2024/10/27(日曜日)
今週は日曜日も塾がある。定期テストがあるからだ。
早朝から今にも窓を壊しそうな勢いで叩きつけられる横殴りの雨は、塾に行く時間になってもやむことはなかった。
けれどもそれを言い訳に休めないことはわかっているので、憂鬱に苛まれながらも学習道具一式を入れたリュックを背負って部屋をあとにする。
階段を降りると、お母さんがいた。
「今日は休みましょう」
視線を重ねるなりそう言われて、わたしは面食らった。
「テストよりも娘の安全第一です」
柔らかく微笑んでそう続ける。
もしかしてこれは夢なんじゃないかと思った。
頬をつねる。ちゃんと痛かった。
「塾には欠席の連絡を入れておきます。せっかく準備までしたのに申し訳ありません」
「いえ、構いませんけど……ほんとうに休んでいいんですか?」
「……ほどく、もう敬語やめようか」
やっぱり夢ではないだろうか。確認したばかりだけど、念のためもういっかい頬をつねる。さっきよりも痛かった。
「……どうして急に?」
敬語を辞めて訊ねる。お母さんが「敬語」と、訂正を求めてくることはなかった。
「ずっと悩んでいたの。こうすることが本当にほどくのためになるのかなって」
顔をあげる。
お母さんの瞳は潤んでいた。
「淳介が亡くなってから、ずっと不安だった。私ひとりでほどくを幸せにできるのかなって……。そんなときに出会ったのが彰さんだった」
淳介は、わたしが六歳になるまでの父親の名前。
彰は、わたしが七歳になってからの父親の名前だ。
「彰さんは零細企業の社長で収入は私よりも断然あった。私が娘をひとり持つ未亡人であることを明かしても接し方を変えず、むしろ態度が柔らかくなったのは彰さんだけだった」
うつむいて小声を転がす姿は、まるで教会で罪を懺悔しているかのようだった。
「確実に親族内継承ができるからだろうね」
「……うん、その通りだと思う」
弱々しくもお母さんは首を縦に振った。
子を孕まず使命を果たすことができる。娘がいてかつ再婚に急いている。お父さんから見て、お母さんは格好のシングルマザーだったのだろう。
「中学生のとき、彰さんがはじめてほどくに暴力をふるった。そのときの私はとっくにおかしくなってて、これも教育方法のひとつだって納得できちゃったの」
声を震わせ、自嘲めいた笑みを漏らして、お母さんは言葉を紡ぎ出す。
「ほどくの将来のために、日常生活で敬語を強いる。ほどくの将来のために、無理やり塾に行かせる。それが本当にほどくのためになるのかなって、彰さんが車に轢かれて入院して、誰かにほどくを束縛して不幸にするお前は母親失格だって正面切って言われて、ようやく気づけたの」
伊都がお父さんを刺した過去は、車に轢かれたと改ざんされている。きっとペトリコールがなにかしらの祝福で事実を歪めてくれたのだろう。
ペトリコールがいなくなるその日まで、伊都が殺人未遂を犯した過去は無くなる。未来永劫そうなればいいのにと思った。
お母さんが顔を上げる。
潤んだ瞳に、確かにわたしの姿は映っていた。
「ごめんねほどく。……これまでしてきたことは許してくれなくて構わない。ただ私の今の気持ちをほどくに知ってほしかったの」
外では雷が鳴っている。屋根に叩きつけられる雨の音が家じゅうに響いていた。
玄関の上に備え付けられた裸ランプが橙色の光を放ち、お母さんの顔を照らしている。
「私は母親失格だわ」
今にも泣き出しそうなその顔を、わたしは幼い頃に何度か見た記憶がある。
お父さんがわたしを説教するとき、それを遠巻きに見るお母さんは、今みたいな顔をしていた。わたしが助けを求めるように目をやれば、お母さんは決まって目を逸らしていた。
だからなんだ、と思った。
優しいお母さんから冷たいお母さんになるまでには苦悩や葛藤があった。今は反省している。
それを知ったところで、わたしの傷が癒えるわけじゃない。背中の痣はいつまでも残るし、週に四日は塾があって家では敬語を使うのがあたりまえという感覚は、仮にその習慣が消えてもわたしの脳に刻まれ続けるだろう。
〝あなた〟と他人行儀に呼ばれるたびに愛されていないなぁと思って悲しんだことも。
頬を打たれたときに口を切って口内炎ができたことも。
おかずのないお弁当を食べてもぜんぜんお腹が満たされなかったことも。
ぜんぶぜんぶ、なくならない過去だ。「ごめんなさい」の一言でなかったことにするには、あまりにも重ねた罪が大きすぎる。何回謝られても許したくなんかない。
……けど。
「ありがと」
いろいろな感情が胸の内でせめぎ合って、そんななかで真っ先に転げ落ちたのは、感謝の言葉だった。
「……許してくれるの?」
わたしが口にしたのは脈絡のない〝ありがとう〟で。だというのにそこに言葉なく内包された許そうとしているわたしの気持ちまでもお母さんは的確に見抜いていて。
あぁ、わたしはお母さんの娘なんだなぁと実感する。
胸に広がるあたたかさに頬をやわらげて言った。
「おかえり。――わたしの大好きなお母さん」
怒りも恨みも胸にある。けど、最終的にわたしの心の主導権を握ったいちばん大きな感情は、喜びだった。
うれしかった。
罪を償ってほしいという想いよりも、あの頃のお母さんともういちど母と娘をやり直したいという想いのほうが強かった。
「ほどく……!」
お母さんがわたしに駆け寄り抱き締めてくる。
中学生の頃に、伊都が事故に遭ったときに警察の人の前でした見せかけの抱擁とはまるで違う、優しく柔らかい温もり。
「ごめんねほどく……!」
「許さないよ。これまでされてきたことはいつまでもぜったいに許さない。再婚してからのお母さんは母親失格だよ」
震える背中をぎゅっと抱き締めてわたしはささやいた。
「だから、いつまでもわたしの大好きなお母さんでいてね? そう約束してくれるならぜんぶ許してあげる」
「うんっ……うん! もう酷いことも言わないししないからね!」
赤子のように泣きじゃくるお母さんの背中を撫でて慰める。
幼い頃にどれだけすりすりしても終わりがなかったお母さんの背中は、今では軽く動かすだけで簡単に一往復できた。
顔を離すと、お母さんの目元はマスカラが剥がれてデスメタルバンドみたいになっていた。
わたしは思わず吹き出してしまった。姿見でその惨状を目にし、お母さんも大笑いしていた。
玄関に親子の笑い声が響いている。
あの頃に戻ったみたいだった。




