国境砦にて⑥
演習の前
朝日が照らす穏やかな空気が、国境の砦を包み込んでいた。
城門の前には、二つの異なる軍が整然と並ぶ。王国第二軍の二番隊、そしてバルヴェルク王国のリューン隊。それぞれが自国の戦装束をまとい、凛とした眼差しで前方を見据えている。
砦の上には、二国の旗が翻っていた。風に乗って、高々と掲げられたその旗は、今日の演習がただの訓練ではなく、両国の名誉と信頼を懸けた舞台であることを静かに主張しているかのようだった。
「いよいよ始まるわね、姉さん」
隣に立つミレイユが軽口を叩く。その声には緊張と期待と、ほんの少しの高揚感が混ざっていた。
「ええ……」
マーリスは短く答えた。肩の力を抜こうと意識するが、どうにも上手くいかない。
昨日一日、マーリスはリューン隊の戦術を体に叩き込む訓練に明け暮れていた。王国式の防衛戦術とはまるで異なる、流動的で柔軟な動き。机上の知識ではなく、実際に体を動かしながら覚えることで、ようやく形になりかけたところだった。
だが——
(……それでも付け焼き刃には違いないわね)
王国側であれば、いかなる陣形も指示も即座に対応できる自信はあった。だが、バルヴェルクの戦術は、その場の判断力と連携の精度が何より問われる。理屈ではなく、感覚が必要だ。
そして何より、思い出してしまう。自分がかつてヴォルクに完敗した時のことを。力の差をまざまざと見せつけられ、自分がどれだけ何もできなかったかを。
「大丈夫よ、姉さん」
ふと、ミレイユが声を潜めて言った。
「昨日の様子、横から見てたけど、ちゃんと動けてた。あのリューン隊長が何も言わないのよ?それって、つまり……そういうこと」
気休めだろうか。それでも、その言葉に少しだけ胸の重さが和らぐ気がした。
「……ありがと」
「ふふ、白銀の妹としては当然の務めよ」
からかうように笑うミレイユに、マーリスは小さく苦笑した。
砦の上、石造りの高台にはヴィクトールとリューンの姿があった。
「壮観だな」
ヴィクトールが言うと、隣でリューンがふっと笑った。
「滅多にないことですからな。二国の軍が並び立つなど、そうそうあることではありません」
「今日は、胸を借りるつもりでやらせていただく」
「謙遜とは、王国の嗜みでしたかな。我々こそ、異国の地で学ばせてもらいます」
「……マーリスは、どうでしたか」
「昨日はよく動いていましたな。本人は不安がっているようでしたが、あれだけ動ければ十分です。あとは実戦で磨かれるでしょう」
「……そうか」
「随分と期待されていますな」
「色々と、事情がありまして」
「ほう。ではその事情、今宵ゆっくり伺いましょう」
そんな他愛もない会話を交わしながらも、二人の表情には緊張の色があった。
整列が完了した合図が、軍使からヴィクトールに伝えられる。
彼は頷き、右手を高く掲げた。
その瞬間、静寂が辺りを支配する。風の音すら遠ざかり、ただ兵士たちの呼吸音と、旗のはためきだけが耳に残る。
マーリスは息を潜め、その空気を味わう。
(これは……ただの演習じゃない)
そう感じた。
そして次の瞬間、ヴィクトールの号令が、初夏の空に鋭く響き渡った。




