2024/10/10(木曜日)
授業の中で教師が今日は木曜日だと口にし、そこではじめて今日が木曜日だということに気づいた。
……ということは、明日あいつはいなくなるのか。
教室中央やや後方で常に存在感を放つ南野ほどく。彼女がいなくなると知っているけれど、それでも彼女が明日には綺麗さっぱり消失するとは信じられなかった。
……というか、あたしにそのことを教えてくれた宝石みたいな女はどこにいったんだ? 先週の金曜日が、最初で最後のペトリコールと顔を合わせた日だ。
あっという間に六限だ。
授業開始からクラス委員――つまりは南野が教壇に立ち、えっちらおっちらネズミみたく動き回っている。
「みんなプリント渡ったかな。ないよ~って人は……うん、いなさそうだね。まずは窪安さんから劇の概要について聞きましょう。窪安さん、よろしくね」
「は、はいっ。んんっ、まずはタイとりゅ……んんっ、タイトル! ですが――」
今月末に迫った文化祭、あたしたちのクラスはオリジナルの演劇をする予定になっている。
本番二週間前にしてようやく脚本が仕上がり配役決めの段階に至ることからも察しがつくように、あたしたちの学校はさして文化祭に力を入れていない類の学校だ。
手元の冊子に視線を落とす。タイトルは「歌よ、届け」。
演歌みたいな題目だけど大丈夫かこれ?
脚本を開き、あたしは息を呑んだ。
どんな物語なのか、端的にまとめたログライン。そこには、歌を歌わなくなった少女が再び歌うことに喜びを覚えるまでの物語と書かれていた。
窪安から脚本についての軽い説明が終わり、南野が司会を継ぐ。
「というわけで、早速配役を決めていきたいと思います。まずは主役から決めていこっか。誰かやりたいよって人はいます……」
右手を挙げかけた状態で南野が不自然に言葉を止める。クラスメイトが南野の視線の先を追いかけ、えっと驚いた顔をする。
と、その一連の流れを観察できていることからもわかる通り、
「伊都、やりたいの?」
誰よりも早く手を挙げたのはあたしだった。
「違う。推薦だ」
「推薦?」
「そ。あたしは主役はお前がやるべきだと思う」
お前、が示すのが、南野ほどく、であることは言わずと誰しもに伝わっただろう。
教室がざわつく。もう決まりじゃんとか、茅野どうすんのとか、まぁ南野がやれば安牌だろとか。いずれも北原伊都からは乖離した話題が鼓膜をくすぐる。
「やれ南野。命令だ」
幸いにも教師はいないので、あたしは勝手に浸透した、南野ほどくを所有物のごとく扱う幼馴染み、というイメージを惜しみなく活用する。
しんと静まり返る教室。
沈黙を裂いたのは南野だった。
「うん、わかった」
仕方ないなぁと言わんばかりの笑みと共にチョークで自身の名前を走らせる。
「ほかにやりたい人いませんか?」
沈黙。
ここで意思表明することはあたしとの対立を意味するから当然の静けさだろう。
「じゃ主役の少女、モモエリアちゃんはわたしが演じます」
束の間の沈黙を縫って、あたしは言う。
「無理言った代わりと言っちゃなんだけど、音楽は一貫してあたしが担当するんで」
淡々と言えば、南野が微笑し、音楽担当と書いて下に北原伊都と綴る。恐らく伊都って名前を悩まずに書けるのは、このクラスであたしのほかに南野くらいだ。
こうしてあたしは、文化祭で我関せず、とはいかなくなったのだった。
※
放課後、南野にいっしょに帰ろうと誘われた。あたしがその誘いを受けるのは雨の日と特別な事情があるときのいずれかに限る。今日は後者の日だった。
「どうしてわたしを主演に推薦したか、当ててあげよっか」
校門前のプランターに植えられた色鮮やかなパンジーが雨粒に照り映えている。鬱陶しいと思われがちな秋の雨だけど、植物にしてみればありがたい慈雨なのだろう。
「わたしに自分がつくった歌を歌ってほしいからでしょ?」
「かもな」
視線をパンジーに向けたままそっけなく応える。
校門をくぐるなり、あたしは南野に横目を流して言った。
「ペトリコールになにを願ったんだ」
そのとき、南野の瞳が動揺に揺らいだのをあたしは見逃さなかった。
この一週間、どこかのタイミングで南野がカミングアウトすることに期待し、あえてこの話題を出さずにいた。
