2024/10/21(月曜日)5/5
文化祭二週間前から、五限と六限が潰れて文化祭の準備時間となる。
「南野さん」
そう背中に声を掛けてきたのは窪安さんだ。
「今日は一度通しでやってから改善点をピックアップしていこうと思うけどどうかな?」
「うん。いいんじゃないかな」
脚本を読み込み練習に備えていると、クラスメイトの大多数が教卓のまわりに集まってぼそぼそとなにか話していることに気づいた。声のトーンは低く、無性に不穏な気配がした。
小柄というアドバンテージを最大限生かし最前列に躍り出て、ひょっこり顔を出す。どうやらみんなの注目は机上にあるようだった。
「なにかあったの?」
「わっ! ……って南野か。ビビらせんなよ」
茅野さんが睨みつけてくる。
たぶん茅野さんはクラスでいちばんわたしを嫌っている。特になにかした覚えはないけど。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど。……それでどうしたの?」
「このCD」
茅野さんが不愛想に指差す先には言葉通りCDがあった。ケースにはヒビが入っていた。
「教卓から出てきたんだけど、誰も持ってきてないんだよ」
まるで怪奇現象に見舞われた、と言わんばかりの表情とトーンで訴えてくるけど、これはほぼ確実に伊都が用意したものだろう。
とはいえ、今そのことに気づけるのはわたしだけだ。他の人にしてみれば誇張抜きに怪奇現象として映る。
「気味が悪い」
茅野さんが吐き捨てた。それは総意のようで、誰もがこのCDを腫れ物を扱うかのように遠巻きに見つめていた。
そんな目で見ないでほしいと思った。だってこれは、伊都がみんなのためを想って用意したものだ。
伊都は根が真面目だから、脚本をしっかり読み込んで、行間を解釈して、何度も何度も試行錯誤して。
そうやってこのCDを用意してくれたのだ。
なのにこんな扱いって……。
「捨てようぜ」
「だめ!」
わたしは反射的に叫んでいた。
「使おうよ、このCD!」
このCDに込められているのは、聴き手を呪う怨嗟の念なんかじゃない。みんなが忘れてしまった文化祭音楽担当の少女の、舞台の完成度をより高めたいという直向きな想いだ。
その想いは、音楽を通せば伝わる。そう信じて、教室に常備されているCDデッキにCDを入れて再生する。
音楽は流れた。
けど――。
「おいおい止めろ止めろっ!」
茅野さんが青ざめた顔で声を荒らげる。
まるで赤子が考え無しに創ったかのような曲だった。
音階は支離滅裂で。音はすれ違ってばかりで。キィ~と黒板を爪でひっかくような音が奏でられ、クラスの恐怖は最高潮に達する。
誰かがCDデッキのコンセントを抜いた。途端に教室は静謐に支配された。
「……あの、これ」
と、教卓のすぐそばにいた窪安さんの慄いた声が沈黙を断つ。小刻みに震える彼女の手には、折り畳まれたルーズリーフが握られていた。
紙面には曲名と思しきものと時間が綴られていた。
わたしのよく知る躍動感のある字だった。
「というかさ、音楽担当誰だったっけ」
誰かの何気ないつぶやきが、クラスメイトの足元にある恐怖の沼をますます深くする。
伊都だよ、と答えたところで問題が解決しないことはわかっていたから、わたしは口をつぐんで、嵐が去っていくのを待っていた。
「とりあえず音楽担当を決めよう」
窪安さんが言った。わたしは下唇を噛み締めた。
このままでは伊都の努力が水の泡になる。そう理解しているけど、現状をひっくり返す必殺の一手がない以上、下手に口を開いて状況を悪化させるわけにはいかず……。
傍観に徹しているうちに、吹奏楽部の田村さんにお鉢がまわっていた。劇の最後では、主役を演じるわたしが歌を歌うことになっている。訳あって歌を嫌いになったふりをしていた主人公が、自分の気持ちに正直になって歌を歌うシーンだ。
出来すぎた偶然だった。
主人公の境遇は、わたしと瓜ふたつだった。
両親は二十一時三十分に就寝する。だから、二十一時三十分以降は音楽を辞めるという約束を破って、伊都の奏でる音色に歌を乗せることができた。といっても両親を起こしてしまわないかという懸念があったので、いつも声を抑えて歌っていた。
