2024/10/11(金曜日)
あいつのいない金曜日がやってきた。
午前六時。
スマホのアラーム音で目を覚ますなり、あたしはLINEを立ち上げる。
「……どういう原理なんだろうな」
LINEのアカウントが消滅し、学校では下駄箱も席もなくなり、誰からも忘れられる。あたしという例外を除いて。
……正確にはペトリコールもいるけど、あいつは人外だから除外。
あくびをしながら階段を降りれば、今日も一階は静謐に満ちている。
リビングに入り、電気を点ける。食卓にはラップのかかった朝食と弁当箱が置かれていた。
朝食といっても、用意されているのはおかずだけだ。代わり映えなく目玉焼きとウインナー。レンジに入れてタイマーを一分にセット。スタート。待ち時間で白米とインスタント味噌汁を用意する。ティファールで水が沸騰するよりも早く、レンジが鳴き声をあげた。
「あつあつ!」
想像以上に熱くなった皿をパジャマの裾を伸ばしてミトン代わりにした手で持ち、机の上に置いてラップを剥がす。すると、かちゃっと水の沸騰が完了した音がした。はいはい、わかってますよー。わたわたキッチンに足を運び、インスタントの味噌と具材、そこに豆腐とあおさを入れた容器にお湯を注ぐ。ちょっと豪華に見える味噌汁の完成だ。白米はそのままだと味気ないので、軽く塩を振る。以上で朝食の完成。
「いただきます」
無言、無音で食事を済ませる。
「ご馳走様でした」
シンクに皿を運び、タワシにキュキュットをつけて洗う。食器だけじゃなく、炊飯器まで洗わなくちゃいけないから毎朝億劫だ。
皿洗いを終えたら洗面所へ向かう。 歯磨きと洗顔をさっと済ませて次は自室へ。パジャマを脱いで制服に着替える。姿見を見ながら髪を手櫛で梳き、リボンの形を整えて、準備完了だ。
ブレザーを羽織ったらまずはギターを背負い、続けて五線ノートとおもりと必要最低限の文房具だけが入った、空っぽも同然の通学鞄を手に持つ。
リビングに寄って弁当箱を鞄に突っ込み、冷蔵庫の脇にかかった家の鍵を手に取り、最後に火の元がちゃんと閉まっているか確認する。オッケー。
ローファーを履いてこつこつ爪先を鳴らし、玄関の扉に手をかけてあたしはつぶやいた。
「行ってきます」
最後にその声に返事があったのはいつだっただろうか。
昨日帰宅してから今この瞬間に至るまで、両親と顔を合わせた記憶はなかった。
※
午前で一区切りにしようと思っていたけど、結局放課後まで作曲に明け暮れてしまった。
頭上に棚引く分厚い雲だけみればそんなに時間が流れていないように思えるけど、活気づいた校舎が今日の授業は終わったのだと教えてくれる。一日において校舎がもっとも元気になるのは放課後だ。誰しも放課後を好いている。
曲は四曲できた。といってもギター部分だけで、あとは構想の域にとどまっている。家に帰ったら、DAWをいじって想像通りの音になっているか確かめてみよう。
ひとつ、確認したいことがあるので、教室に向かうことにする。今さらだけど、何曲つくればいいのか聞いていないことに気づいたからだ。
教室は普段とは違うレイアウトになっていた。机をぎゅっと後ろに寄せ、そうすることで生まれた前方の広々としたスペースを活動場所としている。
真っ先にあたしに気づいたのは茅野だった。視線が交錯するなり疑問が募る。あいつは役者じゃなく、照明その他もろもろ担当じゃなかったか?
