Faille 12
――俺は父親を知らない。
公安部の事務所にて、金司はある変化を見逃さなかった。
佳志が始末書が入っているダンボール箱を運んでいて、高いところに運ぼうとすると、足が滑る。
それを止めたのは、亜里沙だった。
二人は見つめ合って速やかにそっぽを向いた。亜里沙の方はなぜか顔を赤くしてそっぽを向く。
しかし金司は見過ごさない。あの見つめ合っていた一瞬、二人は『信頼』という目をしていたということを。
そして次に佳志と亜里沙は二人で重い箱を運んでいる時だ。なぜか息ぴったりなのだ。
「おいお前ら。もしかして……」
「違います!」
二人は同時に金司の方を向いてそう訴えた。
「な…何が違うんだ?」
「え、いや……別に」
ひとまず金司はそこで身を引いた。まあ仕事だからこれは息が合わないとできないこと。プライベートではまだ分からない。
しかし荷物を運び終わった後、佳志が自分の席につくと、後ろから亜里沙は冷たい缶コーヒーを彼の頬につけた。
「つ…冷て!」
「はい差し入れ。アンタアイスコーヒー好きでしょ?」
「お、おう。ありがとう。んじゃこれ、はい」
佳志は素直に手元にあった水を彼女に渡した。そして彼女も素直に礼を言った。もはやごく普通の同僚仲間の会話にしか聞こえない。
ついこの前まではまず目さえ合わせようともせず、そもそも会話さえしていなかった。何か話すかと思えばそれは全部喧嘩のみ。お互い御託を並べることしかなかったはず。
なのに、彼らに何があってこうも変わったのか……。
金司はシメシメと企み始めた。
書類を書き終えた亜里沙が部長室にいる金司に提出し、退室しようとすると彼は亜里沙を引き止めた。
「何でしょう?」
「お前、最近あの与謝野佳志と仲がいいじゃないか? どうしたのかな?」
「え……いや、特には……」
「ほう、前まではあんなチームワークはなかったはずだぞ? なぜ差し入れまでするようになったのかな?」
「普通の同僚ですから! 部長は何をおっしゃいたいんですか!?」
「アイツはあくまで凶悪な犯罪者。そんな奴と優秀で洞察力のある君が波長の合う仲になると、俺も疑問に感じ始めるって訳だ」
「時間がたてば自然にそうなるものです。いつまでも同じ会話は御免なので」
金司はそこで「行っていいぞ」と言い、彼女は頬に丸いリンゴ色を浮かべて静かに撤収した。
後に部長室に佳志を呼びだした。
金司はまたしてもシメシメした顔で佳志に問う。
「お前、最近あの亜里沙と仲がいいじゃないか? どうしたのかな?」
すると彼は、全う動揺せずいつもの不気味さを出した顔で問いに答える。
「俺は別に。春成と水木って奴処分しただけだよ」
その答えは、返って金司を動揺させた。
「な、何だと…? あの二人を……か?」
「何かおかしいかよ」
「いや……俺も実は亜里沙が最初に入社した時にその二人の事を聞いてな……。俺も少し悩んでいたんだ。いずれ彼女は奴らに見つかる日が来るに決まっているし、その時はどう始末すればいいのかどうかを」
「ふん。警察ってのは大変だな。下手に動くと一々始末書書かなきゃいけないからよ」
「でも、なぜそんな人間とお前が、対面したんだ?」
佳志は箱から一本タバコを取り出し、着火させた。
「………たまたま。俺は確かに、お前らが言うとおり犯罪者なのかもしれねえけど、目の前で泣き叫んで、しかもそれを目の前で耐えている人間がいて、それを見て見ぬフリするほど俺は精神の強い人間じゃねえんだよ」
その時だけ、佳志が正義の英雄にでも憑りつかれたのかと思うくらいに輝いて見えたのは、金司だけではないはずだった。
「お前はブレねえな佳志!」
「ん?」
「やっぱお前には、守るべき人間が1人くらいはいて、初めてお前なんだよな。うんうん、どう記憶が飛ぼうがやっぱお前はブレねえよ」
「何言ってんだお前……?」
「………え? 何が?」
「いや、記憶が飛ぶって……は?」
その数秒間、部長室は一気に沈黙に化した。
金司は「これ話してなかったっけ?」というような顔で佳志を見つめた。
