2024/11/1(金曜日)3/3
「素晴らしいパフォーマンスだったよ」
すぐ隣から声がしてひっくり返りそうになる。
ペトリコールがいた。拍手と歓声が体育館を満たしているのに、彼女の透き通った声は鮮明に聞こえていた。
「ありがと。ぜんぶペトリコールの祝福だよね?」
「ご明察だ。実をいえば昨日の時点で現世に留まれる時間が底尽きて私は伊都と共に消失していたんだけど、伊都が書き上げた『君のいない金曜日』が十四曲目のボーナストラックとして追加されたことで、こうして少しだけ地上に戻ることが許された。ふたりが輝く瞬間を見届けた今、もうなにも後悔はないよ」
にっこりと笑うペトリコールの身体は薄く透けている。なるほど、だからこうして地上に留まれているのか。だけど、いっときの奇蹟だ。まもなく彼女ともお別れになるのだろう。
不意にペトリコールはぽんと手を叩いた。
「そういえばまだ、私の正式の名前が決まっていないじゃないか」
神様はほんとうにわたしに辛辣だ。昨日、わたしはちゃんとペトリコールに名前を送ったのにその言葉は届いていないらしい。
間髪容れずにわたしは言った。
「タンザナイト」
ペトリコール改めタンザナイトは目を丸くしている。けっこう前から閃いていたけど、如何せん顔を合わせる機会や時間がないために伝えられずにいた名前だった。
「『深青の宝石と浅い僕ら』の歌詞の一部にもなってるわたしと伊都の大好きな石の名前なんだ。宝石みたいに綺麗なだけじゃなくて、長く続く不運を断ち切る力があるって言われてる石でね、あなたにぴったりな名前だって思ったの」
ほかにも、人生の選択や困難に対して前向きな力を与えたり、幸運を引き寄せる力があるとも言われている。わたしと伊都が共通で希望の象徴としていて認識していたものだ。娘に命名するのに、これ以上にお誂えの名前はないだろう。
わたしはこれから希望に満ちた未来に歩み寄ってみせる。
その決意も込めて、彼女にこの名を贈ることにする。
わたしは、くいくいタンザナイトを手招きする。タンザナイトは、伊都みたいに無警戒に頬を近づけてくる。わたしは背伸びして唇を押し当てた。
「伊都にもこうしてあげたから、タンザナイトにも同じことしてあげなくちゃね。大好きだよ、タンザナイト」
「……私の方こそ、産み落としてくれて、素敵な名前を送ってくれて、ありがとう」
目尻から一粒のしずくが流れた。
「私はタンザナイト。ほどくに迫り来る不幸を追い払うタンザナイト。いつでも、いつまでも、遠く離れた場所から私たちは君を見守っている。約束する」
タンザナイトは弾けるように笑った。嫣然なんて大人びた表現はおおよそ適さない、子どもが善なる感情のままに浮かべるような無垢な笑顔だった。
「幸せになってね、私の大好きなお母さん」
次の瞬間、タンザナイトは消滅した。
きらきらと七色に輝く鱗粉を残して……。
「うん、必ず幸せになってみせるよ」
自分に言い聞かせる。
そこに辿りつくことが、ふたりの想いを背負って今を生きるわたしの使命だから。
不可思議な現象に見舞われてわたしは自分勝手な行動をしてしまったけど、みんな劇が大成功に終わった余韻の相手をするので手一杯のようだった。壇上に一列に並んで頭を下げるときに不満そうな顔をしているクラスメイトはいなかった。
みんなが笑っていた。
※
「北原って、人殺しの先輩だよね?」
拍手が止みステージ裏に戻る途中、ぼそっと声がした。
足が止まる。
人殺しじゃない。正確には人を殺し損ねた、だ。
そんなことはどうだっていい。わたしは名前の知らない後輩が、なにも経緯を知らない誰かが、伊都を人殺しの先輩と認識していることが堪らなく悲しくて苦しかった。
余熱で逸っていた鼓動が、凍えたように失速する。
わたしはうつむいて小さく足を進め、そのとき不意に伊都の言葉が頭をよぎった。
『ほどくは自由だ』
そうだ。わたしはもう自由なんだ。両親に迷惑をかけちゃうからとか、まわりのわたしを見る目が変わっちゃうからとか、自分に言い訳という蓋をかぶせて我慢する必要はないんだ。
自分の気持ちに正直になれば、なにをいちばんに優先したいかなんて悩むまでもない。踵を返して駆け出し、司会の生徒からマイクをひったくる。
「伊都は、わたしのためにわたしのお父さんを刺しました!」
わたしが大声でマイクに叫んだものだから、キーンと耳障りなハウリングが体育館に広がる。体育館にいる生徒が、数分前までとはまるで性質の違う瞳をわたしに突き刺してきた。
「わたしはずっとお父さんから虐待を受けていました! だけど誰にも相談できなくて、そんな中でも伊都はわたしに寄り添い続けてくれました! 伊都はわたしを救うために音楽にすべてを費やしたけど、でもうまくいかなくて……。それでも諦めずにわたしを救おうと模索した結果、わたしの両親を殺害するって結論に至ったんです!」
体育館には教師もいる。ここまで話した以上、なにごともなく事態が収束することはないだろう。きっと近い将来、わたしもお母さんも、何時間も警察署にとどまることになる。
それでも構わない。このことがきっかけでまたお母さんとの関係に歪みが走ってしまってもいい。
ただ、みんなに知って欲しかった。
わたしの親友は、すごく優しくてカッコいいんだって。
「伊都はわるくない! わるいのは、わたしたちは苦しめた現実なんだ!」
思いっきり叫ぶ。
一個人ではなく、運命という諸悪の根源に。
「さっきの曲を聴けばわかるでしょ? 伊都はすごく優しくて、カッコよくて、臆病で、繊細で、不器用で、努力家で。……長所がいっぱいあるんです。だからみんなには、伊都のことを人殺しだなんて思ってほしくない。音楽でたくさんの人を笑顔した子だって覚えといてほしい」
こぶしを握り、知らず俯いていた顔を持ち上げる。
「これからわたしは、伊都の未完の曲を完成させて方位磁石のチャンネルに投稿していきます。たくさんたくさん聴いて、伊都のことを知ってください。伊都がいたってことを、いつまでも忘れないでください。それが、わたしの願いです」
司会進行の子にマイクを渡し、ステージ裏に足を向ける。ほどなくして背中に「待ちなさい!」と生徒指導の強い声を掛けられた。
足を止めて空を仰ぐと、暖色の光に目がくらんだ。光に手を伸ばし、「みんなに伊都のことを知ってもらえるようにがんばるからね」と心の中で決意する。
胸はすいていた。