「あのさ窪安」
「っ! ひゃ、ひゃい!」
蛇に睨まれた蛙か。
明らかに慄いた面持ちで背筋をしゃんと伸ばす窪安は、つい今まで脚本を丸めてぱんぱん手に叩きつけ鬼教官のごとく指導していた彼女とは別人のように見えた。
「曲、どれくらい作ればいい?」
「えっと、七曲くらいだと助かります」
「微妙だな」
「っ! すすすすすいません!」
「謝るな。不満に思ったわけじゃない。練習の邪魔して悪かったな」
欲しい情報は得た。
踵を返し、しかしすぐに気になったことがあって後ろに首を巡らす。
「主役のモモエリアちゃん、誰が演じるんだっけ」
窪安に訊ねたつもりだけど、代わりに役者本人がおずおずと手を挙げた。
「私だけど」
「……そうだったな」
南野がいない世界では、茅野が代わりを演じることになるみたいだ。
屋上に向かう途中、曖昧な記憶を決定づけるためにスマホでとあることを調べる。
表示された検索結果を見て、あたしは乾いた笑みをもらした。
「あたしとお前は、もう組めない宿命にあるのかもな」
画面に表示されているのはカレンダーだ。
十一月一日、金曜日。
――文化祭当日。
うかつだった。
時間を巻き戻せるのなら、昨日の六限からやり直したかった。
※
屋上の扉を開け、息を呑んだ。
「やあ」
鉄柵に身体を預け、片手を挙げて軽いあいさつをしてくるその女は、悪天候の下だとより輝きが際立っていた。
ため息をつき、隣に並んで同じようにする。
「おや珍しい。センチメンタルじゃないか」
「珍しくないよ。あたしは繊細なんだ」
「おいおい本格的にどうしたんだ。君らしくなくて気味が悪いぞ」
「うるさいな。黙って側にいろよ」
「わかった。頭を撫でてほしかったら遠慮なく言いたまえよ。逆に私を撫でるのも可だ」
「黙って側にいろと言ったのが聞こえなかったのか」
それきりペトリコールはお喋りな口を噤んだ。
そして、あたしの背中を撫でてきた。
「強がるのもほどほどにしないといずれ後悔してしまうぞ。泣いても笑っても今は一度きりだ」
「……わかってるよ」
昔、あいつがあたしの曲に添えた歌詞みたいなことを言いやがって。
気持ちが落ちついてきた。
なおもあたしの背中をさするペトリコールの手を払いのける。
「で?」
「今日までどこに隠れてやがった。申し開きは? ……といったところかな」
なんでわかるんだよ。
顔をしかめると、ペトリコールはふっと微笑んだ。相変わらず見惚れてしまうほどに美しい笑顔だった。
「私が君たちの理解を誤るわけがないだろう。……悪いね、私はこの世界に際限なく留まれるわけじゃないんだ。より正確にいえば、五十九分三十七秒しか地上に存在できない。そのラインを割ったら消滅してしまうんだ。星屑のようにね」
……五十九分三十七秒。
なんだろう。なにかが引っかかる。
「ちなみに残り時間は三十二分八秒だ。はっははー、無駄口を叩いている場合ではないね。というわけで、非常に惜しいが君との交流時間は最小限に抑えたいんだ。願いを叶えるにあたって、なにか不明瞭な点はないかい?」
「願いを変えたい」
「それは聞けない頼みだね」
きっぱりと断言された。なら、
「願いを破棄する」
「どうしてそうしようと思ったんだい?」
柔和な微笑で訊ねてくる。即刻否定しない様子を見るに、願いを変えることはできずとも、願いを破棄することは可能なのだろう。
「これまではなにもうまくいっていなかったけど、これからうまくいきそうなんだ。あたしが何者かになれるのなら、世界をぶっ壊せなくていい。……それに、あたしがどれだけ努力してもあいつはあたしを嫌ってくれそうにないんだ。ほんと参っちゃうよな」
「そうか」
柔らかな相槌だった。
ペトリコールは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「わかった。君の願いを破棄したいというその希望を私は聞き入れよう」
「ありがとう、ワガママを聞いてくれて」
「……ごめんね、力不足で」
「何に対して謝ってるんだ。ペトリコールは何も悪くないよ」
泣き出しそうがついに泣いているに変わってしまった。
いったいなにがこうも感情を昂らせたのか疑問に思いつつも、あたしは隣で嗚咽を漏らす背中を優しくさする。
「仮に課題を攻略して願いが叶う段階に至っていたとしても、あたしはきっと直前で世界をぶっ壊すことを辞めるって言い出してたと思う。ごめんな、厄介な依頼人で」
誤魔化すように笑う。ペトリコールは変わらず感極まったままだった。
「ひとつ教えてほしい。南野はなにを願ったんだ?」
「……ぐすっ、すまないけど、それは絶対に君に明かさないようにと彼女に口止めされているんだ。だから、教えることはできない」
「そっか。じゃあいいよ」
あたしも隠していたしお相子だ。
最後にひとつ確認する。
「時間に制限があるってことはさ、これっきりペトリコールとは逢えなくなるのか?」
「……ふふ、私のことを嫌っていたんじゃないのかい?」
からかうように微笑みかけてくる。ようやく涙が止まったようだ。
「嫌っていないよ。むしろ好いてる」
照れくさくて、図らずも小声になる。
「……毎週金曜日、この場所で逢えないかな?」
自分でもよくわからないけど、彼女と話していると曲作りをしているときのように心が安らぐのだ。
俯いて返事を待っていると、ふっと笑みをこぼす声がした。
ペトリコールは、遊びに誘われた子どものように微笑んでいた。
「しょうがないなぁ。じゃあ二分までだよ?」
「充分だ。ありがとう、限りある貴重な時間をあたしのために割いてくれて」
「どういたしまして。では、また来週この場所で」
狙ったようなタイミングで突風が屋上を駆け抜ける。
きつくつぶった瞼を開けば、やはりそこにペトリコールの姿はなかった。
「……言っちまったなぁ」
願いを取り消した今、残された道はあたしが音楽アーティストとして成功する以外になくなった。
成功すれば、すべてがうまく。失敗すれば終わりだ。その時はペトリコールにもう一度、世界の破滅を願おうか。
……なんて、雌雄が決する前から及び腰になっててどうする。
段差に腰掛け、もう何度目かもわからない「深青の宝石と浅い僕ら」をギターで奏でる。無論、歌詞も頭に入っているけど主旋律は歌わず、掛け合いの部分だけ小声で口ずさむ。
音色に魂を込めるのはあたしの役目じゃないから。




