2024/9/27(金曜日)
金曜日は十八時から二十一時まで塾に通っている。塾に行くのは週三日。月曜日、火曜日、金曜日。定期テスト前は、ここに日曜日も加わる。
本日最後の授業が終わった。
引き出しから先月受けた模試の答案用紙を取り出し、わたしは憂鬱な気分になる。
二百点ちゅう百八十二点。クラスでは最高得点だ。けど、お父さんにはどうしてこんな点数を取ったのかとなじられる未来が目に見えていた。
塾から出ると、街はすっかり夜の色に染まっていた。
酔っ払ったサラリーマンや路上ライブをする人たちを羨ましく思いながら、わたしは光を嫌う吸血鬼のように暗がりに足を進める。
夜空では星々が瞬き、下弦の月がわたしを見下ろしている。
答案用紙を紙飛行機にして飛ばそうか、なんて考える。「いいねっ!」と楽観的な自分が肯定する一方、「後々バレたら面倒だよ」と冷静なわたしが指摘してくる。
逡巡なく、わたしは紙飛行機を飛ばすことを諦めた。どのみち怒られるなら軽い方がいい。
まもなく自宅だ。お父さんが残業で帰ってきていなかったらいいな、なんて思いながら歩幅を縮めて歩くも、いずれはその瞬間が訪れる。
塀を通りすぎて玄関に目をやり、息を呑んだ。
「……え?」
伊都のうしろ姿があった。その奥では誰かがうつ伏せに倒れていた。
――お父さんだった。
玄関の脇についたランプがお父さんの背中を照らしている。臀部のやや上だけスーツの藍色が赤く変色していた。それだけでなく、赤色が地面に広がっているように見える。
ややあってわたしに気づいた伊都がわたしを振り返る。手には包丁を握っていた。
刃の部分にべっとりとついた真紅が月明かりに反射していた。
「おかえり、ほどく」
半年ぶりに笑顔でほどくと呼ばれたのに、わたしはちっとも喜ぶことができなかった。
胸が弾んでいる。嫌な予感に弾んでいる。
包丁の先端から滴り落ちた鮮やかな赤が、ぽたりと正方形のタイルに染みをつくる。見れば染みはいくつもあった。
伊都がわたしに一歩近づいてくる。
わたしは無意識に二歩後退していた。
「ん?」
伊都は小首を傾げる。昔から変わらない疑問を覚えたときにするその仕草を可愛いなと思っているけど、今は無表情で首を傾げる姿がこわくて仕方なかった。
伊都がお父さんを殺した。
説明されずとも、困惑のシークエンスを超えた脳が教えてくれる。
伊都はわたしの視線を追って包丁に目をやると、ふっと顔をほころばせた。この状況で、笑っている。
「ほどくを刺すわけないだろ。あたしが殺すのは、ほどくを苦しめるこのクソ野郎どもだけだ」
手から包丁を離し、伊都は危害を加えることはないと言外に伝えるように両手をあげる。
殺す、と伊都ははっきりと言った。
伊都が手を伸ばし、わたしはまた無意識に後ずさってしまった。
「鍵貸して」
「……どうして?」
肺腑から絞り出した声は掠れていた。
伊都は「決まってるだろ」と軽い調子でつづける。
「ババアを殺すんだよ」
わるい夢じゃないかと思った。
わたしは両親が嫌いだ。事故って死んじゃえばいいのに、と不謹慎なことを願ったことだって何度もある。けど、こんな形でその願いが実現することは望んでいなかった。
「……自分がなにをしてるかわかってるの?」
「わかってるよ。ほどくとふたりきりの世界に行くための準備をしてるんだ」
降り注ぐ星の光になぞられた伊都の顔は、やっぱりあの頃みたいなあたたかさに満ちていた。
「本当は別の方法でほどくを救おうとしてたんだけどまた失敗しちゃってさ、その時にふと思ったんだ。こいつから逃げるんじゃなくて、こいつらを消せばいいんじゃないかって。はは、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろうな。灯台下暗しとはよく言ったもんだよ」
気づかなくて当然だ。だって人を殺すという発想が人倫にもとる行為であることを人は無自覚に理解していて、ストッパーがかかっているのだから。
