Faille 10
そこで亜里沙の過去の話は幕を閉じた。
ずっと黙っていた佳志は、どう感想を言い渡せばいいのかよく分からなかった。
「まぁ……そういう話があったのよ」
「………そうだったのか。じゃあこの部屋の持ち主は元はお前じゃなくて、そのヨシユキって奴のだったって訳か」
「えぇ。だからふすまに布団をしまっておいたの。まさか値札が貼ったままだったとは思わなかったけど」
「そして今になって、お前の組の連中が身元を確保してきたって訳だな」
「うん。ここで戻るわけにはいかないのよ。彼の為にも……」
「そいつはまだ牢の内なのか?」
「分からない……。いつの間にかその情報が来る目処はなくなったわ」
「……そうか」
「その人髪の毛茶色だったから、すぐ分かるはずだったんだけどね。今はどうしてんのかしら……」
「さぁな。いつかそいつと会える日が来るといいな。俺にはこんな事しか言えないけどよ」
「ううん。アンタの割には随分といい励ましになるわ。ごめん、人の恋バナなんて興味ないよね……」
「別に。まあとりあえず、オメエがそんな過去背負ってるとは思わなかったからよ」
「話聞いてくれてありがと。私、ちょっと海の空気吸いたいから、海岸まで行って来るわ」
「今は危ねえんじゃないか? あの春成って奴とか色々うろついてるし」
「大丈夫よ。さすがのアイツらも、海岸にまでは来ないだろうし。アンタはついて来なくていいわ」
「………気を付けろよ」
――私はヨシユキに何度も助けられた。私が誰かに絡まれると、必ず彼は跳んでくる。いつも彼は怪我をするけど、私はそれを治療することしかできなくて、とても悔しかった。
亜里沙は浜辺で独り、海を見つめていた。夜、暗い中を。
その切ない瞳には、時折映る海に反射する光が映っていた。
★
未だ彼女の行方を絞れていない春成は頭に包帯を巻いており、下っ端の部下の1人に蹴って八つ当たりした。
「テメェらお嬢の行方はどうしたぁ!?」
「す、すんません! まだ全然探せていません」
「探す? テメェなめてんのかコラァ! 見つけ出すんだろうがぁ!」
「すんませんした!」
「早く手分けして見つけ出せ! 組長に何て申して帰ればいいんだ!」
そんな春成に、柊が謙虚な態度で後ろから声をかけた。
「あ、あの、春成さん」
「何だぁ?」
「水木さんが、来ています」
「何だと?」
柊の後ろから、水木虎郎が暗い影から出てきた。
「久しいな、春成」
「ふん、そっちこそ。ご無沙汰だな虎郎」
水木組の若頭と仁神組の若頭。それは恐るべきタッグであった。
「あの小娘がここにいるってのは本当なのか?」
「恐らくな。今部下で手分けして探してもらっているが、全然見つからないんだよ」
「ほう。小娘一人にそれだけの数を使ってでもか」
「今は黒髪のショートをしている。ただの高校生にしか見えないんだよ」
「何?」
「お嬢は今じゃ警察官の1人。真面目な生活を送られている。それもこれも全部、あのヨシユキという男に違いない……!」
「聞いたことのない名前だな。そいつが亜里沙を変えたというのか?」
「あぁ。そうじゃなくちゃ、誰がお嬢をあんな風にまで変えるんだよ。色々調べた結果、ヨシユキという男がお嬢を変化させてしまった」
「ふーん。じゃあまずその男を潰すべきってところか。そうすれば亜里沙も諦めがつき、黙って俺の嫁になるはずだ」
「多分、さっきお嬢の隣にいた、黒髪の男がソイツだと思う。いや、そいつしかいないはずだ」
すると水木は嫌気をさす笑みを浮かべ、彼女が現在いる居場所を当てた。
「海にいるはずだ」
「どうしてそんな事が分かる?」
「あの女は海が大好きである事を俺に言っていた。可能性があるかどうかは分からないが、行って損はない」
「なるほど……!」
春成も彼と同じような笑みを浮かべ始めた。
★
油を流したようにギラギラした海が、彼女の瞳に映っていた。彼女は改めて、過去の事を全て振り返った。映像と共に。
あの優しさは、もう自分の元へは来ないのだろうか。虚しさ、切なさが海を見れば見るほど伝わってきてしまい、彼女の目からは涙が流れてしまう。
冷たい風の響きが悲しげだった。
――夜の海は、より一層恐怖が訪れやすい。
波の音は絶え間なかった。
車の音も、何もないのに、波の音だけは――。
その光景を、亜里沙はただ茫然と見るしかなかった。何も思えない。何も考えたくない。もうその気持ちしか、頭にはなかった。
まさかあのエピソードを、罪人に話す事になるとは前代未聞なのだ。
「やはりそこにいたのですね。お嬢」
その声がした途端、亜里沙は我に返り、透かさず後ろを振り向いた。体制は正に警戒状態だった。
「は……春成……!」
