2024/10/9(水曜日)
早朝から気が重たくなる曇天の空模様だった。天気予報によれば、午後から雷雨に見舞われる確率が極めて高いとのことだ。
人通りの少ない道を時折あくびをしながら歩くこと十五分、学校に到着する。
時刻は七時四十分。朝のHRは八時二十分から。遅刻常習犯のあたしだけど、登校時間は早いのだ。
正面玄関で外靴から中靴に履き替え、いつも通り屋上に足を向ける。
乾いた足音を廊下に響かせることしばし、左手が傘を握っていることに気づいた。
「うっかりしてたな」
傘を置くために一度教室に向かうことにする。
教室の扉を開くと、「きゃっ」と教室から短い悲鳴がした。
「……き、北原さん?」
そうおずおずと声を掛けてくるのは茅野だった。二年C組のナンバーツー。着崩した制服に、あざとさ全開のハーフツインを合わせたクラスの人気者である。
教室後方には、出席番号順に傘置き場が設けられている。
あたしが一番乗り……いや茅野が一番乗りだから二番乗りか、にもかかわらずいくつか傘が鎮座しているのは、真面目な生徒が置き傘を常設しているからだろう。
茅野は濃紺の傘を両手で大切そうに握り、きょろきょろと周りに視線を配っている。
「おはよう」
「えっ」
なんだよ、あたしがあいさつしちゃ悪いかよ。
傘置き場の前に突っ立っていて邪魔くさい茅野の脇を足早に通り過ぎ、自分の場所に粗雑に傘をひっかける。
そこでひとつ不自然なことに気づいた。
「茅野のかはあたしの隣に傘を置く場所が設けられてるだろ。なのにどうしてそんな場所にいるんだ」
茅野の正面にあるのは、ま行あたりの生徒の傘置き場だ。
茅野は言った。
「この傘、まーちゃんからの借り物でさ」
摩嶋という女がクラスにいる。そいつと茅野が親しい間柄にあることは知っていた。どうして傘を借りる状況になったのかは不明だけど、話の筋は通っていた。
「そっか。不快な思いをさせて悪かったな。じゃ」
「あっ……」
なにか言いたげにしながらも、茅野が続く言葉を掛けてくることはなかった。
言いたいことがあるなら遠慮せず言えばいいのに。
※
朝のHRが終わると同時に小雨の雨がぱらつきはじめたので、今日は一限から授業を受けている。
教科は古典。あまりに退屈で、授業開始十分にして三度目のあくびがもれた。
頬杖をついて窓を見やる。窓に映るあたしは寝起き直後のような締まりのない顔をしていた。
原因は明白だ。昨夜の寝つきが悪く、あまり睡眠が取れていないからだろう。
睡眠時間を取り返すべく机に突っ伏すと、耳障りな声が耳朶を突いた。
「いずくんぞ~は疑問詞です。訳はどうして~か、いや~ない。なのでこの文は――」
朗々とした澄んだ声。
顔をあげると、南野が席についたまま解答のみならずそこに至る根拠まで懇切丁寧に話していた。
その後も教師が何度か問題を生徒側に振り、そのたびに南野が淡々と答えを口にするという一対一の授業形式が続く。これがこのクラスの日常だ。
不意に「うるせえなぁ」とわりかしあたしの近くから南野を毒づく声がした。再び顔をあげて声がした背中を睨みつける。その視線に気づいたのか、男子はあたしを振り返り、目が合った途端に前を向き直した。
南野はみんなから嫌われている。理由は単純明快、クラスでもっとも成績が良く、教師からの信頼が篤く、加えて授業中の私語や運動部の過剰なからかいを目にすれば迷いなく注意する過剰な良心が備わっているからである。
ここはとりあえず大学進学を目標とする普通科のクラスだ。難関私大や国公立大学への入学を目標とする特進クラスの生徒と比較しても劣らない場違いに優秀な南野は、特に成績が芳しくない上位カーストのやつらから裏でボロカスに言われている。
結局、授業中は寝つくことができず、十分間の休み時間で睡魔を撃退することになった。
二限からはまた南野の声に睡眠妨害をされて受けたくもない授業を受ける羽目になった。
その不満を視線に乗せて南野の背中に突き刺していると、気味が悪いことにあたしを振り返って手を振ってきた。
唇が動く。
(ちゃんと授業受けててえらいね)
ちっ。
頬杖をついて鈍色の空を見つめる。
窓に叩きつけられる横殴りの雨は強まる一方だ。
※
放課後になると、豪雨に雷まで伴っていた正午頃よりは和らいだものの、それでもまだ驟雨といって差し支えない槍のような雨が降り注いでいた。
「秋雨前線ってやつかなぁ。この先ぱっとしない天気が続くみたいだよ」
「そっか。で、なに?」
「せっかく校門まで来たんだしいっしょに帰ろっ」
いやお前が勝手についてきたんじゃないか。
昼食を南野とふたりで空き教室で済ませたため、一日三十分会話する、というノルマは既に達成している。これ以上、南野と時間を共有する必要はなかった。
「勝手にしろ」
突き放すように言って傘を開く。
ばさっ、ばさっと、音がふたつ重なった。
「惜しい。ちょいズレ」
さ、帰ろ帰ろ、なんて言って南野は先を歩く。
あたしがじっと突っ立っていると、南野はあたしを振り返りムッと頬を膨らませた。ひまわりの種を頬張ったハムスターみたいだ。
「いっしょに帰ろって言ってるじゃん」
「あたしは勝手にしろって言った」
