Faille 13
彼の背中が指で計れば一センチも無くなる時。彼女は背後から押されるように走り始め、それは徐々に自分の気持ちに切り替わり、彼の背中をどんどん視界いっぱいに詰めるかのように。そして馬車馬のようにまっしぐらに走り切った。
――罪人の背中なんて、追いたくもないのに――――否。
佳志はその足音が徐々に近付いていることにさえも気づかず、最後には思い切りドロップキックをかまされ、うつ伏せに倒れ込んだ。
「て…テメエ何すんだコラッ……。え?」
どこぞの不良からでも蹴られたかと思いきや、そこには顔を朱に染めて怒り狂う表情をした彼女の姿がそこに立っていた。
「何勝手に逃げようとしてんのよ?」
「えっ……。いや、だってお前今……」
「アンタはまだ! まだ一ヶ月たってもいないのに黄金美町から逃げるつもりなのかって聞いてんのよ!」
「それは……それはお前が何とかして報告してくれよ。『知らぬ間に消えました』とかで別の部隊が動くだけで、お前は何も面倒な事しなくて済むだろ」
「嫌だー! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ! 私は犯罪者になんか話しかけてないわよ! 私と話してんのは、私の息子代理人をしてくれてる与謝野佳志って男と話してんのよ!」
亜里沙は無造作に体を揺さぶり、飛び跳ねたりし、いわば全身を使って必死に訴えた。
「…………………」
佳志は言葉を失うほどに唖然となっていた。
――しかし、立ち上がった彼が彼女に向けることはなく、再び背を向けた。
「そんなに子供が欲しいんなら、他の良い男捕まえて産めばいいんじゃない」
「佳志何言って……」
「だから俺は、本物の親を探すんだよ。もう死んだのか生きてんのかも分からないけどよ。この街には与謝野って苗字は俺ぐらいしかいない。かなり珍しいしな。この広い街に俺の親がいるんなら、もうそれでいい。だからお前にはこれ以上苦労なんてかけたくない。またな」
彼は汚れた服を手で払い、再び彼女から離れる足を一歩、また一歩と踏み込んだ。
一瞬は彼女も唖然としていたが、その顔はすぐに途切れ、これまでにはない、静かな激昂を解き放った。
もはやただの友情でも愛情でも表すことのできないその怒りは、既に佳志の手前にまで近づいていた。
彼女は佳志の尻ポケットに強引に手を突っ込み、そこからマルチナイフを取り出した。
抵抗し荒ぶる彼の足を巧妙にかけ、今度は仰向けに倒した。
「オメエ何して――!」
亜里沙は倒れた彼の上に乗り、その刃物を振り下ろす寸前の体制になった。その顔は、もう怒りとは言えない。
「ではここで問題」
佳志の目の前には、自分が普段持っているあの光沢が宿る鋭いショートサイズのナイフと、心に鬼を飼う彼女の姿のみだった。
「今から死ぬのは次の内どっちでしょう?」
彼女は今、与謝野佳志のセリフをそのまま貼り付けるかのように発言している。佳志は複雑な気分と緊張感を抱えたまま、わずかな震えが混じった声で「やめろ」と囁くが、彼女の耳に届くことはなかった。
「一、馬乗り体制を確保したこの私。二、そんな私に下敷きにされている与謝野佳志くん。十五秒数える」
彼女は躊躇なくカウントダウンをし始め、佳志は考える余裕さえなかった。そもそも彼女が本当に自分を刺すのかどうかも曖昧である。しかし、その目はそうではないという事が十分に伝ってくる。
残り一秒の時に、彼女は容赦なく佳志の首に刃を振り下ろす――。
が、刃はピタリと止まり、もはや刃と首の肌はゼロ距離だった。
しかし残り一秒の時、佳志は余裕を持ち切ったかのような真顔でいたのだ。
彼女は徐々に涙の滴が目のふちに溜まり、腕を下ろした。
「どうして……どうしてそんな顔ができるのよ……」
「……………」
「そんなに死にたいの? 死ぬのが怖くないの……? どうして……!」
「俺が第三の選択肢、『どっちも死なない』を用意し、お前がそれを選んでくれると俺は信用してたから」
