第37話 止まった時の向こうで愛が呼んでいる
蕩けた表情の、赤い永愛の顔を見ていると、いつかの記憶が蘇ってくる。
───真っ赤な血に染まって、潰れた先輩の顔。安らかに目を閉じていた。僕はどこか広い空間にいて、ただただ泣いていた。周りには仲間たちが……。
波の音がする。
「……っ!」
僕は飛びずさり、フローリングに尻もちをついた。
「……どうした?心配せずとも、息にはまだ余裕があるぞ」
「どこだ……あれ。周りにいた人は仲間だ。知らないのに覚えてる。それに永愛が……先輩が死んで……」
「晴人……?」
ソファから起き上がり、永愛が心配そうに屈みこんで、顔を覗き込みながら、僕の背中に手を当てた。
「どうしたの、大丈夫……?」
「……君は……誰?」
「…………私は霧原永愛。君の生涯の伴侶だよ」
曇りのない琥珀色の瞳を見つめていると、ざわついていた心が少しずつ落ち着いていく。
「そっか……そうだった……」
「大丈夫か……?水飲むか?バファリン飲むか?病院の予約取るか?」
「ううん、大丈夫......。ごめんね、雰囲気壊しちゃって……」
「そんなことはどうだっていい、君のことが心配だ。……しばらく、ベッドで横になったらどうだ」
「ん……そうする。ホントごめん……」
一人でダブルベッドに転がる。薄暗い部屋の中でぼんやりと天井を見つめた。
波の音が、いつまでも消えてくれない。
・・・・・・
眠れないまま天井を見つめ続けていると、カーテンの隙間から漏れてくる光が茜色になった。響き続ける波の音に耐え切れなくなって体を起こし部屋を出ると、食欲をそそるにおいが漂ってくる。それにつられてふらふらと歩き、キッチンに立つ永愛に見つかる。
「起きたか。……まだ、顔色が悪いな。食欲はあるか?」
「今日の夕ご飯......なに?」
「ビーフストロガノフとポテトサラダだ。……無理そうなら、君の分のおかゆを作るよ」
「ううん、食べられるよ。料理......すごく上手になったね」
「フフ……師匠がよかったのさ」
「そんなことないよ……僕は簡単なことを教えただけ」
「その簡単なことこそが精髄だったのさ。ウチの母は色々アレだったんで君と出会うまで家庭料理とは無縁だったが……まあ、慣れてしまえば単純な原理の組み合わせに過ぎないな。数学の応用のようなものだ」
「料理が数学......流石永愛かしこい」
「あまり褒めるな。また好きになるだろ?」
ダイニングテーブルに座ってぼーっと料理する彼女を眺め、出来上がると配膳を手伝う。いつの間にか子供たちがやってきて、ちょうどいいタイミングで席に着いた。
「いただきます」
遠藤家での出来事を語る楽しそうなのぞみの声が食卓を彩る。未来にポケカの対戦は楽しかったかと聞くと、彼ははにかみながらこくこくと頷いた。
一分の隙もない、家族の幸福そのものがそこにあった。
「パパママおやすみー!」
「パパ、ママ、おやすみ……」
入浴を終え、パジャマ姿になった二人が階段を登っていく。
リビングでブラックのコーヒーを飲みながら波の音を聞いていると、隣に永愛が座った。
「なに考えてるの?」
「あまりにも……幸せ過ぎる。おかしいくらい完璧なんだよ。まるで……夢みたいに」
「『夜十時以降に思い浮かぶ全てのネガティブなことは無視せよ』という格言を知っているか?」
「知らない。そんなのあるんだ?」
「ああ、私が今作った。……大丈夫だ、この幸福は永遠に続くよ、晴人。私が保証する」
「ずっと……波の音が消えない。近づいてくるんだ、今はもう、すぐそばに聞こえる。その理由もわかるんだ、それは僕が……僕が……大切な誰かを、待たせているから……」
「いいや、そんなものは存在しない。君に私達よりも大切なものなどない。君はただ疲れているだけだ。……純愛過激派を標榜していたはずだろう、君は?」
焦ったようにそう言う彼女の瞳を見つめる。小さく映る僕の後ろに、たんぽぽ色の髪をした誰かが立っているのが見えた。
「…………。永愛、一つ聞いていいかな。君は自分が、空っぽだと思う?」
「……かつては、そう思っていた。だが今はそうではない。
なあ、知り合ったばかりのころ、私が命を断とうと屋上のフェンスの外に座って……最後にもう一度話したくて、君を呼んだ時の事を覚えているか?」
「もちろん……忘れるわけないじゃん」
僕はあの時のことを、ずっと後悔し続けているのだから。
「あの時君が、落ちそうになった私を身の危険を顧みずに守ってくれた時……初めてわかったんだ。誰かから愛されるということが、どういうことなのか。そしてその小さな実感が……私の心に空いていた虚空を埋めてくれたんだ」
「……僕、あの時落ちなかったっけ?」
「まさか。もしそうなら、ここにいる君は幽霊かなにかだろう」
その一言で、全てが繋がった。……ここでは、全てがなかったことになっているのだ。
強い自己嫌悪と、激しい怒りが僕の胸を襲う。
───これが......こんなものが、僕が心の奥底で願っていた事だっていうのか。
前に進もうと必死でもがいている僕は、本当は全てがなかったことになればいいと……。