そしてそれを外からコッソリ聞いていた亜里沙も、目を丸くした。
しかし亜里沙の横から、見慣れぬ男が通り、その男は部長室にノックなしに入って来た。
「にゃははは! よう! 与謝野の息子!」
男は佳志と顔見知りのような感じで挨拶した。当然見たことのない男だ。
金髪で、髪は肩に当たらか当たらぬラインにまで長い、少しチャラめな男だ。
「誰だオメエ……」
「初めまして」
男は微笑み、自分の名刺を佳志に丁寧に渡した。
「警視庁長官、荒田広行と言います」
「警視庁……? てことは鷹羽より……」
佳志が金司の方を振り向くと、彼は既に荒田という男に敬礼していた。
「お疲れ様です、荒田さん」
「いいって金司! それより俺が話しに来たのはこの、与謝野佳志くんなんだからよ」
すると佳志は荒田の方へと睨み始めた。
「オメエまさか、俺を刑務所に送り付けるつもりじゃねえだろうな?」
「んな訳ないじゃん。一応一ヶ月って約束だろ? 未だお前は任務を失敗したことがない。だからそれはお約束だよ」
「その条件を考えたのはお前か?」
「そうだよ? んで金司に伝言しただけ。さてさて、もうすぐ一ヶ月がたつね。この公安部生活も残り一週間になった訳だけど、お前自分の『記憶』ちゃんと維持してる?」
「…………………」
佳志はもはや何の話なのかあまり理解していない。
「どいつもこいつも記憶がどうだとか、人が変わったとか、ゴチャゴチャうるせえんだよ。俺を少年院に突っ込んだのはオメエか?」
「は? 少年院? お前少年院になんか行ってないよ?」
またもやそこで沈黙が続いた。
「お前が行ったところはそんな甘いとこじゃないよ」
「…………どういう事だよ」
そして荒田は笑顔で彼に伝えた。
「お前が行ったところは黄金美医療刑務所だよ?」
佳志は思わず言葉を飲み込んで凝視した。
奥行きの全くない、ただの板切れが耳に押し付ける様な沈黙がただひたすら流れるのみだった。
「い……医療……刑務所……?」
「んだよ聞いてないのー? お前もちょっとは察しろよ。年少があんなアスファルトと便器しかない空間な訳ないじゃん。お前は重度の精神異常者だから、あそこにぶっこむしかなかったんだよ」
「重度の……? 異常者……? いや、よく言われるけどそこまで酷え事言われたのここ来て初めてだぞ……」
「いや俺は悪口とかじゃなくて事実をお前に伝えてるだけなんよ」
荒田はそこでムシャクシャしたかのように、頭をかきまわした。
「やっぱりそんなに治ってなかったのか……。外にやればちょっとは思い出すと思ったんだけどな……」
「おい、オメエ全部話せ。何が言いたい?」
「いや、本当に覚えてないの? お前何であそこに行ったと思ってんの?」
「…………………」
佳志は五秒考えた。しかし出る答えがなかった。
分からなかったからだ。
荒田は呆れ返り、ため息をした。
「まぁ簡単に説明すると、お前は信じていた実の姉をその手で惨殺したってことだ。後は自分で考えろ」
荒田はそれだけを言い残し、事務所から出た。
取り残された金司と佳志の間には、計り知れない鋭い壁ができた。そしてそれを聞いてしまった亜里沙も、彼に関わることはできなかった。
咳の一つもなく、佳志はその守られた沈黙の空間から出た。
――俺は父親どころか、身の回りの事さえ知らなかった。もうどうでもよくなってきた。意味分かんねえ。何だアイツは――。
佳志は完全に途方に暮れ、公園のベンチで腰をかけるしかなかった。そこは数週間も前に五十嵐に刺された現場でもある。
佳志は口に煙草をくわえたまま、自分が今までどうやって生きてきたのかを改めて目を閉じて思い出そうとした。
――女性に対する憎悪――
佳志はそれだけしか覚えていなかった。
とにかく異性に対しては興味どころから根に持つことしかない。しかしなぜ根に持っているのかも全然分からない。
なのに自分の目の前に異性がいると、それを全力で壊したくなる。胸が苦しくなる。胸糞が悪くなる。その感覚を打ち消すがために。
