2024/10/3(木曜日)
伊都が亡くなってから一週間が経とうとしていた。
胸にぽっかりと大きな穴が空いていた。
その穴からは、生きる気力だとか生きる目的だとかが抜け落ちていって、その結果、わたしは空っぽになっている。塾に行ったり学校に行ったりはしているけど、しているだけだ。反復する日常のすべてが空虚で無価値に思えた。
お父さんは片足の感覚がなくなるという後遺症を患った。一連の事件の詳細を知ると、お母さんは伊都の両親にどう責任を取るんだと高慢な態度で詰め寄った。伊都の両親はぺこぺこ平謝りに徹していた。わたしたちの教育がなっていないのが落ち度です、と言っていた。
わかっていないなと思った。伊都がわたしのために、わたしの両親の殺害を企てたことを知るのは、この世でただひとり、わたしだけだった。誰にも話す気はなかった。
気づけば昼休みになっていた。わたしはランチバッグ片手に屋上に向かった。
段差の下に手を伸ばせば、伊都がいつも使っていたタオルが二枚積まれている。片方をわたしのおしりの下に、もう片方を隣に敷き、わたしは弁当箱を開いて「いただきます」と手を合わせる。今日もいつもどおり日の丸弁当だ。
「ねー伊都、その卵焼きちょーだい」
【いいよ。ほかにも欲しいおかずがあったら遠慮なく言いなよ。あまりお腹空いてないんだ】
「っていうけど、いつも夕方おなか空かせてるじゃん」
【空かせてないし】
「うそ。きのうおなかなかぐーぐー鳴ってたよ」
【雷の音だ】
「快晴だったはずだけどなぁ」
会話を弾ませながら箸を動かす。ミニハンバーグに、エビフライに、からあげに、卵焼きに。伊都からのおすそ分けのおかげで一気にお弁当が華やかになった。
からあげにぱくつく。
味はしなかった。
「……あはは」
【どうした? またあいつらになにかされたのか?】
「やっぱりむりだよ。……わたし、伊都無しじゃ生きていけないよぉ」
ぽつぽつと、瞳から零れたしずくが白米の上で跳ねる。
ここ数日、屋上でお弁当を食べるときはいつも泣いている。教室では人の目があるから不意に寂しさが訪れても涙を堪えているけど、この場所でなら感情に正直になることができる。
泣きながら白米をむしゃむしゃ流し込むように食べる。
途中、むせ返ってこほこほと咳き込むけど、誰も「大丈夫?」と心配げな声を掛けてわたしの背中をさすることも、「なにをそんなに焦ってるんだ」と冷めたまなざしを突き刺してくることもなかった。
わたしは、ひとりぼっちだった。
「ごちそうさまでした」
「うん、礼儀正しくてよろしい」
すぐ隣から声が聞こえて、驚きのあまりひっくり返りそうになった。
まったく気づかなかったけど、拳ひとつぶん離れた場所に、長い足を組み、その上に肘を置いて頬杖をつき、こちらをじっと見つめる女生徒がいた。
毛の一本一本に価値がついてしまいそうな深青の髪。純度の高い宝石を埋め込んだような紫紺の瞳。傾国の美女、なんて表現が似合いそうな、綺麗すぎて恐怖さえ覚える美人さんだった。
胸についている黄色のリボンを見るにひとつ年上だ。機先を制して彼女は口を開いた。
「ほどく、伊都ともう一度逢いたいだろう?」
どうしてわたしと伊都のことを知っているんだとか、そんなことできっこないとか、戸惑いも反感もなく、わたしは食い気味に顔を近づけて答えていた。
「逢いたい!」
「うん、素直でよろしい」
女生徒は嫣然と微笑んだ。ゾッとするほど完璧な笑顔だった。
「まずは自己紹介といこう。私は方位磁石のサウンドトラックが実体をもった存在だ」
わたしは、まばたきすることしかできなかった。
「地上には五十九分三十七秒だけ存在することができる。これは『通り雨』のアルバムに収録された十三曲の累計時間だ。私が地上に留まれる時間は限られている。ゆえに、どのような過程を経て地上にやってきたのか、説明することは可能だけど、前提知識無くして理解するのは困難だろうから、君たちの音楽が実体をもって恩返しにきた、という解釈に留めてほしい。いいかな?」
うなずく。既になんとか話についていっているという状況だ。
女生徒は――サウンドトラックは前髪をたおやかな指で弄りながらつづける。
「私には〝十三の祝福〟という特別な力が宿っている。ほどくと伊都が現実に藻掻きながら祈りを込めて生み出した十三曲に関連する願いを叶える力だ」
ぽかんとするわたしに、サウンドトラックは少し話す速度を緩めて続ける。
