Faille 14
――――目が覚めた時は暗い、闇の中に自分は放り込まれていた。しかし言語、体の感覚、人間における最低限の知識は持っていた。だからその暗闇にいることが分かった時、俺は恐怖感を覚えた。
俺がいた所には便所とアスファルト、そして檻しかない空間だった。自分がどういう身分で、どんな立場で、何をすればいいのかが全く理解できず、ただただその無の時間をひたすら過ごしていただけだった。
時々自分と同じようなシルエットをする、いわば『人間』が檻の向こう側から現れ、俺に『食べ物』と『飲み物』をくれる。俺は腹に空洞感があり、とりあえずその食べ物というものを口に入れ、胃まで届かせた。するとその空洞感は治まり、飲み物というものを飲むと乾いていた口が潤った。
しかし、それでも何かが足りないと思うばかりだった。だから自分と同じシルエットの人間に頼んだ。
『俺は何か欲しい。何かをくれ』
『何か? それは何だ』
『分からない。でも分かる。自分の胃の、少し上の、あれは呼吸をするところだな。そこに何か気持ちのいいものが通る甘い香りをしたものだ』
『………まさか君は煙草を要求しているのか?』
『た……たばこ?』
『何だ、もう忘れたのか。君はキャスターという甘い香りをする煙草をよく吸っていたそうじゃないか。それと君はアイスコーヒーをよく飲む。まさか生々しい表現でそれを要求されるとなると、私も参ったな』
『………………』
『でもまだ君は未成年。残念ながら渡すのは無理だ。上からの命令でアイスコーヒーも渡さないように言われている』
『なっ……何だアイスコーヒーって……? コーヒー? アイス?』
その人間は頭をかきむしり、やれやれと言った表情で中腰になった。
『氷の入った、豆で作られる茶色の飲み物だ。君は大分疲れているようだね』
『な、何がだ。俺は、何だ? 何がどうなってる? 教えてくれ。ここはどこだ? なぜ俺はこの言葉を喋れる? そしてなぜ俺はこのような動きができる?』
『あのね、――くん。君はもうあと四年と半年、ここにいなきゃいけないんだよ。ずーっとね』
『何でだ……』
『そんなの、自分が一番分かっているだろう? もしかして記憶喪失のフリでもして出ようとか企んでるのかい?』
『ふざけるな……。じゃあこれだけ教えてくれ、俺は誰だ!?』
その人間は再び腰を上げ、顎に手を添えた後にこう答えた。
『あ、君そういえば人権なくなったんだっけ。じゃあ君、ケージっていう一匹の犯罪者ってことか。そうそう、君の名前は、ケージっていうんだよ。ニンベンに土二つ書いて、ココロザシって漢字さえかけばそうなるから。まぁ前の君の名前と漢字だけは変わらないから覚えやすいね。じゃあ、佳志くん。疲れてるフリなら飽きたから、私はこれで』
その人間は俺に一体何を伝えたのか、全う分からなかった。そもそも言ってる意味がまるで理解できなかった。
だが、そこで自分の名前が『佳志』であることを知り、後にあの人間からは苗字も聞いた。
与謝野佳志、という日本でたった一つの名前を、俺は知った。
それから半年後、長い長い年月の最中、もうその時は言語を時折来るあの人間を頼りに磨きあげた頃だ。最後に『よ』などをつければ、相手は自分を警戒せず、何かを納得すれば『そうかい』と言えば相手も同時に納得してくれる可能性の方が高い、と俺は学習した。そして相手を警戒どころか怖気づかせたいのならば『うるせえ』と言えば、何とかなるはずだ。
そして時が経ち、俺はなぜか一度外という、まるで世界が違うと思えるくらいに広々とした空間に出された。俺は何からしていけばいいのか分からず、ただ路上をフラフラ歩いていた。
すると、初めて見るはずなのに、どこかで見たような面影が残る、1人の男性が自分と同じくらいの世代の人間にお金という貨幣を根こそぎ取られている場面を目前で見かけた。
俺はなぜかそこで、焦燥感と緊迫感が全身に走り、ビルの狭間に置いてある堅そうで実に長い一本の金属の棒を取り出した。
強い人間が弱い人間から物を取る光景を、俺はなぜか許せなかった。なぜこんな気持ちになったのかは、自分でもよく分からない。ただ、その弱者における男性の姿は、俺にはとても見てられなかったのは事実だ。
とにかく俺は相手が二人ででも、金属の棒を振り回した。硬いモノを人間の後頭部に当てると致命傷を負うとどこかで知った気がするから、俺はそのどこで得たのかも分からない知識を頼りに男達の後頭部を叩きつけ、貨幣を取り返した。
その男は俺に感謝の気持ちを伝えた。少し戸惑ったが、男が家族の話をすると、俺は自然に持っていた貨幣を男に返していた。
しかし、その後すぐに俺は再びあの何もない暗闇の空間に引き戻された。時間が経つにつれ、やがて檻の向こう側には見たことのない年老いた男の姿があった――――。
――目が覚めると、俺は尻餅をついている女性に刃物を振り下ろそうとしていた。
そこは前も一度見たことのある、署内にある病室の中だった。
「……………何だこの状況は……」
亜里沙は見たこともない恐怖に包み込まれるかのような、非常に怯えた顔で佳志を見上げていた。
「………酷過ぎるわよ………」
