混乱する戦場⑪
<マーリスと魔狼>
マーリスの後退後の戦いは、表面上は安定していた。
歩兵は再集結を終え、陣は整っている。
駱駝に騎乗したマーリスは高い視点から戦場を見渡した。
野盗の攻勢は明らかに鈍っている。そしてこちらの勢いも鈍り気味だった。
こちらの士気は落ちていない。むしろ、先ほどの“駱駝の帰還”で妙に高揚しているほどだ。
だが――
「……やはり、落ち着かないわね」
勝っているはずなのに、胸の奥がざわつく。
理由は明白だった。
視線の先。黒い影が駆ける。
魔狼。
馬に匹敵する体躯。漆黒の毛並みが陽光を吸い込み、筋肉が波打つたびに地面が震える。
そしてその群れを率いる影。フェンリル。
一際大きな魔狼にまたがり、狼たちと共に戦場を駆けている。
彼のわずかな手振りひとつで群れが形を変える。無駄な吠え声もない。混乱もない。
それは、軍のようだった。
「……あれがフェンリル」
マーリスは小さく呟く。
先日の模擬戦で見えた影。
確かに、あの異様な気配は記憶と重なる。
魔狼は野盗に飛びかかっている。
だが。
喉は狙わない。牙は深く立てない。転ばせ、混乱させ、恐怖を植え付けるだけ。
本気ではない。
「……本気なら、もう終わっているわね」
野盗の陣形は崩れ始めていた。
前からはマーリス隊。
後ろからは魔狼。
その二正面。
指揮の声が乱れ、個々の動きがばらける。
「魔獣とは交戦するな!」
マーリスは即座に指示を飛ばした。
「距離を保て! 野盗を削れ!」
兵たちが頷く。
彼女は理解していた。
これは共闘ではなく、たまたま何かが一致しているだけ。ただの気まぐれかもしれない、と。
そのとき。
「白銀殿! こちらにも魔狼が!」
ベテラン兵の叫び。
見ると、一体の魔狼がこちら側へ駆けてきている。
飛びかかる。
兵が弾き飛ばされる。
牙は立っていない。
だが、圧倒的な質量。
兵たちが次々となぎ倒される。
そして。
魔狼の視線が、こちらを向いた。
黒い瞳。
冷たいというより、深い。
マーリスの背筋が凍る。
(これは……まずいかも……)
ベテラン兵が割って入ろうとする。
「白銀殿! 下がって――」
魔狼が走る。
風のように速い。
駱駝が低く唸った。
マーリスは剣の柄に手をかけ、手綱を握る。
十メートル。
その距離で、魔狼はぴたりと止まった。
鼻先を上げ、空気を嗅ぐ。
視線が駱駝へ移る。
駱駝は逃げない。静かな対峙。
戦場の喧騒が遠のいたように感じる。
次の瞬間。
ピィッ――
鋭い指笛が鳴った。魔狼の耳が動く。
ためらいもなく、身を翻す。一瞬で群れへ戻っていった。
「……助かった」
ベテラン兵が膝をつく。
「しかし……あの魔物を完全に操るとは……」
マーリスは遠くのフェンリルを見た。
彼は動かない。ただ、そこにいる。
「噂には聞いてたけど……信じたくはなかったわね」
マーリスは小さく息を吐く。
理由は不明だが今は手を抜いているようだ。
「あれが本気でこちらに向けば……」
背筋が冷える。
均衡しているのはこちらの実力ではない。
フェンリルの気分次第だ。
「何にせよ!現状では有利に働いている!」
声を張る。
「魔獣とは距離を保て! 野盗へ圧力をかけ続けろ!」
兵たちが応じる。
「おお!」
駱駝も合わせて低く鳴く。
奇妙な戦場だった。魔狼の影を横目に戦う。
それでも。崩れない。
今はまだ、均衡は保たれていた。




