混乱する戦場⑱
<ルシアン達の撤退>
平原を渡る風は、戦の熱をすでに忘れかけていた。
遠く、黒煙が細く空へ溶けていく。
その背後で王国軍が整列し直しているのが、丘陵へ向かう魔王軍の視界にも小さく映っていた。
追撃はない。
「えっほ、えっほ」
場違いな掛け声が、草を踏みしめる足音に混じる。
丘を登る列の中央――担架の上で、真っ黒な塊が揺れていた。
「くそー……フィーネのやつ……」
炭のように焦げた外套。
ちりちりに縮れた髪。
ところどころからまだ薄く煙が上がっている。
それでも声は元気だった。
「そんなに薬を賭けに使ったのが恨みか……? 直撃はやりすぎだろ……けっこう痛かったぞ……」
「まぁ、この前も薬絡みでブチ切れてましたしね」
担架を担ぐ魔族が気軽に返す。
「地雷なんじゃないっすか。あの人、薬関係だけは本気っぽいですし」
「本気すぎるだろ……」
ルシアンは空を見上げた。
青い。やけに青い。
人間があの大火球を直撃していれば、まず形は残らない。
だが彼は生きている。重傷ではあるが、命に別状はない。
魔族という種の、理不尽なまでの頑丈さがそこにあった。
丘の上から、草を蹴る音が近づく。
振り返ると、魔狼の群れが軽快に駆け下りてくるところだった。毛並みはつややかで、どこか機嫌がいい。遠足帰りのような顔をしている。
その先頭、ひときわ大きな狼の背で、フェンリルがこちらを見下ろした。
「なんか真っ黒だね」
「ひどい目にあったよ……」
ルシアンは不満げに口を尖らせる。
「あの魔法の直撃だぞ?これぐらいで済んでよかったよ」
「ふーん」
フェンリルはあまり興味がなさそうだ。
「そっちはどうだったのさ」
「こっちはみんなのストレス解消になって良かったよ。朝から荷物運びばっかりだったからね」
視線の先では、魔狼たちが草を転がりながらじゃれ合っている。確かに、満足げだ。
「いや、そういうことじゃないだろ……まぁいいや」
ルシアンはため息をついた。
だが、丘を登りながら、頭の中では別の計算をしている。
(野盗は潰走。王国軍は追撃せず。こちらの損害は軽微……いや、軽くはないか。まあ僕が黒焦げになったくらいだ)
任務の名目は治安維持。
野盗の排除は達成された。
本格的な王国軍との衝突は避けられた。
部隊の統制も魔族基準で保っている。
(……問題なし、だな)
「ま、賊は討伐できたことだし。王国軍は偵察に来ただけってことで報告しておくか」
担架の上で、ルシアンは軽く笑った。
「負けて帰りました、じゃ示しがつかないからな」
「俺たちも楽しめましたぜ!」
後ろの魔族が胸を張る。
どうやら彼らも暴れられて満足らしい。
「それならいっか……ってよくないよ!魔法を撃った奴と一緒にフィーネがいたけど!裏切った?」
それを聞いたフェンリルが、思い出したように言った。
「あー…そういえばさ」
「なに?」
「フィーネから伝書鳩が来てたよ。ちょっと前に」
丘を登る風が、少し強くなる。
「変態聖騎士に捕まったから、帰るのが遅くなるって」
「……ってことは、あれは」
「聖騎士たちだったんだろうね」
ルシアンは目を細める。
「捕まってるにしては、こっちを指さしてたような……?」
「フィーネにも事情があるんでしょ」
フェンリルは肩をすくめた。
疑っている様子はない。
かといって、深く気にしているわけでもない。
魔王軍の空気は、いつだって自由だ。
「まあ……そのうち分かるでしょ」
ルシアンは空を見上げる。
丘の頂に差しかかり、視界が一気に開けた。
遠くに戦場跡が小さく見える。
「それより報告があるんだけどさ」
フェンリルが続けた。
「フローラのところでまとめて話そう」
告げるとフェンリルは狼の背で大きく伸びをした。
「……いいレクリエーションだったね」
「人が真っ黒焦げになってるのに呑気な……」
丘を越え、魔王軍の列はゆるやかに城へ向かう。
担架に揺られながら、ルシアンは青空を見上げた。
「ま、いっか……」
焦げた外套の裾が、風に揺れた。




