2024/10/4(金曜日)2/2
帰りのHRが終わった。
あたしは肩にギターを引っ掛け、鞄を片手に持ち、悠々たる足取りで教室を後にする。
背中にいくつもの不躾な視線を感じる。今日はあいつがいないから、一日中誰にも話しかけられずに過ごせて心地良かった。
屋上の扉を開くと、あたしを追い返すように突風が襲い掛ってきた。二十分も歩けば海があるため、この地域は風の強い日が多いのだ。
夕風が凪いできたところで瞼を開く。
あたしの頬は自然と緩んでいた。
「いつ見ても絶景だ」
水平線に夕陽が溶け落ちている。
静かに波打つ海。
絵の具をこぼしたみたいに藍色の滲んだ空。
息を吸って、吐く。
この瞬間、いつも世界があたしだけのものになったかのように錯覚する。
あたしがすることを一も二もなく肯定してくれて。
あたしが欲しいと願うものを瞬きの後に用意してくれて。
そんなくだらない妄想をして自嘲するまでが放課後のルーチンである。
正面に給水塔。右手と左手にあたしの身の丈ほどの高さの鉄柵。そしてコンクリートの床。
ありふれた屋上。
今はあたしだけの世界。
いつもの定位置、給水塔の脇の段差に足を伸ばし――危うく心臓が止まりそうになった。
「やあ」
女だった。
逆光になっていてもわかるほど青に艶めく作りものめいた長い髪。ゾッとするほどに美しい紫紺の瞳。
「おや、さては私の姿が見えていないかい?」
「……見えてる」
「よかった。てっきり第九の祝福が機能していないのかと焦ったよ」
「第九の祝福?」
問い返すあたしに、女は目を大きく目を見開いた。
そして、こつんと頭にこぶしをぶつけた。
「これはうっかりうっかりだ。今のは聞かなかったことにしてくれまえ」
「中二病ってやつか?」
「うん、そういうことにしてほしい」
逡巡なく応じ、女は相好を崩した。
仮に点数をつけるのなら、その笑みは低く見積もって百二十点だろう。
なにからなにまで宝石のように美しいものだから、あたしには同じ制服を着たその女が同じ人間とは思えなかった。
※
「で、なんの用? 早く帰ったら?」
「帰るも帰らないも私の自由だろう。さ、気にせず続けたまえ」
隣に腰掛け腕を組んだまま、にこりと頬をほころばせる。邪魔なんだけど。
一曲弾き終える。
口笛と拍手。女は「次はどんな曲を弾くんだい?」と乗り気だ。
もう一曲弾き終える。
有名な曲をカバーしたからか、女は途中歌詞を口ずさんでいた。
「用があるならとっとと言え」
「あらこわい。取って食われてしまいそうだ」
けらけらと女は笑う。
肝が据わってるのか、怖いもの知らずなのか。あたしがここまで不快感を前面に押し出しても臆さないやつは、あいつを除いてはじめてだった。
夕陽が海に沈んだことで、女の髪の光沢がよりいっそう際立つ。
光源がなくてもなお輝いているように見える深青の髪を一房つかみ、女は推理でもするかのように言った。
「気になっているのだろう。南野ほどくのことが」
「っ! なにか知ってるのか!?」
柄にもなく食いかかってしまう。当然だ。紛失したおもちゃの在り処を知っているかのような素振りを女は取っているのだから。
……というか、こいつはなんであいつのことを知ってるんだ?
遅れながらに疑問を募らせるあたしに、女は笑んで続ける。
「彼女は今、現実から隔絶された世界にいる。とある願いと引き換えにね。これから彼女は毎週金曜日に世界から消失する。けど、翌日からはいつも通り君に構いにくるから安心したまえ」
なに見当違いなこと言ってるんだこいつは。
……それはさておき。
「あいつが毎週金曜日に世界から消失する? なに馬鹿げたこと言ってるんだよ」
「方位磁石」
被せるように続けられたその単語にあたしは目を剥いた。
「この言葉は君にとって特別なものであるはずだ。通り雨。深青の宝石と浅い僕ら。ほかにも君にとって特別な言葉をあたしはすべて知っている。北原伊都、私は君のすべてを知っている」
「……お前、人間か?」
「心を宿す者を人間と定義するのなら人間だろう。ただちょっぴり不思議な力を持っているだけさ」
にっこりと笑う。
信じるには無理のある話だ。だけどこの女は、あたしにとって特別な単語を三つも諳んじてみせ、名乗ってもいないのにあたしが北原伊都という名前であることを知っていた。
「……そうかよ」
こうも条件が揃っていては疑うほうが酷というものだ。
ギターを太腿から下ろし、ケースに横たえて訊ねる。
「じゃ、あんたはあたしの願いも叶えてくれるのか?」
「《《いったんは》》ペトリコール」
女は自身を指差してニコニコしている。
「なんだよ、いったんはペトリコールって」
「そういうことになっている」
初対面のやつからの〝そういうこと〟は異国語と遜色がないものだと思う。つまり、謎。
「あっそ。いいから質問に答えろ」
「ん、質問なんてされていないよ?」
女は、なにかを期待するように頬をほころばせたままだ。
あたしはため息をついて言い直した。
「ペトリコールは、あたしの願いも叶えてくれるのか?」
「~っ! あぁ叶えるとも!」
声が弾んでいる。某名探偵とは逆で、見た目は大人、頭脳は子どもみたいなやつだ。