鍵をねだるように、伊都が手を動かす。
わたしはリュックを前にまわして強く抱き締めた。
「この期に及んでババアを庇うか。ほどくはいい娘すぎるよ」
どうしたものかとばかりに、伊都は腕を組んで唸っている。クリーム色の長袖パーカーには赤い斑点が絶妙なバランスで付着していて、一見すればそういう柄のようだった。
ここからわたしはどうするべきだろうか。
警察を呼ぶべきだろうか。伊都と逃げるべきだろうか。
思考が戸惑いと恐怖の渦中にある。眠気はすっかり吹き飛んでいるのに、脳がぜんぜん機能していなかった。
視界の意識していない部分でなにかが動いた。お父さんの遺体の近くだということはわかった。
しかし、その認識は誤りであったのだとすぐに理解する。
「ぐぁぁあっ!」
突然、伊都が悲痛な声をあげてしゃがみ込んだ。右のふくらはぎを押さえている。指の隙間からは絶えず赤い液体があふれていた。
次の瞬間、わたしは信じられない光景を目にした。
お父さんが立ち上がっていたのだ。逆手に持った包丁を伊都に振り下ろそうとしていた。
「伊都!」
気づけば身体が動いていた。
幸いにも伊都との距離は十メートルもなかった。振り返った伊都が、ゾンビのような顔色で包丁を刺そうとするお父さんを見てぎょっとする。
お父さんが包丁を振り下ろす。――そのときには既に、わたしは両手を大きく伸ばして伊都とお父さんのあいだに割り込んでいた。
あぁここで死んじゃうのかなぁと、迫る死の恐怖と痛みから逃げるように目をつぶる。
しかし待てども鈍痛がわたしを襲うことはなかった。
代わりに温もりがわたしを包み込んでいた。
「……ちゃんと死んだか確認しとくんだったな」
耳元で失笑する気配があった。続けてどさっと、たぶんお父さんが昏倒した音がした。
伊都の声は、掠れて弱々しかった。
腰から背中に、ゆっくりと手を動かすと、こつんと指先になにかがぶつかった。木の感触だった。
その感触が行きつく先には冷たさと熱があった。
ぬめった、熱い、液体だった。
「……救急車。はやく救急車呼ばなきゃ」
「ほどく」
「しゃべらないで! だいじょうぶ、だいじょうぶだからね、伊都はだいじょうぶだから!」
どうしようどうしよう。
意識が錯乱する中、わたしは助けを求めて叫んでいた。
「お母さん!」
「いいよ」
「お母さん! お母さん!」
「ほどく、もういい。最後に話を聞いてくれないか」
「いやだ!」
最後になんて絶対にさせない。
伊都はこれからも生きていくんだ。わたしと生きるんだ。
「ごめんね、ひとりぼっちにさせちゃって」
「ひとりぼっちにはならないよ。だって伊都はだいじょうぶだもん。ぜったい助かるもん」
「……あのさほどく、あたしのこと嫌い?」
「嫌いなわけないよ。大好きだよ。世界でい~ちばん好き」
「……よかった。あたしとおんなじだ」
安心したように笑うと、伊都はこつんと額をぶつけてきた。
「あたしはずっと見守ってる。だから、つらくても歩いて。生きることを諦めないで。大丈夫。ほどくなら大丈夫だよ」
「やめてよ。そんな、まるでお別れみたいにさ……」
「あたしなんかの親友でいてくれてありがとう。……大好きだよ、ほどく」
伊都はわたしの頬に唇を近づけて――しかし熱が触れることはなく、がっくりと項垂れた。
抱擁がほどけ、伊都が地面に倒れ落ちる。背中からは今なお鮮血があふれている。
おそるおそる、伊都の胸に耳を押し当てる。
――鼓動が脳を揺らすことはなかった。
「……夢に決まってる」
そうだ。これはわるい夢だ。
玄関の扉が開いた。バスローブに身を包んだお母さんがいた。
「急に大声で叫んでどうし……きゃああ!」
それから救急車が来て、伊都とお父さんが搬送された。
ふたりの安否が告げられたのは深夜だった。
お父さんは重傷であるものの生きながらえて、伊都は死亡が確認された。
九月最後の金曜日、わたしの親友の北原伊都は命を落とした。
仲直りしていないまま、絶交したまま、帰らぬ人となった。