「例を挙げよう。五曲目『潮風の鼓動』を依り代にした場合は、私はほどくに相手のこころを読める異能力を与えることができる。けど同時に、表情筋が機能しなくなる縛りを課すことになる。十曲目『メリー喰らいます』を依り代にした場合は、この世界からクリスマスという概念を消失させる事ができる。それと引き換えに君の誕生日を消失させる事になる」
サウンドトラックは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「このように私は不完全な存在でね、譲渡できる祝福はサウンドトラックに収録された十三曲に関連するものに限られてかつ叶えるにあたって必ず縛りを必要とする。君たちが込めた祈りが奇蹟となり、君たちが込めた鬱憤が代償となっているんだ」
にわかには信じがたい話だった。
だけど、もしも、その話がほんとうなら……
「その祝福で伊都を生き返らせることはできる?」
「できるとも」
わたしは、サウンドトラックの手を握りしめて叫んだ。
「どんな縛りでも受ける! だからお願い! 伊都を生き返らせて!」
「落ちついてほどく」
幼子をあやすようにわたしを頭を撫でてくる。……柔らかい声色も、繊細さが濃く滲んだ撫で方も、伊都にそっくりだった。
「私は第八の祝福をもって伊都を生き返らせることができる。しかし、それはもって一か月といったところだろう。おまけに縛りも課すことになる。具体的には県外に出ることができなくなるという縛りだ。不完全で申し訳ないね」
「歌詞の一節だ」
〝不完全な僕らは、生まれ育った街を出ることさえも許されない〟
それは、方位磁石が八曲目につくった曲にして代表曲でもある『深青の宝石と浅い僕ら』に添えられた一節だった。
八曲目の曲だから、第八の祝福。遅れて理解が追いついてくる。
「そうだとも、伊都に課すことになる縛りは歌詞の一部だ。そして、ほどくにも同様に代償を払ってもらうことになる」
「〝これまでの大切と引き換えに新しい大切が手に入るのなら僕は今を捨てることを厭わない〟……この一小節から派生した代償なんじゃないかな」
「さすが私のお母さんだね」
急になにを言っているのだろうと思ったけど……そっか、この子から見たら、私と伊都はお母さんになるのか。どっちもお母さんだなんて変な話だ。
けど、うれしいな。こうやって伊都との想い出が目に見えるのは。
「それで、わたしは具体的にどんな代償を払うことなるの?」
「毎週金曜日、この世界から消失することになる」
息を呑んだ。
「消失するといっても、痛かったり怖かったりはしないから安心してほしい。……ごめん嘘。毎度、いくつか記憶を追体験することになる。いずれも伊都と深いつながりを持つ記憶だ。その記憶はきっとほどくを苦しめる。ごめん、こればっかりは私にはどうしようもないんだ。なにぶん、第八の祝福は十三ある祝福のなかでももっとも強力だからね。自覚はあるだろうけど、ふたりがもっとも葛藤を詰め込んでいるのが、『深青の宝石と浅い僕ら』なんだ」
こんな未来が待ち構えているのならもっと前向きな歌詞を綴っておけばよかった。しかし、悔やんでも後の祭りだ。束の間とはいえ、重たすぎる枷を背負うことになるとはいえ、伊都が期間限定で生き返る奇蹟が訪れることに感謝しよう。
ここで話は一区切り、というようにサウンドトラックはぽんと手を叩いた。
「で、記憶を追体験したのちに、元の世界に戻るというのが一連の流れになる。まぁ体験すれば大したことないなって思うだろうさ。それに、投げ出したくなればすぐに辞めることだってできる。その瞬間をもって伊都は本来の状態に戻るけどね?」
「ならぜったい投げ出さない」
伊都がこの世界に留まれるというのなら、わたしはどんな地獄も耐え抜いてみせる。
「うん、思った通りの返事だ。ここまでの説明の中でわからなかったことはあるかい?」
「ううん、ないよ。サウンドトラックは説明が上手だね」
「よしてくれ。照れるじゃないか」
サウンドトラックは身をよじった。褒められることに慣れてない部分は伊都の性格が遺伝しているんだろうなと思った。
「しかし、サウンドトラックという呼び名は今ひとつ可愛さに欠けるね。……ほどく、私に名前をくれないかい?」
「名前か……」
たしかに、サウンドトラックと呼ぶのはなんだかなぁって気がする。
うんうん唸って、わたしは告げた。
「いったんはペトリコール」
「一旦は?」
「うん。『通り雨』ってアルバム名から連想したものだけど、なんか違うなぁって気がするから今度またつけ直す。それまで待っててくれる?」
