2024/10/24(木曜日)
伊都が誰からも認識されずとも、時間は進み、日々は巡る。
その実感が木曜日になってようやく追いついた。窪安さんからコピー用紙をもらったことがきっかけだった。
急遽音楽担当になった田村さんは、期待の重圧をひとりで抱え込んだ結果、体調を崩してしまったようで、そんな彼女に無茶を強いるわけにもいかず、音楽は既存のものを使おうという話になったのだそうだ。その決議の場にわたしもいたらしいけど、記憶はまったくなかった。
コピー用紙には、多くの人が知っているメジャーな曲の歌詞が写されていた。発表されてから一年近く経つのにいまだにオリコンチャートでトップ10に入っている名曲だけど、わたしは伊都のほうがこの曲よりもいい曲をつくっていたんだろうなと思った。
わたしが自分勝手に臆病にならなければ、その歌を聴くことができたのだろう。伊都に逢えず、CDが壊された今、その曲を聴く術はなかった。
その後の劇の練習はまったく身が入らなくて、窪安さんに「そんなんじゃ茅野さんに代わってもらうよ!」と怒鳴られた。
「……ごめん。ちゃんとする」
とは言ったものの、やっぱり演劇よりも伊都のことに意識が傾いてしまう。
……あぁひさびさに伊都の曲が聴きたいなぁ。
そう思った直後、台詞をまちがえて窪安さんに睨みつけられた。
「もう降りていいよ。というか南野さん、どうして主役演じてるんだっけ」
「……わたしが主役を演じる姿を見たいって思ってくれる子がいるからだよ」
もういないけど。
「誰だろ……。まぁいいや。それはともかく。南野さん自身はどう思ってるの。その子の期待がなくても主役を演じたいの? 演じたくないの?」
「演じたい」
正直に言ってしまえば、伊都の期待がなければ演じたいと思っていない。
だけど、そう素直に答えて降板してしまったら、伊都に合わせる顔がない。伊都のためなら、わたしはいくつだって嘘を重ねる。
わたしの上辺だけの威勢に窪安さんは騙されて、劇の稽古が再開される。
わたしは伊都のためと思って、役を演じることに集中する。
窪安さんが「いいよ南野さん!」と、はじめて褒めてくれた。みんなも「急に良くなったじゃん」と褒めてくるからわたしはうれしくなって……。
けど、すぐにその中に伊都がいないことに気づいて悲しい気持ちになる。
「その調子だよ南野さん!」
「……うん」
わたしが落ち込んでいることに、誰も気づかなかった。
南野ほどくのはだかの姿は、今日も誰の瞳にも映らない。
※
帰宅後、わたしは制服を脱ぐより先にスマホでYouTubeを開いた。
二十秒ほどかけて検索欄に「方位磁石」と打ち込み、深呼吸して検索する。
動画は――表示された。
よく知るサムネイルと、記憶にあるよりもちょっとだけ多い再生回数。いちばん上に表示されているのは、方位磁石の代表曲、「深青の宝石と浅い僕ら」だ。
ひさしく使っていなかったワイヤレスイヤホンを耳に差し込み、ちゃんとペアリングしていることを確認したところで、動画を再生する。
暮れなずむ夕焼け空を想起させる物悲しいピアノが耳朶を揺らす。ややあってアコースティックギターのゆったりした音色が奏でられ、ノスタルジックな雰囲気にいっそう拍車がかかる。
「……はは、へんなの」
楽器の音も、わたしの声も、なにも異常を来たすことなくわたしの耳に届いていた。
文化祭のために伊都が用意した曲があの有り様だったから過去に伊都がつくった曲も聴くに堪えない惨状になっているのではないかと恐れていたけど、懸念だったみたいだ。
わたしの歌声と、それを支える伊都の楽器。
すんと鼻をすすり、ボリュームを上げる。
曲を聴いていると、あの頃が鮮明に脳裏によみがえる。
楽曲をつくる時間を少しでも増やすため、いっしょに小走りで帰った放課後。
ラストスパートをかけるためという名目で伊都の家に泊まったけど、結果だらだら過ごして終わってしまった連休。
はじめて動画にコメントがついて、伊都とぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ、雲間から差し込む一筋の光が街を彩る雨上がり。
ぜんぶぜんぶ、覚えている。
全世界に発信された、たった三分四十二秒の裏側にある楽しいことを、つらいことを、わたしはぜんぶ覚えている。
「ひぐっ……伊都、伊都ぉ……」
曲が終われば、べつの曲を再生する。その曲も音源はあの頃のままで、方位磁石の活動の足跡だけは変わらず残っている現状にわたしは深く感謝した。
曲を聴いているあいだだけは伊都を感じられる。
伊都のいない日常に挫けてしまいそうだったけど、彼女の曲が寄り添ってくれるのなら少しだけがんばれそうな気がした。
※
日をまたぐ一分前、鎮静剤を打たれたみたいに身体の自由がなくなった。その感覚にほっとする。
今日は十月最後の金曜日。
来週もこの感覚に襲われることに期待し、わたしは今週も睡魔に屈する。