「勝手にした結果、わたしは伊都と帰りたいと思ったの。言葉には責任を持ってください」
舌打ちする。そう論破されたら従うしかないじゃないか。
三歩も歩けば、庇がなくなり雨粒が傘を叩きつける。
「ひゃっ」と隣から短い悲鳴がして脊髄反射で肩を跳ね上げてしまう。なんだか今日は甲高い声をよく耳にする日だ。
「なんだ」
「あ、いや……思い切り水溜まり踏んじゃって」
南野の足元を見やる。ローファーは言葉に違わず水溜まりに浸かっていた。が、まだ小さな水溜まりだ。防水性に富んでいるローファーが、あの程度で靴下への浸水を許すだろうか。
「気をつけなよ」
「うん、次から気をつける。えへへ、伊都に心配されちゃった」
「相変わらず気持ち悪いな」
南野のへにゃへにゃな顔を見るに堪えず前を向き直して足を進める。すぐに南野が並んだ。
南野はあたしより七センチ背が低い。あたしがいつものペースを刻めば南野は小走りするような形になり、その結果さっきよりも大きな水溜まりに足を突っ込んでしまうかもしれない。
「はぁ」
あたしのせいで南野が水溜まりにドボンしたんじゃ寝起きが悪い。歩幅をいつもより狭め、ゆったりしたテンポで帰路をたどる。
氾濫寸前まで水位の上がった川の上に架かる橋を渡り、大雨の影響で人気のないコンビニを横切り――その間、南野は一切口を開かなかった。
珍しいこともあるものだ。いつもはあたしの気持ちなんてそっちの気でマシンガントークを見舞ってくるのに。
住宅街に入っても南野は沈黙を維持する。無言の時間が心地良いけどそれ以上に不気味で、あたしはつい南野に目を流してしまう。
南野は表情という表情を浮かべていなかった。焦点はやや下のほうに結ばれている。ずびっと鼻をすする音がし――そこでようやくあたしは南野に降りかかる異常事態に気づいた。
「おい」
「っ! なに?」
「なんで傘さしてるのに濡れてるんだよ」
南野はいたずらがバレてしまった子どものようにぺろっと舌を出した。
直後、強い怒りが込み上げた。笑ってる場合か。
眉間に皺を寄せた直後、あたしは傘をすり抜けてしずくが南野の頬を滑り落ちる瞬間を確かに目にした。湯船から上がった直後のように、栗色の髪が艶やかな光をまとっている。
足を止め、あたしは南野を抱き寄せた。
「っ! ど、どうしたの急に?」
「あたしの傘持って」
動揺しつつも南野は指示通りあたしの傘を握りしめ、空いた手で南野の傘をひったくる。生地を雨空に向けると、小さな穴が複数開いているのか水滴がいくつも滴り落ちた。
「誰にやられた」
「ねぇ伊都。そろそろ正直になろうよ。伊都はわたしのことが嫌いなのに、わたしのために怒ってくれて、わたしのために相合傘までしてくれる。ほんとに嫌いならそこまでしないよ」
「質問に答えろ」
勘違いされては困る。あたしは自分の所有物が穢されたから苛立っているのだ。
会話の主導権を握るのは困難だと判断したのか、南野は俯いてぽつぽつと語る。
「わかんない。先週この置き傘を使ったときはなんともなかったんだけど、今日使ったら至るところに穴が空いてた。どうせならもっと一目見てわかるような嫌がらせをしてほしいよね」
笑って感情を誤魔化そうとする。
……あたししかいないのに作り笑いなんてするなよ。
南野の傘には特別な意匠が凝らされているわけじゃない。ふとすれば黒と勘違いしてしまいそうな深い濃紺。その色合いの傘を使っている生徒はクラスに大勢いて、あたしもそのひとりだ。
……だから、早朝茅野が南野の傘に穴をあけた、と結論づけるのは早計だ。可能性は大いにありそうだけど。
舌打ちしつつ壊れた傘を南野に渡し、代わりにあたしの傘の手元を握る。
「帰ったらすぐ風呂に入りなよ。ババアにごちゃごちゃ言われたらあたしの家の風呂を使え」
「なら伊都もいっしょに入ろ。伊都んちのお風呂大きいからふたり入ってもへーきだよね?」
「……わかった。じゃ家帰ったら着替えだけ持ってあたしの家に来い」
「え、いいの?」
「頼んできたのはそっちのほうだろ。確認したいこともあったし、ちょうどいい」
「……ほんと優しいなぁ伊都は」
しみじみ言うな気持ち悪い。
※
それから三十分後。
「ふひぃ。極楽極楽~」
なんて老人臭いことを蕩け顔で言いながら我が家の浴槽に浸かる南野が隣にいた。
あたしはなんでもないことのように言った。
「スカウトされた。今回はうまくいきそう」
「ほんとっ!? すごいすごい! どうして教えてくれなかったの!?」
声を弾ませ、南野はあたしが意識してつくっていた一メートルの隔たりをお湯を波立たせながら削り取ってくる。
「あたしの単独デビューだ。お前はそれでいいのかよ?」
ちらと目をやる。
南野はいやに大人びた笑みをたたえていた。
「うん。わたしは伊都を全力で応援するって決めたから」
「……あっそ」
おざなりに応えて立ち上がる。すると、南野もゆっくりと立ち上がった。
起伏が少なく、ふとすれば中学生と勘違いされてしまいそうな短躯。右肩あたりに消えない痣があるものの、それ以外に変色した部位がないことを確認し、あたしはほっと息をついた。
平和が続いている。




