戦闘開始②
<伏兵の圧>
岩場に吹きつける風は冷たかった。
戦場の喧噪が遠くに響いてくる。砂を踏み鳴らす音、矢の唸り――その全てが、わずかに遅れて届くように感じられる。
リューン隊の主戦線から少し後方。
森の蔭に身を潜める伏兵部隊。その一角で、ダリウスは膝をつき、双眼鏡を覗いていた。
「ふむ、順調みたいだな」
「そのようですね。敵の右翼が崩れ始めています」
横で答えるのは、リューン隊の副官。若いが落ち着いた口調で、戦場の変化を見逃さない。
「ただ、相手の数が多いです。それも我々が出れば問題ないでしょう。後はタイミングだけですが……」
ダリウスは軽く頷いた。
順調。あの飄々とした将のことだ、きっと盤石の手を打っているはずだ。
だが、彼自身もまた、説明のつかない“圧”のようなものを肌に感じていた。
風が通るたび、背筋が冷える。
岩場の影がやけに濃く、空気が重い。
(……戦場ってのは、こういう時が一番嫌なもんだ)
ふと、横にいた馬が鼻を鳴らした。
エレナから借りた、魔王領出身の馬だ。
「おいおい、やめてくれよ。鎧を噛むな、磨いたばっかりだぞ」
言っても馬は止まらず、鎧をガリガリと齧る。副官が苦笑する。
「ダリウス殿、その馬は……? どこか雰囲気が違う気がしますが」
「これはな、エレナの馬で。あいつが魔王領で乗ってたら、勝手に懐いちまったスケベ馬だ」
「す、スケベ?」
「エレナが潜入任務で留守番って言ったら、こっちに着いてきやがった。恋患いだな、こいつも」
“スケベ”の一言が気に食わなかったのか、馬がまた鎧を齧る。
ダリウスは頭を掻き、息を吐いた。
「まぁ、悪いやつじゃねぇ」
「そういう問題なんですか……?」
軽口を交わしている間にも、風の流れが変わる。
それに気づいたのは、馬の方が早かった。
ピン、と耳を立てて空を嗅ぐ。鼻を鳴らし、ダリウスの後頭部をぐいっと突いた。
さらに裾を噛み、引っ張る。まるで「見ろ」と言わんばかりだ。
「……? なんだ、どうした?」
促されるように、再び双眼鏡を覗く。
陽炎の向こう――丘の稜線をなぞるように、黒い影がいくつも浮かんでいた。
最初は野盗の増援かと思った。
だが、違う。鎧の形が違う。動きが、重い。
その中に、獣のような影が混じっているのが見えた。
四足の獣、翼のある魔物、そしてその背に乗る兵士。
「……魔王軍、だと?」
小さく呟いた声は、風に溶けた。
副官が眉をひそめて振り向く。
「今、何と?」
「魔王軍だ。東の丘から出てきやがった。規模は……七、八十か。だが、陣形が整ってる」
双眼鏡を渡すと、副官の顔色が一変した。
「――間違いありません。魔族の旗印です!」
「ちっ、野盗の側面から現れるとはな。……このままじゃリューン隊が挟まれて潰される」
舌打ちし、立ち上がる。
馬が嘶き、蹄で地を鳴らした。まるで「行け」と急かすように。
「どうするおつもりですか!」
「どうするもこうするもねぇ、こっちが動くしかねぇだろ!」
ダリウスは剣の柄を握り、声を張り上げた。
「目標変更だ! 野盗じゃねぇ、魔王軍だ! 全員、迎撃準備! 隊列を変えろ!」
副官が即座に隊員へ命令する。
弓兵が位置を取り直し、騎兵が岩場の左右に展開していく。
砂塵が立ち、風の流れが荒くなった。
太陽の光が一瞬、雲に遮られる。
遠くの丘に、黒い旗が翻った。
ダリウスはそれを見据え、低く呟いた。
「間に合えよ、リューン……」
その声を掻き消すように、風が唸りを上げた。
伏兵たちの影が砂煙の中へと動き出す――。




