2024/10/21(月曜日)4/5
ピコン、と耳元で聞こえたスマホの通知音で目を覚ました。
スマホを手に取り電源をつける。
わかっていたけど、伊都からのLINEだった。
【伊都】おはよう。今週いっぱいやらなきゃいけないことがあるから学校休むね
土曜日、日曜日と、伊都と顔を合わせることなく月曜日がやってきた。
土曜日を伊都と過ごすことなく終えたのは一昨日がはじめてで、部屋の掃除をしたり気分転換に散歩したりしてもちっとも満たされない心が、土曜日が色づいていたのは伊都が居たからなのだと教えてくれた。
「……おはよ伊都」
アプリを立ち上げずともメッセージを確認できるこの機能は不便で便利だ。
メッセージを確認しても返信はせず、肩をさすりながらリビングに向かう。
扉を開くと、キッチンでお弁当をつくるお母さんの姿が目に映った。
「おはようございます」
「はい、おはようございます」
相変わらず、産みの親とその娘が交わしているとは思えない業務的なあいさつだ。
ふと目についたお弁当には、珍しく色鮮やかなおかずが敷き詰められていた。お母さんは基本仕事が忙しいからと、白米で敷き詰められたおかずなし弁当で済ませる。
寂しいな、とこれまで感じることがなかったのは、伊都がおかずを分けてくれていたからだろう。むしろ伊都と同じおかずをシェアできて楽しい気分にすらなっていた。
「ほどく」
バタートーストにぱくついていると名前を呼ばれた。少し遅れて気がついたけど、お母さんがわたしの名前を呼ぶのは数年ぶりのことだった。
「これまで味気ないお弁当で済ませてしまい申し訳ありませんでした。これからはしっかりしたお弁当を用意しますからね」
面食らってしまった。
「……突然どうしたんですか?」
お母さんは胸に手を添え、懺悔するように語る。
「誰かに言われた気がするんです。娘にちゃんとしたお弁当すら用意できないあんたは母親失格だって。……私はこれまで、ほどくにたくさんの無茶を強いました。そのくせ、自分は仕事を言い訳にして雑なお弁当で済ませるのは卑怯な気がしたんです。……本当にごめんなさい。深く反省しています」
「あ、いや、そんな……」
深々と頭を下げられてあたふたしてしまう。
明らかに異常だった。お母さんがわたし相手にここまで下手に出たことなんてこれまでに一度もなかった。
誰かに母親失格だと言われた気がする、とお母さんは言った。言われた、ではなく、言われた気がする、だ。
いつその出来事があったのかはわからないけど、その誰かは伊都だろう。
なんだか妙な言いまわしだ。
もやもやを晴らすため、思い切って訊ねてみることにする。
「伊都となにか話したんですか?」
「いと?」
いまひとつ語感を把握していないようなイントネーションだった。
「すいません。どなたですか?」
その瞬間、背筋を怖気が突き抜けた。
「北原伊都ですよ? お隣の北原さんちの次女です」
「次女って……北原さんのご自宅には元から歩夢さんしかいないじゃないですか」
僅かに震えたお母さんの返事を耳にし、いつかペトリコールから聞いた言葉が脳裏を掠める。
――おそらくだけど、三週目後半あたりから、伊都は徐々に人から認識されなくなっていく。
今日は十月二十一日。十月がはじまってから、明日でちょうど三週間。
予告されていたよりも少し早いけど、きっとその瞬間が訪れたのだろう。
伊都のいる日常がいつまでも続くと思い込んでいた。けど、言わばこの期間はボーナスタイムで、終わりはもう十日後にまで差し迫っているのだ。
焦燥が募る。
だというのに、わたしと伊都のあいだには一か月前よりも深い溝がある。
伊都が多くの人から認識されなくなっていると理解してもなお、わたしはLINEを返す気にはなれなかった。
LINEを返したら、残り十日の猶予が一気になくなってしまう気がしてこわかった。
※
教室から伊都の席は消えていた。朝のHRで先生が出席点呼を取る際も、茅野さんの次は栗田さんで、あいだのひとりが抜けていることを誰かが指摘することはなかった。
授業中、特に意味もなく後ろを振り返ってしまう。
伊都はいつも授業そっちの気で曲づくりに没頭していた。けどわたしの視線にはいつも目聡く気づいてくれて、それがうれしくてわたしが手を振ると、伊都はムッと顔をしかめ明後日を向いていた。ほんのり赤くなった横顔を見て、照れちゃって~なんて思いがらくすっと笑うのがわたしの日課だった。
それが授業中のなによりの楽しみだった。
「南野、わかるか」
「あ、はいっ」
数学の授業中だった。積分を応用して図形の面積を求める問題。まったく先生の話を聞いていなかったけど、幸いにも問いは書かれているから、あとは授業と塾で培った知恵を生かして問題を解くだけだ。チョークはすらすら動かせた。
途中式を書いていると、ボソボソとクラスメイトの囁き声が運ばれてきた。
「あいついっつもイきってんな」
「来年も南野と同じクラスがいいわ。……え? いやいや、あんな小学生みたいなのを恋愛対象として見るのは普通に無理だろ。どこがとは言わないけど、俺はデカいほうが好みだし。というか、そんな目で見たらあいつに殺されるだろ。えっと……あれ誰だっけ?」
わたしはこのクラスでみんなから嫌われているんだって知っている。
物理的にその悪感情がわたしを襲ってこないのは、わたしを傷つけて伊都から報復されることを誰もが恐れているからだ。
尾ひれのついた噂と憶測に反し、伊都は殴る蹴るどころか、蚊を殺すことさえも躊躇ってしまう優しい女の子だけど、それを知っているのはわたしだけだった。
どうやらみんな伊都を忘れているのに、伊都が残した功績だけは覚えているようだった。だから、伊都から母親失格だと説教されたお母さんがお弁当をちゃんと作ったし、わたしを嫌うクラスメイトは陰口を叩くだけにとどめている。
伊都のいない世界で、わたしは伊都に守られている。
「どうした南野。わからないか?」
「……いいえ」
だめだ。泣いてしまいそうになる。
休み時間、わたしはトイレで涙を流した。
最近はこの行動が日課となっている。




