまさか四年経っても気付かないバカ弟だったとは、私としてもある意味幸せですわ。ん? 佳志? アイツなら今働いてるよ。私の宛もなく使う金。あいついっつもウザいんだよねー。一々泣きついて「姉貴の分は俺が何とかする」とか正義ぶっちゃってさー。完全に黒歴史っしょ! マジ笑えるんですけど。まぁまだ金集まってないようだから、私もあと何年かあの泣き虫優しく相手しなきゃいけないわー』
どの単語をどう置き換えても、俺には同じセリフにしか聞こえなかった。全身が震え上がった。それは裏切られた震えなのか、何かに対する武者震いなのかは分からない。
とにかく俺はドアノブを握り、姉貴の部屋に入った。
彼女は『何でいるの?』と言った驚きの表情を浮かべ、絶句している俺は、彼女に何を伝えていいか分からなかった。裏切られるのは慣れていた。しかし、一番信頼している人間から派手に裏切られた時、俺はどう反応していいのかまるで思いつかず、気が付いた時には彼女の胸に刃物を奥まで差し込んでいた。
その瞬間、俺の身の回りの人間が途端に、もう人間でさえ見えなくなった。殺そうと思えばすぐに殺せるアリのような存在へと、世界が変わった。
しかし、そう目論んだ途端に俺は意識を失った。
気が付いたら、俺は見たことのない部屋に、見知らぬ女と寝ていた。状況が把握できず、まず自分の両手の平を確かめた。変わりはない。
適当に置いてある鏡を見た。変わりはあった。
『何だこの……髪色は……』
紛れもなく茶色だった。いつからそんな髪にしたのかは当然覚えていない。顔は変わっていないようだ。生まれ変わった訳ではない。
しかし一番疑問なのは、俺の真横で寝ていた女だ。何だコイツは。一体誰なんだ?
俺は女が大嫌いで、そこで寝ていた女さえも絞め殺そうと企んだ。馬乗りになり、首に手を添えた。
だが、なぜか締めることができない。
『何でだ……力が出ねぇぞ…』
まるでその女を殺す事に躊躇するかのような、もう1人の天使の自分に必死に止められている感じもした。
ムニャムニャと、今にも起きそうな彼女に俺は動揺し、急いで着替え、ぎこちない服装で外へ出た。そこは見たことのある黄金美町の風景だった。
それだけが救いだった。
しかし、俺は即座に警察に捕まり、訳の分からない疑いを立てられたまま、よく分からないところへ放り込まれた。
俺は、もう何が何だか分からず、そこが現実か夢かさえも見分けがつかなかった。あまりにも苦しかった。
もう忘れたい。全部忘れたい。死にたい、いっそ死んで何もかもなくしたい。そう願い続け、俺は知らぬ間にか意識が白紙と化した――。
―――目が覚めた。
そこは、この前も、その前も見たことのある署の病室だった。そしてベッドで座っている俺の顔を伺う、亜里沙の姿も見えた。
「あ……亜里沙……?」
「ん? どうしたの?」
意外と日常的な反応だった。何だ? 俺は普通に彼女と今まで会話でもしていたのか?
「意識が白紙になって、それからどうなったの?」
「………ん? ちょっと待って。俺まさか今まで全部話してた?」
「そうだけど……。何か、アンタ変だったわよ。独り言ブツブツ言ってるような感じで気持ち悪かったし。私の質問には答えなかったし」
「…………………」
俺は、下をうつむいた。
もしかしたら、最初から最後まで話していたのかもしれない。確かに今まで思っていたことは何から何まで全てのことだ。ということは、今俺は亜里沙に俺の過去全てを話してしまったということになる。
ため息しか吐くことはできなかった。
「なぁ、亜里沙」
「ん?」
彼女はいつもより優しげにそう首を傾げた。
俺はいつの間にか、自分の過去の全てを思い出していることに気が付いた。
「俺は今後も、こうやって人を信じずに生きて行けばいいのか? それとも、人を信じて生きて行けばいいのか?」
「何よ、今まで信じたくないだの色々口に出してた癖に」
「………………」
「よく分からないのなら、」
亜里沙は自分の胸に手を当て、こう主張した。
「私だけは信じなさい」
その破壊力は抜群だった。滅多に釣りあがらない頬も、自然に釣りあがってしまうほどに。
