2026/4/3(金曜日)
金曜日が嫌いだ
大嫌いだ
金曜日はいつも伊都からもらった歌を歌っている。
その日課はあれから二年の月日が流れた今でも変わらず、大学の入学式典が催された特別な日でも構わず決行している。
大学の敷地内にある小さな公園は、今はわたしひとりの貸し切り状態だ。木漏れ日の下、柔らかな春風だけが、ベンチに座って口ずさむわたしの歌に耳を傾けている。
お父さんから虐待を受けていたことをカミングアウトした高校二年生の文化祭の日のことは、今でも鮮明に覚えている。
生徒指導室でこれまでお父さんにされたことを話して、警察署でも同じことを話して、次は児童相談所の人に同じ話をして。
わたしには背中の痣という決定的な証拠もあったので、お父さんは翌日には逮捕されていた。片足が不随になり、挙句逮捕、ちょっと同情してしまった。
その一か月後にお父さんは離婚届を書くことになるので、不幸には重なるときはとことん重なる性質あるのだと思う。だから、あの人は今はもうお父さんじゃないし、どこでなにをしているのか知らない。興味もなかった。
お母さんは罪を問われなかった。わたしがお母さんには一切暴力を振るわれなかったと主張したからだ。この一件で虐待事件が起きた場合、児童相談所は子どもの意見を疑うことなく尊重してくれるということを学んだ。
嘘をついてお母さんをかばった理由は言わずと明白だろう。今のお母さんは、わたしを駒のように扱っていたときとは別人で、ずっと側にいて欲しいと思っているからだ。お母さんのことは愛している。
かくして本格的に自由の翼を生やしたわたしだけど、大学はお父さんに選択を強制された場所を選んだ。将来的に選べる職業の多い大学だったし、これまで受動に徹してばかりいたわたしが突然大志を抱いて大きな方向転換なんてできるはずがないので、とりあえずは良い大学に進学して、在籍中の四年間でやりたいことを見つけようと思っての決断だった。
けど、本音を言えば、大学に行かず就職もせず、音楽の道に専念する未来も少しだけ視野に入れていた。わたしがそうしたいと言えば、後押ししてくれる環境も整っていた。
だけど、悩んでいる時点でだめだと思った。
きっと伊都みたく、やるべきこととやらなくてもいいことをきっぱり切り分けられる人が、特殊な業界では頭角を現していくんだと思う。これがなくちゃ生きられない! ってほどには音楽にすべてを注げないわたしは、趣味で音楽を続けていくことにした。
「ほどく」
名前を呼ばれて振り返る。目と鼻の先に里奈ちゃんの顔があった。
わたしは「わっ!」と声をあげて仰け反ってしまう。くすっと笑い、里奈ちゃんは隣に座る。
「また歌ってたの」
キャミソールの上にシースルーパーカー、タイトパンツにパンプスと、春らしい装いに身を包んだ里奈ちゃんは、もうすっかり大学生だ。
翻ってわたしは、フリルのついたトップスにチェックのロングスカートという高校生の休日から変わらないお馴染みのファッションである。伊都にプレゼントしてもらったこの洋服は、ひと月に一度はクリーニングに出していることもあって、まだ新品同様の清潔感を残している。
「うん、歌うの好きだから」
「そっか。私もいっしょに歌っていい?」
「この歌はだめ。この歌はわたしだけの歌だから」
なんてワガママを言っても、里奈ちゃんは笑って許してくれる。
里奈ちゃんは、わたしがこの大学に進学すると知って進路を変えた。本人にほんとうにそれでいいのかと何度も訊ねたら、自分で決めたことだから、の一点張りだったので、一週間を境に進路の話題を出すことをやめた。
わたしに流された気配が色濃くあるけど、本人がその気ならいいと思ったし、わたしも高校を卒業してからも里奈ちゃんと変わらない距離感で居られることを密かに望んでいたからだ。里奈ちゃんはどこか伊都と似ていて、同じ時間を共有するのが心地いい。
また、里奈ちゃんはわたしの限りなく親友に近い友だち、というだけでなく、現在の方位磁石の作曲担当でもある。
正直、里奈ちゃんは作曲できないのに、吹奏楽部なら作曲できて当然という先入観のせいで作曲できるとまわりから勘違いされているんだろうと推測していたけど、予測に反して里奈ちゃんはしっかり作曲できる子だった。
ただ巧拙という面でみれば伊都にはかなり劣るようで、伊都の残した五線ノートを渡したときは目を点にしていた。
はじめて目にした日、たっぷり十秒ほど硬直した後に、「音楽経験二年ちょっとでこれはすごすぎ」とつぶやく彼女を見て、わたしは特になにかしたわけでもないのに誇らしい気分になった。伊都が褒められてうれしかった。
というわけで、わたしたち新生方位磁石は、伊都の才能に苦しみながら少しずつ音楽を世に発信している。
伊都の望んだかたちになっているかいつも不安になるけど、わたしたちが一生懸命つくった曲だと知ったのならば、伊都は笑って「ありがとう」と言ってくれるのだろう。曲が完成して寝つく夜は、いつも伊都が頭を撫でてくれる夢を見る。
「じゃあ別の歌、歌おうよ。ちょうど昨日曲も完成したし」
「おっ、いいねいいねっ」
「じゃ私は手拍子担当」
「歌ってないじゃん」
苦笑してしまう。
付き合いはじめて二年になるけど、今でも時々里奈ちゃんはよくわからない。
「じゃいくよ。1、2――」
