第五話 ノクス編 ヴァルガンの言葉と、翌朝の傷
夜明け前、ノクスは隠れ家に戻った。
ヴァルガンは——隠れ家の外の森に分体を収め、人語を話せる小さな姿に変化して部屋の隅にいた。
白髪の老女のような姿をしていた。
古竜が人間サイズに変化できるとはノクスも知らなかった。
「驚いているか」ヴァルガンが言った。
「少し」
「千年生きると、色々できるようになる」
カインが「……この竜は部下になるのですか」と、平静を保って聞いてきた。
「仲間だ」とノクスは答えた。
カインは一度だけヴァルガンを見て、それから目を逸らした。
「……了解しました」と言った。
エルザはノクスの顔を見て、何かを言おうとして止めた。
「竜を倒した翌朝、右手はどうですか」
「……」
ノクスは右手首を見た。
傷がついていた。
いつもより少し深い。
そして——鱗のような形の痕が、うっすらと残っていた。
戦闘でついた傷ではない。
体の内側から——体の奥からにじみ出るような傷だ。
竜の魔力と自分の根源魔力が激しくぶつかった後、体への負荷がこういう形で出るのかもしれない。
しかし——なぜ右手首に。
なぜ毎朝、同じ場所に。
「いつも通りだ」
ノクスはそれだけ言った。
エルザは何も言わなかった。
一人になった部屋でノクスは右手の傷を見た。
竜鱗の痕。
——昼の「俺」は、昨夜の竜との戦いを「知っている」か。
そう思った瞬間、答えを求める気力が出なかった。
ただ——傷をそのままにしておいた。
回復魔法で治さずにそのまま。
ヴァルガンが言った言葉が、耳に残っていた。
「昼の自分から目を背けるな」
その言葉の意味が今夜は少しだけ違って聞こえた。
背けていない——とは言えない。
分からないふりをしていた部分が確かにあった。
昼の記憶の断片が浮かぶたびに打ち消していた。
考えすぎだと自分に言い聞かせていた。
しかし——水鏡の顔は、打ち消せなかった。
亜麻色の髪と灰青の瞳。
穏やかな目。
南の方向を見たあの一瞬。
出発前に無意識に。
「……お前は」
ノクスは呟いた。
「今頃、どこにいる」
集落の天幕の中で眠っているはずだ。
右手に——同じ痕を持って。
答えは来なかった。
夜が白み始めていた。
同じ体のどこかで同じ傷が残っている。
同じ痕が昼と夜をつないでいる。
その事実を、今夜ノクスは初めて——静かに受け入れた。
ヴァルガンが部屋の隅で静かに言った。
「眠れないのか」
「……」
「お前が昼の自分のことを考えている時は、分かる。気配が変わる」
ノクスは振り返らなかった。
「気配が変わる、とはどういう意味だ」
「通常のお前は——目標に向かって研ぎ澄まされた気配をしている。しかし今夜は、少しだけ、揺れている。それが——昼の自分のことを考えている時の気配だ」
「……余計なことを言うな」
「竜の目は、正直だ」
ヴァルガンは静かに言った。
「千年間、竜血者の覚醒を待っていた。その覚醒者が何を感じているかは——見れば分かる」
ノクスはしばらく黙っていた。
「……どんな名前だと思う」
「何が」
「昼の俺の名前だ」
ヴァルガンは少し間を置いた。
「千年前の手記に、記録がある。昼の意識を持つ竜血者の名は——光を意味する名だったと」
「光を意味する名」
「竜血の覚醒者は、昼に光を持ち、夜に影を持つ。昼の名は光の名、夜の名は影の名——その対になるように付けられていたと、記録にある」
ノクスは窓の外を見た。
光と影。
昼と夜。
一つの体の中で——両方が生きている。
「……いい名前だ」
ノクスは小声で言った。
何の名前だか分からなかった。
しかし——そう思った。
部屋の外から、カインの気配がした。
交代で見張りをしているのだろう。
ノクスはその気配を感じながら目を閉じた。
カインは今夜、南の方向を見たことに気づいていた。
何も言わなかった。
しかし——気づいていた。
それがカインというの人間だ。
気づいても言わない。
しかし——覚えている。
その記憶を、必要な時に使う。
五年間、そうだった。
「……お前には、感謝している」
ノクスは部屋の外に向かって小さく言った。
答えは来なかった。
しかし——少しの沈黙の後、カインの気配がわずかに動いた。
聞こえていたのかもしれない。
あるいは聞こえていなかったかもしれない。
どちらでもいい。
言えた。
それで十分だった。
右手首の傷にもう一度目を向けた。
鱗の痕。
昼の「俺」も今頃この傷を見ているはずだ。
同じものを、別々の意識が見ている。
その事実が——今夜は温かかった。
夜が白み始める前にノクスは地図を閉じた。
今夜の仕事は終わった。
証拠の整理が進んでいる。
ヴァルガンという強力な仲間を得た。
昼の「俺」が、同じ方向を向いていると——確信が深まった。
それだけで、今夜は十分だ。
右手首の傷をもう一度見た。
「……明日も」
ノクスは呟いた。
「よろしく頼む」
それだけ言って目を閉じた。
朝の光が窓の隙間から差してくる。
ノクスは目を閉じた。
昼の「俺」が、今目を覚ます頃だ。
同じ体の別の意識が。
その事実を——今夜初めて温かいと思った。