「どんな願いでも叶えられるのか?」
「あぁ。けれども念頭に置いてほしいのは必ず代償が伴うということだ」
ふにゃふにゃ顔が一転、キリっとした顔つきになる。
……似ている、あいつに。
なんて思ったけど、だらけ顔と真剣な顔つきの切り替えが早いやつなんてこの世の中に腐るほどいるだろう。女の話に耳を傾ける。
「願いとは、代償を引き換えに成り立つ代物だ。願いが小さければ求められる代償は小さく、願いが大きければ求められる代償は大きくなる。その上でなにを願うか考えてくれたまえ」
「この世界をぶっ壊してほしい」
間髪容れずにあたしは言った。
ペトリコールは長い睫毛を瞬かせ、微笑をたたえた。
「いいのかい? 相当に大きな代償を求められることになるよ?」
「構わない」
あたしはこの世界が嫌いだ。大嫌いだ。この世界を壊せるというのなら、あたしはなんだって捨てよう。ギターだって、命だって、なんだって捨ててやる。
その大罪を切符に《《小さな幸福がひとつ手に入る》》のなら、あたしは地獄に落ちたって構わない。
「じゃあ二つ、代償を求めよう」
しなやなか指が二本立てられる。息が詰まる。
「一つ目は、一日三十分、南野ほどくと会話をすること。彼女がいなくなる金曜日は無論例外だ。二つ目は、双方が嫌い合うこと。建前ではなく心からね? ……あ、県外に出ることも禁じられてしまうから合計で三つか。失敬失敬。以上、三つの課題を攻略した暁には君の望みを叶えよう」
人差し指、中指に加えて薬指も立てたペトリコールは、厳しいかなぁとでも言いたげに眉を八の字にしている。
「たったそれだけでいいのか?」
拍子抜けだった。
この世界をぶっ壊したい。
それは誰が見ても壮大な願いだ。あたしひとりの命で足りるだろうかと不安に駆られていたのに、南野と三十分話せ? 嫌い合え? 県外に出るな?
というより、それは代償と呼べるのだろうか。
南野は金曜日に消失している。文句無しに代償といえるだろう。
しかし、あたしに課されているものは県外に出られなくなることを除いて、代償というより課題だ。本人もそう言っていた。
「あいつにも、代償のほかに課題が提示されているのか?」
「あぁ、あるよ。彼女に関して言えば、課題ではなく縛りだけどね」
「どんな縛りだ?」
「それは秘密だ」
女は秘密めいた笑みをたたえた。
「今の指摘からするに君も薄々感じているようだけど、三つの代償のうち明確な縛りとして機能しているのは県外に出られなくなることくらいだ。中でも重要なのが、双方が嫌い合うこと。この課題さえ攻略したのなら私は君の願いを叶えるし、逆にこの課題が攻略できないのなら、残り二つはOKでも私は君の願いを叶えられない」
「ならもうクリアしてる」
あたしはあいつが嫌いだ。あいつも執拗にあたしに構ってくるけど好いてはいないはずだ。
……あんなことがあってなおあたしを好いていたらどうかしている。
ペトリコールはゆるゆるとかぶりを振った。
「残念だけど双方ともに未達成だ」
「は?」
あいつがどうかしていることは想定の範疇だ。だから片方が未達成である可能性は視野に入れていた。
けど、双方ともに?
あたしはこんなにもあいつを嫌っているのに?
「主観と客観の相違というものは得てして生じるものだ。断じていじわるで言っているわけじゃないよ?」
「……あっそ」
「そう不貞腐れるな。私は君のすべてを見抜いている。イカサマはできないよ」
つまり、正真正銘、誰から見ても明確にあいつと険悪になれってことか。
……難しいかもな、それは。だってあたしたちは、あたしの胸中に反して、傍からみたら友好的な間柄にあると映っているだろうから。
「私が何故この条件を提示したのか。それは君にとってこの課題がもっとも達成困難なものであるからだ」
ペトリコールがぱちんと指を鳴らす。
「期日は今月末まで。ではまた来週この場所で逢おう」
強い風が吹いた。
思わず目をつぶる。
二秒後に拓けた視界に、現実と非現実の狭間にいる優麗な女の姿はなかった。
「……まぁ聞かずとわかってたけどさ」
一連の出来事を経て確信する。
ペトリコールは人ならざる存在であると。
今更だけど、あいつ以外の誰かとこんなにも話をしたのは随分とひさびさな気がする。
ペトリコール。お高く留まっていて、芝居がかっていて、鼻につく話し方だったけど、話していて不快な気分にはならなかった。むしろ心地良さすら感じていた。
……魔性の女だ。あたしに警戒心を解く魔法でもかけていたのだろうか。
不意にチャイムが響いた。
グラウンドを見下ろすと、陸上部がトンボで地面を均していた。
最終下校時間まで残り十分。
家より学校の屋上のほうが快適だけど帰宅することにしよう。
ギターを背中に乗っけて鞄を持ち上げると、五線ノートが転げ出た。チャックが開いたままだったようだ。
「……世界からいなくなっちまうなんて、お前はいったいどんな欲張りな願いをしたんだよ」
五線ノートを慎重に鞄にしまって、あたしは屋上をあとにする。
それから日付が変わるまで、あたしが誰かと言葉を交わすことはなかった。