里奈ちゃんの手拍子に合わせて、昨日の夕方に完成したばかりの歌を歌う。
「~♪」
伊都が骨格をつくって、わたしが肉付けをして、里奈ちゃんが微調整をすることで産み落とされる歌。
伊都にもしっかり届くことを願って、声のボリュームをあげる。伊都のためと思えば、人目なんて気にかからなかった。
二番に突入する寸前、すぅと肺に酸素を取り込んだときのことだった。
「あ、あのっ!」
背後から声がした。声色から男の子だと推測できた。
なんだか既視感がある流れだなぁと嫌な予感に駆られつつ、わたしはゆっくり首を巡らす。今度は鼻先が触れ合う距離に顔はなかった。
十メートルほど先、穏やかな風に揺られて桜の雨が降りしきる中、ひとりの男の子がいた。
ギターを背負っていた。
変わった子だった。温厚で気弱そうな顔立ちをしているのに、髪は金色のパーマ、両耳にはイヤーカフと、印象と身なりがちぐはぐだ。小走りでこちらに駆け寄ってくる。
「音楽やってるんですか?」
その第一声を受け、わたしは会話に応じようと決意を固めた。「これから暇? よかったら飲みにいかない?」と軽薄に誘われたら全力で無視する気でいたけど、取り越し苦労で済んだ。
「だから?」
と、必要最低限で応じる里奈ちゃん。無表情の中にはかすかに敵愾心の気配があった。
「えっと……もし音楽をやってるなら話したいなぁ。……なんて思って」
指先をつんつんしながら遠慮がちに男の子は言う。超気弱じゃん。
里奈ちゃんにジト目で言葉なく「どっか行ってよ」と訴えられて委縮する姿が見るに堪えないので、わたしは助け舟を出すことにする。
「うん、やってるよ。君もやってるの?」
「ほどく、こういうときは相手にしないのが正解だよ」
「まぁまぁ。わるい人じゃなさそうだし、話くらい聞いてあげようよ」
男の子がぱぁ~と顔を明るくする。なんて感情の起伏がわかりやすい。さてはこの子、大学の敷地に迷い込んだ中学生ではないだろうか。
あっ、と男の子がなにか思い出したように声をあげる。
「自己紹介がまだだったね。俺は伊藤太樹。たいきって呼ばれがちだけど、たきって言うんだ」
そのとき、わたしはさぞ間抜けな顔をしていたことだろう。
伊都が生まれ変わってやってきたんじゃないかと思った。
伊都と伊藤。北原と太樹。
けど、そんな奇跡は起きないと知っている。名前が似ているのも、ギターを背負っているのも、偶然。奇蹟は偶然の錯覚でできている。
「それでなに?」
自己紹介を受けてなお、里奈ちゃんの態度は尖ったままだ。
「……えっとさ」
ちらちらとわたしに視線を送ってくる。申し訳ないけど、その仕草だけではなにを訴えているのかぜんぜんわからない。
やがて、伊藤くんは意を決したように深く息を吸って言った。
「バンド、やってみたいんだ!」
地面に落ちたパンのかすをつついていた鳥たちが、ばさばさと青空に羽ばたいていった。
「中学生のときからギターひとりでやってて、ずっと誰かとバンドやりたいって思ってたんだけど誘う勇気が出せなくてさ」
首裏をさすり、自嘲めいた声色でつづける。
「だから髪を染めて、イヤーカフなんかもつけて、俗にいう大学デビューってやつをしたんだ。昔の自分と決別しようと思って。……でも中身は簡単には変わらなくて、入学式で隣の子に話しかけられたときは緊張でどもっちゃった。たぶん変なやつだって思われただろうね」
「そうだね、伊藤は変なやつだ」
「辛辣だなぁ……。でさ、あぁやっぱり変われないのかなぁって、早速諦めつつ歩いてたら歌声が聞こえてきたんだ。その先にふたりがいた。くさい言いまわしだけどさ、運命だと思ったんだ。だから、勇気を振り絞って声を掛けた」
シンパシーを感じた。
この子の感性はきっとわたしたちとよく似ている。
期待よりも不安が色濃く滲んだ瞳に、わたしは微笑みかけた。
未来に怯えるわたしに、伊都が翼を授けてくれたように。
伊都みたいに誰かを救える素敵な人間になるために。
「いいよ。いっしょにやろうか」
「え、ほどく本気で言ってる?」
「マジで!? やった! ありがとう……えっと、まだ名前聞いてなかったね」
「南野ほどく。この子は里奈ちゃん。わたしたち、方位磁石ってバンド組んでるんだ」
「えっ、方位磁石ってあの方位磁石? ……言われてみればネットで流出してる画像の子とそっくりなような……ほどくちゃんと里奈ちゃんって、もしや既にプロだったりする?」
「見方によってはプロかもね。あと、名前で呼ばないで。南野さんと田村さんね。伊藤、友だちいないタチでしょ」
「うぐぅ! ……いやぁ~地元には結構いるし? 俺、上京組だし?」
「まぁまぁ仲良くしようよ。これから同じバンド仲間なんだし。ね?」
「私は認めてない。ほどくとふたりで活動したい」
「……えっと、さては俺って早速崖っぷちだったりする?」
伊藤くんが手を揉んで機嫌を取ろうとすると、里奈ちゃんはぷいっとそっぽを向く。そっぽを向いた先に伊藤くんがまわると、里奈ちゃんはふんっと逆方向に目を逸らす。
それがなんだかおかしくて、わたしは吹き出した。そんなわたしを見て里奈ちゃんも笑う。楽しい気持ちが伝染したのか、伊藤くんも笑っていた。
わたしは、わたしが選んで出逢った未来の中で笑えている。
伊都が紡いだ未来の中で、わたしはちゃんと生きている。
君のいない金曜日でも、わたしはちゃんと歩けている。
―FIN―