南野は、なにかを願った代償として金曜日に消失している。その願いに対する興味よりも、南野があたしの許可なくいなくなることが許せなかった。もっと言うなら、あたしがこうやって問い詰めるまで隠し通そうとしていたことが許せなかった。
……どの口がほざくんだって感じだけど。
足を止めて相対する。
南野はふっと頬をほころばせた。
「言わないよ」
「あっそ」
「そう訊ねてくるってことは、伊都もなにかあの子に願ったの?」
「さぁ」
「そこはもっとうまく惚けなきゃ」
くすくす笑い、南野は足を進める。
反応から推測するに、南野にとってあたしがペトリコールと交流を育むことは想定の範疇だったのだろう。
ペトリコールはあたしよりも早く南野と接触している。南野は彼女が何者なのか知っているのだろうか。
……まぁなんだっていい。今はあの女の正体を探るよりもすべきことがある。
あたしは、横切った制服のスカーフをくいっと引っ張った。
「今すぐ取り消せ」
「わたしがいなくなるのが寂しいの?」
「違う。違うけど……なんか嫌なんだよ」
蝉の鳴き声が煩わしいけど、止んだ途端に物寂しくなるような。
あたしにとって南野はそんな存在だ。
嫌っているけど、急にいなくなられると困る。調子が狂ってしまうのだ。
「お前がやたらと干渉してくるせいでこうなっちまったんだ。ちゃんと責任取れよ」
「ごめんね伊都。それだけは聞き入れられないんだ」
睨みつけて意思を無理やり曲げようと試みる。
しかし、南野が微笑を崩すことはなかった。
「……そうかよ」
先に折れたのはあたしの方だった。
こうなった以上、なにをしても暖簾に腕押しであることを、長年南野ほどくの幼なじみを務めるあたしが誰より理解していた。
南野を置いて大股で闊歩する。
すぐにぱたぱたと騒がしい足音が隣に並んだ。
「今日はコロッケ食べて帰ろうよ。木曜日の限定が何味か覚えてる?」
「チーズフォンデュ。よくこの状況で平然と誘えるな」
こいつの肝っ玉の強さには毎度のことながら恐れ入る。誰がどう見ても、あたしは南野を突き放していたのに。
「明日は伊都と逢えないからさ。ちょっとでも長く過ごしたいなって思って」
金曜日に世界からいなくなる。
そのあまりに膨大な代償を払ってなお、南野の願いは叶っていないのだろう。南野を取り巻く日常はこれまでとなにも変わっちゃいないから。
あたしに、南野と嫌い合うことが願いを叶える絶対条件とされているように、南野もいちばん重要な課題をクリアしていないのだろう。
……それは一体なんなのだろうか。
「いい?」
思考の沼から今に戻る。
いつもは強引にあたしを引っ張るのに、南野は珍しく確認を取ってくる。身長差で自然とそうなってしまう上目遣いには、不安の影が付きまとっているように思えた。
「いいよ」
「えへへ、伊都ならそう言ってくれると思ってた」
あどけなく頬をたゆませる。
その笑顔がむず痒くて、あたしは明後日に目を逸らした。
※
コロッケ屋では、南野がしらすコロッケ定食を、あたしはチーズフォンデュコロッケ定食を注文した。
「ん~! 美味っ!」
「美味って。ほかに言葉ないのかよ。ふ~、ふ~」
髪を耳にかけ、何度も息を吹きかける。あたしは猫舌なのだ。
「わたしのしらすコロッケ、良い感じの温度になってるからあげるよ。あ~ん」
小さく切り分けたしらすコロッケを南野が近づけてくる。
「いいよべつに」
「恥ずかしいの? だいじょーぶだいじょーぶ、店内そんな人いないし」
「いやそういう問題じゃなくて」
しらすコロッケがそこまで好きじゃないんだよ。
南野はめげずに箸を近づけてくる。さながら選り好みの激しいペットに餌をやる飼い主だ。
あたしは観念して、しらすコロッケにしゃぶりつく。さくっと香ばしい音。続けて釜揚げしらすのなんとも言えない食感とチーズの風味が広がり……やっぱり好みの味じゃないなと思う。
「おいしい?」
飲み下し、微笑を携える。
「うん、美味」
もちろん社交辞令。
「美味って。もっと適した言葉があるんじゃないの」
「お前を真似たんだけどな」
実際は好みじゃないけど、南野の中でしらすコロッケはあたしの好物ということになっている。
もしも過去に戻れるのなら、南野の笑顔見たさにしらすコロッケが好きだと虚勢を張った自分を殴ってやりたかった。




