第25話 高所恐怖症
「さぶっ……!顔が、顔が凍る……」
「マスター、私の手をお離しになられないようご注意ください」
風の神殿を目指し、僕達は荒涼とした渓谷を進んでいた。吹き荒れる凍てつく風は、まつ毛の先まで凍らせるほどの冷気を孕んでいる。山肌は雪に閉ざされ、遥か下の谷底に見える川は、ほとんど凍り付きながらも、かろうじてその流れを保っていた。過酷な環境だが、天気がいいことだけが唯一の救いだ。
「ダンカンさんに服とフード貰っといてよかった……絶対耳にしもやけできてたよ。……うう、鼻先が痛い……」
「あい。いただいたチュニックとフードは、カシミャーゴートの体毛から作られた上質な生地が用いられています。高い保湿性と保温性が特徴です」
「ありがたや……雪が降り出す前に、できるだけ進もう」
「あい、マスター。歩行速度を30%増加させます」
「うっ、は、早っ……」
渓谷の奥地、辺りを一望できる高台に風の神殿はあった。景色を楽しむ余裕などなく、逃げ込むようにして神殿の内部に入る。
「あ、また……」
冷気が消え去り、乾いた風が頬を撫でるとともに、体内の魔力を縛られていくような感覚が広がっていく。
「風魔法は、どの程度習熟されておられますか?」
僕はチルカの足元に向け、吹き上がる風を放つ。毛皮のコートがまくりあがり、軍服のズボンが露わになった。チルカはコートのすそを押さえて言う。
「いやーん、えっちー」
「これで精一杯」
「戦闘は私にお任せください」「はーい」
神殿の中に広がっていたのは、草木の姿の見えない、荒涼とした谷だった。空はのっぺりとした鉛色に曇り、遠くに見える岩肌は、灰色の霧に包まれかすんでいる。赤茶けた砂っぽい地面を踏みしめ、谷間を通る風の立てる、泣き声のような音を聞きながら進む。
「空からハーピィの群れが!」
「チルカムーンサルト」
「壁の穴からアラクネと子グモが!」
「チルカパンチ。チルカストンプ」
「え!?裸の女の人達が踊ってる!?」
「あれは……ニンフです。害はありません」
「あ、こっち見た。こんちはー……わ、なんかめっちゃ盛り上がってる……」
「……マスター、あまり彼女たちを凝視なさらないでください」
「べ、別にそんな見てないよ……」
「なぜこの神殿は、女性型の魔物ばかり現れるのでしょうか」
「うん……正直目のやり場に困る……」
「マスター、興奮なさいましたか」
「し、してないよ!」
「そうですか、何かお困りの場合は、いつでもお申し付けください」
「も、申し付けたら……なにかしてくれるの?」
チルカは瞳を妖しいピンクに光らせて言う。
「処理、して差し上げます」
「チルカがそんなエロいこと言うようになるなんて……」
「マスターが私を堕落させたのですよ」
「う……そんなこと言われたら、めっちゃ興奮してきた……」
「───陰部の膨張を確認、処理を」
「ち、チルカ後ろ!地面からどでかラミアが」
「…………。
チルカパンチ!チルカムーンサルト!!チルカキィィィック!!!」
「み、ミンチになった……」
・・・・・・
谷を進み、狭い洞窟に入る。唸るような風の音を聞きながらしばらく進んでいくと、急に視界が開けた。
「うわっ、高っか……」
見上げるほどの高さの縦穴にはいくつもの気流が渦巻いており、壁にはあちこちに足場が生えている。吹き抜けの天井からは、雲一つない空が見え、柔らかな日差しが降り注いでいた。
「空の色が違う……?」
「あの先は、こことは別の空間へ繋がっていると推測されます」
「え、一番上まで行かなきゃいけないってこと!?一体どうやって……」
と、僕達の目の前に激しい気流が吹きだした。コートが踊り、フードははためく。耳の中が風の音で一杯になった。
「っ……。ふう、収まった……」
「マスター、今の気流を利用すれば、マスターは右斜め上方の足場へ余裕をもって着地可能です」
「……え」
僕は縦穴の淵にそろそろと近づき、下を覗く。底なしの闇が広がっていた。
「あの……落ちたら死ぬんですけど……」
「ですが、それ以外に方法はないかと愚考いたします」
「……はぁ……。こ、これもグラシエラと会うため……!」
僕は深呼吸すると、再び噴き出した気流目がけて跳躍した。
「気合いだあああっ!!」
全身が風に包まれ、身体の重さを感じなくなる。
「うわあああああああっ!?」
気流に押し出されるようにして進むと、やがて重力に引き寄せられる感覚が戻ってくる。下腹のあたりがキュッと引き締まり、僕は落ちる先に足場があることを祈って目を閉じた。
「……っ!……い、生きてる……」
足場から上を見る。空はまだ遠くにあった。
「こ、これを何度もやらなくちゃいけないのぉ……?」
と、下の方から大きな音がした。覗いてみると、チルカが砂岩の壁を殴りつけ、拳を壁にめり込ませながら登ってくる。
「な、何やってるの、チルカ!?」
「……当機の荷重では、気流に乗って移動することはできませんので!」
「ず、ずるい!それならチルカの背中に乗せ……っ!?」
チルカを横殴りの暴風が襲い、彼女は登る手を止めて壁にしがみついた。
「チルカ、大丈夫!?」
「あい、マスター!私のことはお気になさらず、先にお進みください!」
「背中に乗ってたら吹き飛ばされてた……はあ、僕は想定された通りのルートで進むしかないか……」
僕は軽い絶望を覚えながら、半分やけくそになって噴き出した気流に飛び乗った。
「どりゃああああああっ!!」