「もちろんだとも! ……ペトリコール。私はペトリコール。えへへ」
はにかんだ顔は子どもみたいで、無性に頭をナデナデしたくなる。大人みたいだったり子どもみたいだったり、ちぐはぐで可愛い娘だなぁと思った。
「そうそう、伊都が限定的に生き返ったら、祝福のことは隠し、彼女の願いを叶えるふりをして近づこうと思ってる」
「なにかそうしなくちゃいけない理由があるの?」
こくりと頷き、ペトリコールは三本指を立てた。
「ひとつは、仮に県外に出ようとしても出られなかった場合に、それは願いを叶えるための代償だと思わせるため。ひとつは、想定よりも早く私の力が無くなって伊都が不可思議な現象と直面した際に寄り添うため。ひとつは、十月三週目の金曜日になってもほどくが伊都に真実を伝えていなかった場合、私の口から真実を告げるためだ」
伊都はもう亡くなっている。果たしてわたしは、自らの意思でその真実を伊都に伝えることができるのだろうか。
「おそらくだけど、三週目後半あたりから、伊都は徐々に人から認識されなくなっていく。念頭に置いておくように」
「わかった。ほかに注意することはない?」
「そうだね……」
ペトリコールは形のいい顎に手を添える。
しばしの黙考の後、ぽんと手を打って言った。
「仲直りしたら伊都は消滅する。だから直前まで仲直りしちゃ駄目だよ」
「え、ずっと絶交したままでいるの?」
「すまないね、私がこうして地上に留まれているのも第二の祝福の力によるもので、君たちふたりが仲直りしてしまったら私が地上に留まれる時間は問答無用で0になってしまうんだ。はっははー、遅かれ早かれその瞬間は訪れるだろうから、それまでに与えられた時間をきっちり使い切らなくちゃね」
「……そっか。ペトリコールもいつかはいなくなっちゃうんだ」
これから伊都とペトリコールのいる日常がはじまる。だけど、それは一か月限りの夏休みみたいなもので、ゆくゆくはわたしはひとりになってしまうのだろう。
「そうしょげた顔をするな。そもそも私はこの世界に刹那的とはいえ存在できているだけでも奇蹟なんだ。あと、わかっているだろうけど伊都はとっくにほどくを許しているよ。とはいえ、仲直りは絶対にしなくちゃダメだ。十月最終日まで、なんとか私が伊都をこの世界に留めてみせる。彼女が生きた足跡を残してみせる。だからその日に、ちゃんと仲直りして、しっかりお別れするんだよ?」
学校一帯にチャイムが響きわたる。昼休み終了を意味する音だ。
「よし、これで話せたいことは全部話せたかな。じゃ早速明日から消失することになるけど、伊都のためだと思って耐え忍ぶんだよ」
「うん」
「伊都がいるから大丈夫だろうけど、今後つらいことがあったらすぐに私を呼ぶように。悲しさを誤魔化すために独り言をつぶやきながら食事を摂る姿は、正直痛々しく見ていられなかったからね」
「うん、気をつける」
頷いて、わたしはペトリコールに微笑みかけた。
「ありがと、ペトリコール。伊都にも優しくしてあげてね」
「もちろんだとも。では、私はこれで」
直後、勢いよく風が吹いた。脊髄反射で目をつぶり、数秒後に開けた視界に、陽射しがなくとも光沢を帯びる深青の髪は靡いていなかった。
「……また伊都と逢える」
あれが最後というのはあんまりだと思っていた。募る想いに対し、交わした言葉はあまりに少なかった。
謝りたいことがあった。伝えたい気持ちがあった。
もう一度、伊都と過ごす時間をやり直せるのなら、今度は後悔しないよう、ぜんぶぜんぶ、やり遂げたいと思った。
「よしっ!」
まずは明日、ひとりぼっちの金曜日を乗り越えるところからだ。正直に言えば、ペトリコールの説明を聞いてもよくわからなかったけど、一度体験してみればなんとなくわかるだろう。
金曜日に世界から消失する。
そんなような曲を、去年伊都とつくっていたことを覚えている。
タイトルは「君のいない〇曜日」。
あの時はどの曜日がしっくりくるかなって悩んで結局答えは出なかったけど、今なら「金曜日」と埋めることができる。
まさしく一か月先の未来でわたしを待つのが、「北原伊都のいない金曜日」だ。けど、明日から一か月のあいだだけ蘇る伊都にしてみれば、「南野ほどくのいない金曜日」になるのだろう。
顔をあげれば、日に日に地上に近づいている青空が広がっている。
残暑がしつこく居座り、肌がまだほんのりと汗ばむ十月のはじめ。
わたしは奇蹟と邂逅した。
一週間ぶりに明日を待ち遠しく思った。




