第一話 アルス編 南方への道——「戦えない聖者」の旅
支援隊の馬車が王都の南門を出たのは夜明け間もない頃だった。
空はまだ薄紫色で、石畳の上に朝露が光っていた。
門番が敬礼し馬車が通り過ぎる。
王都の喧騒が少しずつ後ろに遠ざかっていく。
医療班十二名、物資を積んだ荷車五台、護衛の騎士六名。
アルスはその先頭の馬車に乗り、ライトを隣に連れていた。
シルヴィアは王都に残った。
南の空は遠くに霞がかかっていた。
その霞の向こうに薄く煙が見える気がした。
気のせいかもしれない。
しかし——体がその方向を知っていた。
「本当に来てくださるとは思っていませんでした」
医療班の一人——二十代の若い医師、オルムが馬の背に揺られながら言った。
少し緊張した顔をしている。
聖枢機卿と同行するのは初めてなのだろう。
「民が困っている場所に、教会が足を向けない理由はない」
アルスは答えた。
「聖枢機卿様は……竜の被害地域には、何度か行かれたことがあるのですか」
「この規模のものは初めてだ。しかし——」
何かが胸の奥に引っかかった。
「——しかし、竜の被害を受けた集落の支援は、何度かやっている」
記憶、あるいは記憶にないはずの記憶——そこに似たような光景がある気がした。
黒く焦げた家屋の跡。
泣いている子供。
老人が瓦礫の前に座っている。
自分が——何かをしている。
回復魔法で傷を癒している。
しかしアルスにはそんな記憶がない。
「アルス様?」
ライトが声をかけた。
「……何でもない。南の集落までの距離は」
「半日ほどかかります」
「分かった。到着したら、まず負傷者の確認をする。重症者から順番に回るよう医療班に伝えてくれ」
「はい」
馬車が揺れる。
石畳が途切れ土道に変わった。
春の草が道の両側に茂っている。
平和な光景だ。
しかし南の空には薄く煙が漂っていた。
南の空から、かすかに風が来た。
何かを含んだ風だ——煙の匂いではなくもっと古い何かの匂い。
大地そのものの匂いに魔力の残滓が混ざっているような。
アルスは窓の外を見た。
竜の気配を感じるとは言えなかった。
しかし——体のどこかが反応していた。
体の奥が何かに向かって僅かに動く感覚。
それが何なのか分からない。
ただ——知っている感覚がした。
この感覚も、昨夜と同じだ。
「二つに分かれているのか」と自問した夜の続きが今ここにある。
夜の「誰か」がこの道を知っているのかもしれない。
ライトが地図を広げて道順を確認し始めた。
護衛の騎士が馬を並べて周囲を警戒している。
アルスは車窓に目を戻した。
南に向かう。
民のために。
夜には——誰かが北に向かうはずだ。
竜のために。
同じ日、別の方向に一つの体が動く。
その事実が今のアルスには荒唐無稽に思えなかった。
むしろ——それが自分の本当の姿なのかもしれないと思い始めていた。
昼のアルスと夜の誰か。
二人で一つの仕事を別々にやっている。
「……昨夜の礼を言っていなかったな」
アルスは窓の外に向かって小さく呟いた。
ライトが振り向いたがアルスは何も言わなかった。
馬車は南へ向かい続けた。
道の脇に小さな水車小屋が見えた。
誰かが朝の仕事を始めている。
その姿を見ながらアルスは思った。
民が生きている。
今日もいつも通りの朝を過ごしている。
それを守るために——昼も夜も動いている。
形は違っても目的は同じだ。
馬車が揺れるたびに右手首がわずかに痛んだ。
今朝の傷は治さずにそのままにしてある。
馬車が大きく揺れた。
轍のある道から細い草道に変わったのだ。
ライトが窓の外を確認した。
「集落まで、あと二時間ほどです」
アルスは頷いた。
車内にしばらく沈黙が続いた。
ライトが手帳を開いて何かを書き始めた。
護衛の騎士の馬蹄音が規則的に続く。
荷車の車輪が草を踏みしだく音がする。
アルスは目を閉じた。
昨夜の礼拝堂の問いがまだ胸の中にある。
「私は——二つに分かれているのか」
その問いへの答えは、まだ来ていない。
しかし——答えを待つことへの焦りが今朝は少ない。
南に向かっている。
夜の「誰か」は北に向かっているはずだ。
同じ体が、別々の方向に動いている。
それが今日という一日の全体の姿だ。
アルスはその事実を静かに受け止めていた。
「アルス様、少し眠られますか」
ライトが言った。
「到着まで時間があります。眠っておかれた方が——」
「大丈夫だ」
アルスは目を開けた。
「眠れない」
「……そうですか」
ライトが手帳を閉じた。
二人でしばらく窓の外を見ていた。
草原が続いている。
空は高く雲がゆっくりと流れている。
平和な光景だ。
しかし——南の空のあの薄い煙は。
平和な光景を、少しだけ曇らせていた。
道が少し下り坂になった。
遠くに集落の輪郭が見えてきた。
煙の跡が空に薄く残っている。
アルスは目を細めた。
道の端に野花が咲いていた。
春の花だ。
この季節にこの道を通ることは——昼の自分にとっても初めてではないかもしれない。
夜の「誰か」がこの道を通ったとすれば——この花も見ていたはずだ。
アルスはその花を見ながら少しだけ微笑んだ。
同じものを見ているという感覚が——不思議と温かかった。