佳志は亜里沙の握っている刃物を瞬時に取り上げ、折りたたんだ。
「オメエにコレは似合わねえんだよそもそも。俺みたいな弱者が使うモンだ。オメエは、強いから。心も、喧嘩も。強者がこんなの持ってどうすんだよ」
彼女は両手で自分の泣き顔を隠し、そして泣き声を上げた。
佳志は頭を地べたにつかせ、その泣いている彼女の頭をそっと撫でた。
その涙は、彼のシャツにポタポタと漏れた。
「それにヨシユキって奴も、お前が殺人犯になるのを望んでる訳がないんだしよ。もう一回言うけど、その人悲しませるようなことだけはすんなよ。大切な人が一人でもいるってのは、羨ましい事なんだから」
「うん……ゴメン……」
「俺に謝るなよ。ソイツに謝れ。俺はソイツの事まだよく分かってないけど、怒りっぽいお前を最後まで世話してくれたって事は、それほどお前の事を想ってくれてたってことだろ。普通、そこらへんで倒れてる奴なんて誰も手差し伸べないし、多分俺も横切るよ」
そう言うと、亜里沙は少し答えを躊躇ってから返した。
「それは多分、ないわ。アンタは確かに基本的に自分の事しか考えない人間だけど、それは、ない気がする」
「根拠はあんのかよ」
この前の事を引き出そうとしたが、亜里沙は遠まわしにこう言った。
「……アンタが、一瞬彼に見えたからよ」
亜里沙の緩んだ口には当惑したような笑いが浮かんでいた。
二人は一度立ち上がり、佳志は再び服をはらった。
「ふん、都合の良い事言ってんじゃねえよ。俺とそいつの共通点なんてこれっぽっちもねえんだよ。俺の髪は黒いぞ」
佳志は再び不愛想な顔を浮かべるが、今度は彼女に近付く足を一歩、また一歩踏み込んだ。
「帰ろうぜ」
「え……」
「お前、改めて気に入ったよ。この俺に刃向ける女なんてオメエが初めてだからよ」
「そ、それ褒めてるの?」
「………帰ろうぜ」
亜里沙は、自分の家に戻って来てくれる彼の背を笑顔で追いかけた。
たった三週間の間なのに、二人には爆裂的な情が生まれ、そして今に至った。入社当初はもはや喧嘩か険悪な雰囲気しか漂っていなかったはずなのに、彼らの行動は彼らの絆を築き上げていた。
実は、その事実は亜里沙より佳志の方が理解していた。そうでなければ、亜里沙という1人の女の子に声さえかけないからだ。
表には出さず、彼はただただ十六歳という若い婦人警察官のそばにいるのみだった。
二人が並んで人気の少ない中道を歩いていると、一度は見たことのある、そして小耳にはさんだ事のある、あの黒ずくめの集団が二人の前に現れた。
男達はこちらを睨み、先頭に立っていた男が佳志に近寄った。
「お前、この前俺らの喧嘩邪魔した奴だよなぁ?」
「………誰」
「俺らはGSF集団の者だ。この前邪魔したの、お前だよな?」
「そうだけど。だから?」
認めた佳志に男はニヤリと頬を釣り上げた。
「カシラ! コイツらしいです、前日邪魔しやがったの」
すると群れの奥から、体格も筋肉も半端ではない巨漢の姿が現れた。しかもスタイルは抜群。
何日か前、亜里沙からこの群れが黄金美町では最も強い連中ということを聞いたことがある。そしてそのリーダーが今、佳志の目の前に立っている。これは正に、最強と最弱が対立している絵に近いのだ。
「誰だオメエ」
佳志はそう男を見上げた。
男は首を傾げ、髪によって隠れている目を横にどかし、こう名乗った。
「――よさの」
その瞬間、少なくとも佳志と亜里沙にはもう一度聞かなければあまり理解できない雰囲気にはなっていた。与謝野と名乗る男、そしてその後ろに構えている幹部たちはごく普通に姿を現したつもりなのが――。
佳志は一歩後ずさりをした。
「冗談言うなよ。何企んでんだ?」
「何がだ?」
「いや……だって、俺と同じ苗字の人間なんてこの街じゃ聞いたこと――」
「何だお前。お前も与謝野って言うのかよ」
正に蛇に睨まれるカエルだった。佳志は普段滅多に表には出さない、焦燥と緊迫が露骨に表情や仕草であらわになっていた。