だけど、文化祭でなら思い切り歌うことができる。月を跨いだその金曜日にもう伊都はいないだろうけど、それでも伊都が産み落とした歌を未来に届けたいとわたしは強く思っていた。
ぱきんと、硬い音がした。
CDが半分に割れた音だった。
「悪霊退散!」
サッカー部がけらけらと笑っている。結実した伊都の努力を壊して笑っている。
もう限界だった。
わたしは教室を勢いよく飛び出した。
「南野さん!?」
窪安さんの声に振り返らず、わたしは走る。走って走って、トイレの個室に転がり込んで、胸にわだかまる不快感を吐き出した。
「ああああああああ!」
叫ばないと、どうにかなってしまいそうだった。叫び、壁を叩きつけ、そうやって一分ほど感情を爆発させて、わたしは平静を取り戻した。
「……逢いたいよ」
蓋を閉めた便座の上に体操座りしてボソッとつぶやく。想いを口にした途端、止まったばかりの涙がふたたび瞳を覆い尽くした。
「ごめん……ごめんね、伊都」
わたしが伊都と顔を合わせることを避けているのは、次に出逢ったら謝りあって仲直りすることが目に見えているからだ。
仲直りしてしまったら、ペトリコールがいなくなって、祝福の効果が潰えて、伊都は消滅してしまう。
そうなってしまうことがこわくて、わたしはもう一度、伊都に嫌われようとしていた。嫌われてしまえば、仲直りすることはなくなるから。
けど、その瞬間がやってくる気配はなくて。毎朝送られてくる伊都のLINEは優しいままで。
制服の裾で涙を拭き、わたしはトイレの個室から出る。水で顔を洗い、鏡にうつる目を腫らした自分をまっすぐ見つめて決意を固める。
伊都に逢おう。
LINEを立ち上げてトークルームを開き、今日までちゃんと見ていたけど、システム上は見ていないことになっている伊都からのメッセージにようやく既読をつける。
【ほどく】今、どこにいる?
【ほどく】話したいことがあるんだ
この行動が原因となって、伊都と過ごせる時間が減ってしまうかもしれない。だとしても、今すぐ伊都に逢わなくちゃいけない。
伊都は寂しがり屋だ。みんなは伊都を孤高だと思ってるけど、ちがう。伊都は孤独だ。望んでひとりになっているのではなく、望まずしてひとりになっている。わたしのために。
わたしが気づいていないということは、伊都は先週の金曜日にCDを教室に持ってきたのだろう。そのときは、まだみんなにも姿が見えていたのだろうか。
そうであってほしいなと思う。そうじゃなくちゃ伊都があまりに不憫だ。
味方だと信じていたわたしに拒絶され、クラスメイトには努力を無碍にされ。
……そんなの、あんまりだ。あんまりがすぎる。
一分が経った。
既読はついていなかった。
わたしは教室とは逆方向に駆け出した。
※
渡り廊下を走り抜け、階段を駆けのぼり、やがて校内でいちばん空に近い場所にたどりつく。
「伊都!」
ぴゅうと、タイミングよくやってきた秋風がわたしの声に応える。
青い空を綿あめみたいな雲が泳いでいた。駅前の商店街と住宅街の先には陽の光を浴びて煌めく海があり、そのさらに向こうでは雄大な自然が佇んでいる。
風に続けて、肉声が返ってくることはなかった。
「……いないか」
食後、タオルを定位置に戻し忘れていたようだ。段差の下にしまって屋上を出る。
伊都はどこにいるのか、とペトリコールに聞けば、すぐに伊都に逢えるだろう。けど、そうしたくなかった。わたしの力だけで伊都を見つけ出したかった。
まず伊都の家に向かった。
インターフォンを三回鳴らしても、家から足音は聞こえなかった。
次に公園に向かった。
いなかった。
続けて海に向かった。
いなかった。
その後も、塾を仮病でさぼり、足裏のじんじんした痛みも無視して伊都を捜しまわったけど、ついに伊都を見つけることはできなかった。
※
とっぷりと日が暮れた二十時、わたしは駅前のマックでバニラシェイクをちびちび飲みつつ足を休めていた。
伊都に送ったLINEにはいまだに既読がついておらず、くだらないプライドを捨てて電話しようとストローから口を離した折、わたしは目を疑う光景を目にした。
「え?」
伊都から送られたLINEが一通消失した。今朝送られてきた「おはよう」LINEだ。