「アンタは確かに人を殺した。佳志の前科を全て取り上げてみたら、アンタどうやら歩行者地獄のギャング集団の連中に無差別に刃物振り回したそうじゃない。どうやらそれは全う記憶にないらしいけどアンタのボンヤリした独り言を聞けば」
「……………そう、なのか」
「アンタがメイルバールやバラードにあんなに警戒されてた原因はそこよ」
ストリートギャングの名前を聞き、俺はふと思い出した。
先程の戦闘だ。
「GSF集団は!?」
「んー、何かね、よく分からない人に助けてもらったわ。あの慎って男もすぐに動きを止めたし」
「……何だと? 金司か? それとも荒田……」
「違う。見たことのない金髪の男よ」
「金髪? 荒田ぐらいしか思いつかないけど……」
「アンタよりは年上ね。もしかしたら結構老けてるのかもしれない。けどその人と慎は顔見知りだったらしくて、すぐに私たちを解放してくれたわ」
「………………」
★
佳志は茫然とし、亜里沙はそんな佳志をただ見る事しかできぬその状況で、病室のスライド式扉が開いた。
二人の男だった。一人はさっきの慎という男。もう1人は、金髪の男だった。
「怪我はないか?」
金髪の男は佳志の怪我している部位を確認した。蒼い血に対しては不自然なくらい気にしていない様子だった。
「誰?」
「あ? お前の保護者だよ。ジッとしてろちょっと」
「んだよ親父かよ……………………って、え?」
眼が点になったのは佳志だけではない。亜里沙も、慎もだ。微動だにしていないのは金髪の男のみだった。
「ちょっ……兄貴。冗談止めろよ」
苦笑う慎に、金髪は呆れ返った。
「はぁ? 何言ってんだよ慎。さっきから言ってるだろ、俺の息子には手出すなって」
「いやでも、もうちょっと分かり易く言ってくれねぇと分かんねぇぞ!? てっきり俺はそこの小娘がそうなのかと思ってたが……」
「その時はちゃんと『娘』って言っとるわ。まぁとにかく骨折とかはしてないようだな。良かった良かった。じゃあお大事にな、佳志。あ、今は佳志だったか。まぁ今度からはちゃんとそう呼ぶからよ」
金髪はそう言い残して病室から出ようとした。
しかし、御託を並べたいのは三人そろっていた。
亜里沙は金髪の男を引きづり戻し、無理やり佳志の隣に置いた。
「ま、まず。まずね? アナタ何者なのよ!」
「だから、佳志の保護者だって……」
「意味分かんないのよ! え!? 佳志って普通に親いるの!? てっきり捨て子か親が亡くなったとか思い込んでたんだけど私!? え、めっちゃ恥ずかしいじゃん!?」
「はぁ、何言ってんだアンタは。コイツには俺と言う、与謝野真という父親と与謝野千春っつー母親がいるんだよちゃんと。捨てても死んでもねぇよバカ野郎!」
「どうなのよ佳志!? アンタ今まで親がいない、みたいな感じだったけど実際どうなのよ!?」
困惑する佳志は、声が裏返ったまま答えた。
「いや……考えてみれば隣部屋に住んどったわ」
「何よそれえええ! 別居ならまだしも隣部屋ってどういう事なのよ! 普通に会話できるレベルじゃないのよ!」
「いや言うほど喋ってないよ。まぁ、強いて言えば二年ぶりってところだな。このクソ親父」
佳志は真の方を睨みつけた。
「お袋が決めたことだから仕方ねぇが、いくら親子の縁を切るとはいえ、自分の息子の危機くらい首突っ込めよ」
「………それは、すまん」
真は素直に佳志に頭を下げた。
「佳志、お前にはまだ話していなかったが、さっきまでずっと俺は……その、出勤中だったんだよ」
「何?」
「これだけは信じろ。出勤先ではお前の情報も、家族が今元気かどうかも分からないようなところだ。だから正直、お前が今この様になっていることに俺は驚いている」
「……………」
佳志はその場で刃物を真へ突き刺そうとしたが、どうしても振り下ろすことはできなかった。
刃物を地面に投げつけ、一度思い切り発狂した。
「クソがぁ! 何なんだよオメエは! そもそもいつから仕事してたんだよ! 全く見えねえんだよ昔からオメエはよ!」
すると病室の扉がまた開き、そこから若い女が佳志に跳びこむように抱きついた。
「佳志!」
その光景を見る亜里沙は、唖然と見るしかなかった。一体この美女は誰なのか。というか彼女の言うヨシユキとは一体誰なのか。
「おい離せお袋。それと俺の名前は『けいじ』だ」