身勝手な自分に、無性に腹が立つ。
「そっか。……ふふっ、霧原永愛……霧原永愛かぁ……」
荒れ狂う思いを心の奥に押し込めて、僕は笑う。
……先輩の前では、怒った顔なんて見せたくない。
たとえこの彼女が、僕の作り上げた幻なのだとしても。
「どうした、急に妻の名前を連呼して」
「素敵な響きだと思ってさ。まるで……夜空に浮かぶ星みたいだ」
「なんだ、褒めても愛しか出ないぞ」
「でも……だからこそ、手が届かないんだってわかってしまう」
「どういうことだ……?」
「星を掴むことはできないでしょ?夢の中でもなければ......」
「……晴人、君は……」
「ここは、僕の夢だ。……そうだよね、永愛?」
「……………。
何を言っているのかわからないな。早く休んだらどうだ、晴人」
僕はコーヒーを飲み干すと、立ち上がって言った。
「海へ行こう」
「……この近くに、海岸はない」
「あるよ。今、僕がそう望んだから」
「も、もう外は真っ暗だぞ?明かりもなしに……」
「えい」
僕が手のひらに浮かべた光の球を見て、先輩は全てを悟ったような顔になった。
「行きましょうか、先輩」
二人で玄関に向かい、取っ手に手をかける。ふと気づいた僕は肩越しに後ろを振り向き、階段の方を見上げて呟いた。
「のぞみ、未来、ばいばい……」
・・・・・・
扉の向こうには砂浜が広がっていた。少し寒い夜の海は静かにさざめき、海へと吹く風が僕の背中を押す。鮮烈な潮のにおいがした。
半分埋まった防砂堤に座り、海を眺める。彼女は隣に座ると、盛大にため息をついて言う。
「これで君との蜜月も終わりか……。もう少し騙されていてくれると思ったんだがな。随分と成長したじゃないか、ペプシ君」
「これ、誰がやったんっすか?滅茶苦茶むかつくんですけど」
「夢の守護竜、オネイロックスだよ。彼女がムーンスターの夢を操る力を使って、君に夢を見せているんだ」
「あー……思い出しました。あのキャラが濃いやつっすね」
「この夢から醒めたいのなら、波の音のする方へ進み続けろ。これはチルカが付けていた、水の精霊のイヤリングの導きだ」
「そーいうことだったんだ、この音......」
「何か他に聞いておきたいことは?……最も、私は君の中にいる藤原永愛だから……君の知っていることしか答えられないが」
「うーん……あっ、あれ覚えてます?放課後一緒に海を見に行った時、先輩、1/fゆらぎがどうとかって言ってたじゃないっすか。あれ、もう一度教えてください」
「んん……?随分と細かいことを聞くんだな。
まあ、いいか。その時私は、波の音の揺らぎについて話した。1/fゆらぎとは、ゆっくりした変化ほど大きく、速い変化ほど小さいという特徴を持ったゆらぎのことを言う。ここで言うゆらぎとは物理学的な用語で、周期からの変動を指す」
「???」
「つまり、1/fゆらぎを持つものは程よく周期的であり、程よくランダムであるということだ。これは人の鼓動や、歩くリズムなんかと通ずるものがあるから……人に安らぎを与えると言われている」
「はえー……。ありがとうございます。
チルカに聞かれた時答えられなくて、ずっと引っかかってたんっすよ」
「なるほどな、そういうことか。
では、起きたら彼女に教えてやるといい。ドヤ顔でな」
「……先輩」
「なんだ?」
彼女に最後のキスをして、僕は言う。
「愛してます。永遠に」
先輩はわざとらしい呆れ顔を作って、首をすくめた。
「さっさと忘れろ、愚か者」
そうして、僕は一人で立ち上がる。
「行ってきます。チルカとグラシエラが待ってるんで」
「ああ……じゃあな」
一歩踏み出した時、待て、と先輩が言った。
「どうし……あ……のぞみ、未来......!」
彼女の両隣りに、僕たちの子供が座っていた。来ちゃった!とのぞみは笑い、未来ははにかみながら静かに手を振る。
「もう一つだけ、私が教えられることがある。もし君が時を止めたいと願うのなら……その時はこの姿の私を……私達のことを思い浮かべろ。それは、君が前へと進むために、心の奥底に封じ込めていた終わりのない夢……真の停滞の象徴だ」
僕は三人の姿を目に焼き付けた後、深く頷いた。
「わかりました……この力で、あのクソドラゴンをぶっ飛ばしてきます」
「ク、クソドラゴン?」
「あいつは、僕に今までの冒険の全てを否定させようとしたんです。僕の先輩への想いを利用して、こんな幸せな夢を見せて……マジで頭にきました。本気でぶったたきます」
「ククク……本気で怒る君とは、最後にいいものが見れた。
さらばだ、我が最愛の人よ」
「はい。……さようなら、先輩」
「行けーっパパ!なんかね、チルカキックしたらいいと思う!」「わかったよ、のぞみ!」
「が、頑張って……!」「頑張るね、未来!」
「派手に決めてこい、ペプシ君!」「はい!行ってきます!」
応援を背に、僕は進む。砂浜を行くにつれて波の音は大きくなり、三人の声はかき消されてしまった。
ついに波打ち際にたどり着いた僕は、白いもやに包まれる。静かに目を閉じると、唐突に波の音がやみ、僕を待つ彼女の声が聞こえてきた。