最初は伊都が送信取消したのかなと思った。けど、だとすれば違和感がある。わたしの送ったLINEに既読は変わらずついていなかったからだ。
また一通LINEが消えた。さらにもう一通。
人が操作しているとは思えない速度で、伊都のLINEが消えていく。
「なにこれなにこれ」
画面を指先で何度も突っつくも、画面は変わらない。どんどん伊都のLINEが消滅していき、ついにはトークルームから伊都のメッセージが無くなった。
LINEが勝手にスタート画面に戻る。かと思えば個別トークルーム一覧が表示される。しかしいちばん上に伊都のアカウントアイコンは表示されていなかった。
無性に嫌な予感がした。
画面をスワイプする。
……ない。一度スタンプを送り合って以降、三年間音沙汰のない無くても困らないアカウントは残っているのに、いちばん大切な伊都のアカウントが、どこにもない。
伊都の電話番号を打ち込み発信する。すぐに『お掛けになった電話番号は――』と女性のアナウンスが聞こえてきた。
もう一度、同じ番号を打ち込む。
結果は同じだった。
「そんな……」
まるで世界が伊都を隠してしまったかのようだった。
しばし思考を停滞させたのち、わたしはこの不可思議な現象の謎を解ける誰かに頼る権利があることを思い出した。つぶやく。
「ペトリコール」
「呼んだかい?」
はじめからそこにいたかのように、幻想的な美しさをたたえた彼女は、わたしのすぐ隣で足を組み頬杖をついていた。
「急かすようで申し訳ないけど、ふたりのために割ける時間は三分しか残されていないんだ。手短によろしく」
「伊都はまだいる?」
「うん。いるよ」
迷いのない返事にほっとする。
「ただ、限りなく存在が希薄になっている。現時点で、私とほどく以外に伊都のことを覚えている人間はいないよ。といっても一時的な話だ。彼女が十七年生きた足跡も、彼女が残した功績も、十月が終わればすべて蘇る。この一か月、伊都が本来なら存在しない期間に残した功績も、未来に残せるよう最善を尽くす。すべて残すことは難しいだろうけど、伊都の中で優先度が高いものはなんとしても未来につなげる。それが、私に課せられた使命だ」
自分に言い聞かせるような強い声だった。
「おおかた、ほどくは伊都ともう逢えないのではないかと危惧しているのだろう。それは半分正解で、半分不正解だ」
ペトリコールはパーにした手のひらを向けてきた。
「ほどくが伊都を認識できるのは、あと五分だけだ」
「え……」
あと五分だけ?
「その五分間を至高のひとときにするべく、伊都は自ら望んで、誰からも認識されないひとりの世界で過ごすことを選んだんだ」
「……」
まただ。
また伊都は、わたしのために、進んで自分が傷つく道を選んだんだ。
「ほどくは気づいていないけど、伊都はいつもそばに居るよ。ほどくが現実に立ち向かっていく姿が、いつだって伊都の勇気を奮い立たせている。だからほどく、今は文化祭の準備に集中するんだ。それが、ほどくが今、伊都のためにできることなんだ」
「……そんなのって」
伊都がひとり孤独に苦しんでいると知りながらなにもしないなんて……。
「……わたしには、ほかになにもできないの?」
「うん、できない」
きっぱりとペトリコールは言い切った。
「ごめんねほどく。優しく寄り添いたいのはやまやまなんだけど、時間がないから淡白に事実を告げることしかできないんだ。じゃあ今日はこのあたりで。……もしかしたらこれが最後になるかもしれないから告げておこう。わたしを産み落としてくれてありがとう」
一方的に告げると、店内で起こされたとは思えない強い風が顔に吹きつけた。きゅっと目をつぶり、風が止んで開けた視界からは、これまで同様ペトリコールがいなくなっている。
「……ってことは、わたしは来週まで伊都にもペトリコールにも逢えないの?」
ふたりと逢うことはできず、逢うことしかできないことはわかっていた。ふたりがいなくなる未来が近々訪れることは覚悟していた。
けど、あまりに唐突だ。心の準備ができていなくて、感情が追いついてこない。
これからのわたしの日常からふたりがいなくなる。
脳内で反芻してみても、やっぱり感情は追いついてこなかった。