彼女は彼を絶え間なく睨みつけた。敵対心は半端じゃない証拠だ。
そしてその横には、見覚えのある人間がいた。
「と…虎郎?」
「はっ! お嬢たるもの、仁神亜里沙がこんなところで独りとは都合が良い。今なら戻っても誰も文句は言わないでしょう。組長も、俺も。春成も。下の人間も。もう今までアナタがいなくなっていたことを全てなかった事にする。今戻ったらね」
「…………………」
亜里沙はわずかだったが、心の葛藤があった。
今戻り、許しを得る。だが前みたいな、人殺しの世界に戻らなければならない。それと今戻らなければ、よほどの奇跡がない以上、今まで通りの生活は不可能。よほどの奇跡がない以上は。
生憎、彼女の周囲にそんな白馬の王子様の様な人間は1人もいない。金司にも迷惑をかける訳にもいかないのだ。
「ささ、お嬢。早く戻りましょうよ。我々はお嬢を死守しなければいけない使命があるのです」
「くっ………」
実に悔しかった。しかし悔しさを変えることは、もはやできる術がなかった。
ゆっくりと二人の元へ歩き、春成の差し伸べる手を取ろうとした。
――逃げ場が、なかった。
視界は暗く、自分がヤクザの世界に戻る瞬間を自分の目で見たくなかった。彼女は目をつぶった。その罪悪感は、爆裂的である。いわば自分自身を裏切るようなものだったからだ。
――ふざけるな――
自分の目の前にいるのは、二人だったはず。なのになぜ三人目の声が聞こえるのだろうか。亜里沙は一瞬疑問に感じた。
「ナメてんじゃねえぞテメエ!」
その罵声が聞こえた瞬間、春成の背後には竹刀を振り下ろす、彼の姿が見えた。
その竹刀は彼の後頭部に直撃した。
「ヨシ……ユキ?」
亜里沙には、その男がヨシユキにしか見えなかったのだ。自分が危険にさらされたら、必ず跳んでくるのはいつも彼だったからだ。
亜里沙の目の前にいたのは、紛れもなく与謝野佳志だ。その怒りの果てに満ちた彼の表情は、彼女に向けていた。
佳志は亜里沙の胸ぐらを力強く掴んだ。
「言ってる事と、やってる事の違い、オメエ分かってるよな?」
「け……佳志……なの?」
彼は亜里沙の頬を全力ではたいた。
その音は浜辺全体に響き渡った。亜里沙はあまりの驚倒で目を丸くし、自分の頬を手で押さえながら佳志を見た。
「自分裏切るなら、俺は何も言わないよ。けどな、自分が大切にしてるその野郎裏切って、オメエは幸せなのかよ」
「だ……だって、仕方ないじゃん! こんなところで断ってたら、私はどう生きればいいのよ! 都合よく白馬の王子様なんて出てくるわけがないんだし!」
「だったらこの俺を白馬の王子様にしたてあげればいいじゃねえかこのクソアマァ!」
佳志は更にもう片方の手で彼女の胸ぐらを掴んだ。
亜里沙は涙が出た。もう一年も前以来、泣くことなんてなかったのに。
「どうして……どうしてアンタは私を助けるのよ……。どうしてよ! 私はあくまでも、アンタの敵なのよ! 犯罪者と警察官の関係に過ぎないのよ! そもそも関係なんてこれっぽっちもないのよバカァ!」
「じゃあテメエは!」
彼は更に彼女の顔を退きつけ、悔しさあふれるその表情で叫んだ。
「じゃあテメエは、俺の保護者の代わりになってくれるって約束は! あれは結局口先だけの、その場しのぎの冗談だって言いてえのかよコラア!」
「!……」
「………。俺は確かにお前が言うとおりの、ただのチンピラだよ。けどよ…」
彼は両手を掴んだまま、下をうつむいた。
「たった1人しかいない味方を、守らせることぐらいさせろよ……」
佳志は泣いているのかと疑うくらい、それらしい声で彼女に訴えた。
その光景を、虎郎はただ茫然と見ていることしかできず、その中に入る度胸もろくになかった。
亜里沙は掴まれている佳志の両腕を掴み、揺らした。
「助けてよ……。そこまで言うなら、助けさせてやるわよバカ! 私はヤクザなんかにはもう戻りたくない! 絶対に戻りたくない! ヨシユキがいなくなって、私はずっと守られる人間がいなかった! だからずっと不安ばかり抱えて過ごしてた! それどころか、アンタみたいな手にも負えない人間を相手する羽目にもなった! 私はもう誰に頼ればいいのか分からないのよ! アンタがそう言うんなら、助けてよ……!」
その叫びも浜辺全体に響き、遂に虎郎は二人の光景に首をつっかかりはじめた。
彼はその場で拍手をし、亜里沙に近寄った。
「亜里沙さん、そんなバカ放ってさっさと我々の方へ――」
虎郎が彼女の肩を掴んだ瞬間、佳志は彼の腹を勢いよく蹴り倒した。
虎郎は二メートルほど跳ね飛ばされ、起き上がると竹刀を持った佳志がそこに立ち尽くしていた。
「ウチの保護者代理人に手ェ出して、タダで済むと思うなよ」