確かに、精神的なところがある事についてはこれで目処がたった。しかし、実の姉がいることは、まず知らない。彼は知らないのだ。
そして人を安易に刺せるこの独特な感覚。
実は佳志は、未だ自分が躊躇なく人を刺せる理由が分からなかった。確かに人を殺したくなる、といった殺意があることは分かっている。しかし本当に殺すとなると、よく考えてみるとかなり重大に恐ろしい事実だ。
彼は今更、自分の手を見て、自分自身に恐怖を感じた。そしてその自分の手を見てそれを感じるのは、これが初めてではないということを、彼は少し思い出した。
――いや、確かに心当たりならあった。
見ず知らずの男から急に訳の分からぬ言葉をあげて刺されたり、気が付くと自分の知っている女が何人かの男達に襲われている光景に立つなど、そしてそれを解決させようとすると今度は全員が俺の方を向き、まるで不思議な物でも見るかのような目で視線を向けてくる。
それは俺の知らない人間に限らず、亜里沙までも俺をそういう目で見て来ていた。
その時俺は何が何だか分からなかった。でも確かに、少しの間意識が飛んでいたのは確かだと思う。
いや、心当たりはそれだけではない。この三週間の間以外にも、俺は何か忘れている。
そもそも、なぜ亜里沙を見た時、俺はあの椅子を捨てたのだろうか。どういう心境があって捨てたのだろうか。いつもなら、一度ならず二度までも振り回す覚悟ならいくらでもあり、男女問わず殴り倒す目的だった。なのになぜアイツにだけは、それができなかったのだろうか。
人を殴る時、いや武器で倒す時。俺はその一瞬だけ何かに憑りつかれた気分だ。俺もごく一般的な人間に過ぎず、不良でもヤンキーでもヤクザでもないごく普通の一般市民なのだ。どんなに怒ろうが人を武器で殴りつけるなんて、いつからできるようになってしまったのだろうか、と。度々疑問には思っていたが、この際気にしても何もならないと思ってその疑問さえも自分から思い流した。
しかし、それにしても度が過ぎた。そしてその度が過ぎたところで、なぜ亜里沙にだけはできなかったのか。それも疑問に感じた――。
佳志は頭をかきまわし、地面に足を叩きつけた。
「クソがあ!」
イライラした挙げ句に通りすがった親子をも怖がらせてしまった。もはや自分が惨めな人間であることをただただ自覚するしかなかった。
結局自分は、何を味方につけても最後には落ちこぼれるのみであることを。彼はただ1人、自暴自棄するしかないくらいに精神に余裕がなかった。
そんな時、ベンチの後ろから人の気配がし、佳志は頭を撫でられた。
「そんなに、気にする事じゃないわよ」
そこには苦笑いを浮かべた亜里沙がいた。
「オメエ……」
「どうかした? そんな自分を哀れんだ顔でもして」
佳志は再び前を向き、悲しげな吐息を漏らした。
「お前盗み聞きしてたのかよ」
「え!? いや……別に。たまたま聞こえただけ」
「まあ何でもいいよ。どっち道知られるんだし」
「佳志、アンタ……」
彼のその悲しげと虚しげが絵となるくらいにできあがるその背中を、亜里沙は少し可哀想に想っていた。
「亜里沙、オメエならこんな時どうする?」
「らしくもない質問するんじゃないわよ。私だって分からない。アンタみたいな事になったことがないから」
「そうかい。まぁ自分のケツくらい自分で拭くよ。オメエには色々世話んなったな」
「ん……?」
佳志は何かを諦めたかのような、そんな感じでベンチから立ち上がった。
「こんな俺に親代わりしてくれてありがとな。俺はもう、誰もいないとこにでも行って独りで過ごすよ」
「そう。じゃあ、幸せに暮らしてきなさい」
亜里沙はそう言い、佳志を見送った。
――しかし、彼の背中が少しずつ小さくなるにつれて、彼女はなぜか孤独感、空白感、そしてそれに対する緊迫感が心の内に訪れ始めた。押しつぶされそうになるくらいに胸が苦しくなり、それはもう耐えることのできないほどである。
叫びたくなるほどに――寂しかった。