当然横で見ていた亜里沙も同じだ。そんな佳志を見るのは初めてだからだ。今までなら相手がどんなに強い不良だろうが、ヤクザだろうが躊躇なく人を襲う人間だったのに。どうして相手が『与謝野』と言うだけでこうもなるのだろうかと。
しかし、考えてみれば確かに焦るのは自然だった。この街に与謝野という苗字は佳志くらいしか思いつかない。
そして佳志は今、親を探している。
更にこのタイミングで、他の与謝野とバッタリ会うとなると、彼もさすがに臨機応変にはいけないだろう。
与謝野と名乗る彼は佳志の横を通り、小声でささやいた。
「俺らの集団ナメてると殺すよ」
それに続いて幹部も佳志を睨み付けながら佳志とすれ違い、結局何もできずに奴らは去って行ってしまった。
ただ茫然と立っているだけの佳志に、亜里沙が気を使って声をかけるが、返事はなかった。
「ねぇ……、ねぇってば」
「……………」
「まぁ一人くらいいるわよ同姓の人なんて。だからそう気にすることは……」
「俺の同姓なんて、与謝野晶子ぐらいしか聞いた事ねえぞ」
「………」
「アイツは見た感じ俺より大分老けてる。ギャングのカシラやってんだぞ……」
「そ、それは…。でも調べてみなきゃ……」
「もう何か、どうでも良くなってきた」
彼は全身の力を抜いたかのように肩を落とした。
もしかしたら、あの男が自分の父親なのかもしれない。そう彼は確信に近い推測をしたからだ。
考えれば、かなり話は結びついていた。
佳志は親の顔を知らない。いつの間にか自分は刑務所にいて、もはやそこが自分の出身地と語れるほどに前の記憶は皆無。
見た目は自分より大分老けており、そして聞いたことのない自分以外の同姓の男。それはもう、父親としか思う事ができないのだ。
心に迷いが生じ、佳志はトボトボと独りで路上を歩いた。
しかし、そんな彼を見過ごさない人はすぐ目の前にいることに、彼は気付かなかった。
「あーもう面倒臭いわね!」
呆れ返る亜里沙に佳志は彼女の方を振り向いた。
「私はあくまでも、アンタの保護者代理人。保護者なのよ。保護しなきゃいけないのよ! どこまでも付いてってやろうじゃない」
「………どういう意味だ」
「助太刀してやるわよ。アンタの事、洗いざらい全部、全部よ。全部調査してやるわこの際。そしてあの巨漢の事も全部調べつくすわ。これでいいわね? だから佳志。アンタは自分が『独り』とは金輪際思わない事!」
亜里沙はビシッという音が鳴り響くかのように指差した。
「やれるモンなら、やってみろよ。俺を保護できる価値があるかどうかは、こっからが測定中って訳だ」
「上等だわ。やってやろうじゃないか。さぁ、早く調査にかかるわよ!」
佳志はわずかなる苦笑いで、
「バカな奴だな」
と小さく呟いた。
しかし、その苦笑いもすぐに消え、彼は本当に全身の力を抜いたかのように、その場で倒れ込んだ。
あまりに急な倒れ込みで亜里沙は地面に頭をぶつけそうになる彼の頭を身を放り込んでまで支えた。
そう、急に意識がなくなったのだ。
亜里沙は膝に乗せている彼の頭を何回か揺さぶったが、反応がなくなった。
「ちょっと? 佳志? ……佳志?」
亜里沙は佳志の頭をそっと地面に置き、息があるかをチェックした。
息はちゃんとしていて、心臓も動いていた。脈拍に異常もない。
しかし、状況が180度ひっくり返ったのは間違いない。彼女はそう察した。
彼の頬を何度も叩き、体を揺さぶり、罵声を放ったが、彼が目を覚ます事はなかった。
「……なん…なの……?」
徐々に高ぶる不安に、彼女は耐えれそうもなくなった。突然死でも心臓発作でもなく、これは一体何なのか。
速やかに携帯電話を取り出し、救急車を呼ぼうとする。しかし手は止まった。あくまでも与謝野佳志が公安部に一時釈放されているのは国家機密であり、これを住民に知らされるのはかなりの致命傷となる。
だったらどうすればいいのか。答えは一つだった――。