彼女は既に泣き叫びそうな表情だった。しかし佳志には分からなかった。その状況が一体何なのか、全く。
「何なのよアンタ……。遠い距離ずっとアンタ抱えてココまで運んだっていうのに……。目が覚めたと思ったら性格変わってるし……かと思ってシップ用意しようとしたら今度は………!」
亜里沙の顔は、本気だった。紛れもなく凶悪犯罪者でも目前に見るかのような目つきだった。
佳志は手が震え、持っている刃物を落とし、亜里沙と同じような表情を浮かべ、己の両手をただひたすら、震えながら見るしかなかった。
「頼む亜里沙……何とかしてくれ………。俺は、もう何なんだ。まるで俺の人生は、ノンレム睡眠で起こる『夢』と同じような現象ばっかりなんだ……」
そう言っていると、佳志は後ろから誰かに突き飛ばされた。
鷹羽金司だ。
金司はやり場のない怒りを拳に託す他なかった。
「おい佳志……お前自分が何やってんのか分かってんのか?」
「鷹羽……。オメエまで、何でそんな顔するんだよ」
「いい加減にしろよ! お前こそどうしたんだよ急に。大きな物音したかと思って来たら……。一体お前は、どこまで最低な屑になりゃ気が済むんだ!?」
「待てよ……。俺は別に何も……」
金司は彼の胸ぐらを押し付けるかのように掴み、物置のガラスを割る勢いで押し付けた。
「お前、もう刑務所に戻らなくていいから、二度とココに来るな。そして黄金美町にも来るな! お前みたいな屑がいるから街はいつまで経っても治安が治まらないんだよ!」
鼓膜が破れるほどに大きい罵声に佳志は耐えきれず、遂に怒りは頂点をも零し始めた。
彼の顔には怒りと涙が同時に湧き上がり、言語では説明しきれぬ発狂をしつくし、金司の頭を自分の頭で頭突きした。
無造作にその狭い空間の中でひたすら何も考えずに暴れる佳志を金司は必死に止めようとするが、それは不可能だった。
今まで手の甲を使って殴る事のできなかった彼が躊躇なく金司の頬に殴打したのだ。そのパンチは病室の外にある廊下にも派手に鳴り響いた。
次に彼は左手で金司の鼻を容赦なく殴り込み、距離を置いたところで彼は真っ直ぐにドロップキックをかました。運悪くそこはガラス窓の手前であり、くらった頭はそのままガラスを派手に突き破った。
金司は気絶し、身の回りは蒼い血があからさまに飛び散っていた。その血痕は尻餅をついている亜里沙の顔にもかかっている。
彼女の視線は、もはや自分を人間として見る目でもなかった。何か、化け物でもいるかのような、実に冷たい瞳で。
佳志は一度深呼吸をし、冷静になるまで息を吐く。
彼は一度気絶した金司をベッドに乗せた。
そして次に彼が起こした行動は、ティッシュボックスを持ち、散らばっている青色の血痕を一つ一つ丁寧に拭くことだった。
全て綺麗に拭き終えた後、佳志は最後に一枚のティッシュを用意し、亜里沙の頬に付着しているその血を、まるで人形にある汚れを拭き取る様に優しく拭いた。
「………ごめんね」
彼はもう亜里沙の目を合わせることもできず、黙ってゴミ箱にその一枚のティッシュを放り投げ、病室を出て、署から姿を消し、そして彼はいなくなった。
亜里沙は酷く心が荒んだ。佳志は自分だけは受け入れてもらっていると安心し、そして気も許していた。
なのに、まさか救急箱を取りに行っている時に後ろから刃を、頬に突き付けられるとは思いもよらなかった。それも、彼にしては躊躇しない以前の、もはや自分を人間として見ていないかのような瞳。
与謝野佳志という男は確かに人を刺す事に躊躇いを持たない人間。だがあの瞬間だけはそんな彼よりも、更に冷酷無情な人格をむき出しにした様にしか見えなかった。
――もしかしたら、さっき私が無理に引き戻そうとしたのが原因だったのだろうか――。
彼女はかすかに自分がしたことを後悔していた。
ただのどうしようもない不良を相手するのは慣れていた。自分も昔、そういう連中との付き合いが長かったから。しかしあぁいう類の人間と出会うのは生まれて初めてで、実は彼女としても興味深い男であったのだ。
荒れてる人間は皆、同じである。そう思っていたゆえに出てきた彼女なりの感心でもある。
ひとまず彼女は重い金司を自力でベッドまで運んだ。
そしてその後、彼女は意を決した。
与謝野佳志の情報を、全て調べつくす。彼女の眉間には計り知れない影が生まれた。
彼を診察した精神科医療を専門する医者に一度話をすることを求めた。彼女はゆっくりと腰をかけ、その医者の話を黙って聞いた。
その男も佳志の話が出たにつれ、非常に追いやられた表情をする。
「………与謝野の、息子の事ですか?」
「え…えぇ。彼のお話を詳しく聞きたいのですが」
「彼は、大分危険な人格破綻者です。私でも対応が随分と困りましてね……」
「そうなんですか。具体的に聞かせてくれませんか?」
亜里沙はメモ帳とペンを用意して医者の話を懸命に聞き入れようとした。
「いいんですけども、アナタは一体……」
そう聞く男に、彼女は胸ポケットから警察手帳を渡し、佳志と顔見知りであることも説明した。
「僕もそれなりに、そして懸命に彼の対応をしたつもりなんですけども、最初と最後に会った時ではまるで人が違いましてね」