「あっ、そうだった。佳志、怪我はない? 救急箱持って来たよ?」
「いらねえ。もう亜里沙に治療してもらったから」
「あ…アリサ? 誰?」
女が振り向いた先には、目を点にしてマヌケな表情を浮かべる亜里沙が立っていた。
「えっと……、その……、アナタ様は、どちら様でしょうか?」
「私は佳志の母親の、与謝野千春だよ。君がアリサかい?」
「いやそうなんですけども………再婚相手……?」
「違う。最初から真とお付き合いしてる」
「あのう……失礼ですが、おいくつなんでしょうか……」
「もうすぐ四十五だね。長い人生、もう疲れるよ」
千春という女性はそう名乗るが、見た目は亜里沙とさほど変わらぬ若さである。誰もが彼女を女子大生と見間違えるのは当然だろう。
今度は亜里沙がベッドに座り込み、頭を抱え込んだ。一度にあらゆる真実を知り過ぎてパンクしてしまったのだ。
真は外見と比べて常識人と言った風格だが、千春はジト目でクールな女といった模様である。しかしどことなく小悪魔な感じがするのは気のせいと信じたい。
「まぁ見た感じ元気そうだし、大丈夫だろ」
「全然大丈夫じゃねえよ。見りゃ分かるだろ」
「喋れる元気があんならそれで十分だ。それと、慎は俺の弟だよ。お前からしてみればオジサンってとこだな」
真は真実を吐くから真。彼の真実を吐く時のサラッとする感は半端じゃない。それは先ほどからずっとだ。
三人が病室から出て行き、残った亜里沙と佳志はもはや目さえ合わせられなくなった。
そう、真や千春が佳志に対する第二人称だ。佳志は既に全てを思い出していた。
「何でだろうな。もし俺が多数の人格を持っているのだとしたら、もう1つの人格の記憶はないはず。なのに、オメエと一ヶ月半暮らしていたあの記憶だけは思い出せる」
「…………………さぁね」
最初は赤面していた彼女も吹っ切れたのか、花が咲くように次第に唇をほころばした。
「まぁ、ヨシユキがアンタ本人だったら、そっちの方が自然だわ」
「何でだ」
「この前も言ったけど、一瞬だけアンタの影とあの時のヨシユキの影が同じように見えたから。もしかしたら、佳志がヨシユキなんじゃないかって、ちょっと期待してたんだ」
「……………そうか」
「それにしても、全部思い出した?」
「いや、お前といた時のことと、小中学校の頃しか思い出せない。俺が惨殺事件を起こしたなんて、まるで身に覚えにない」
彼女はそこで深刻な表情を浮かべた。
「……第三の人格」
「…ん?」
「今のアンタは多分、いわゆる第三の人格だと私は思うのよ」
亜里沙は三本指を立ててそう言った。
「なぜだ」
「ずっと調べて来たけど、何か抜けてる感じはしてたわ。アンタが小中学校の頃に虐められ、そして精神科に通っていた時の人格。そして惨殺事件を起こした人格、そして今にいたる人格」
「………今の、その、ジンカクってのは、どういう事なんだ?」
「小中学校の頃の人格と、惨殺事件を起こした時の神経がわずかに融合し、変な食い違いをし、記憶障害を生んだ。多分それは、その頃のアンタと惨殺のアンタの意見が完全に別れていた事によるパニック衝動だと思う。だからアンタはきっと、基本的には現在普通の人格だけど、決まった状況に至ると惨殺時の記憶がわずかに蘇って、人を刺すことさえ躊躇わない悪魔に変化する。あくまでも私の推測だから、あまりよく分からないけど……」
「いや、お前の洞察力のキレは金司からよく聞いた。言われてみれば確かに、そんな感じがする。何かが欠けている感じが。そして何かが組み込まれる感じも」
「その時の記憶がないから、再び牢屋に入る事はない、訳じゃない。事実佳志は何人もの人を殺してきたのよ。だから……もしかしたらアンタはもう一度あの医療刑務所に入る事になるのかもしれない。この真実が明かされた以上は…」
彼女は悔やんでいた。相手は殺人鬼であって、自分を助けてくれた張本人。
しかし亜里沙は茫然とする佳志に対してちゃんと笑みを浮かべていた。
「大丈夫よ、きっと。アンタを牢の奥になんて入れない。私が何とかする」
「…………」
――最悪が生じる運命の歯車は、今もなお動き続ける。
佳志はもはや、あの事件を思い出す術などなかった。
……与謝野愛衣が死んだ以上は。




