2024/1/9(火曜日)
一晩明けたら、腕はすっかり元の調子に戻っていた。だけど唇の傷は口内炎になってしまっていて、朝食を摂るのに苦戦した。お母さんに「行儀が悪いです」と注意された。無視した。
今日から新学期だ。昨日は月曜日だけど祝日だったから、曜日からスタート。変な感じだ。
制服を着たら、中学生の頃から愛用しているダッフルコートを羽織る。伊都は身長が伸びたから新調したけど、わたしはぜんぜん身長が伸びなかったから新調する必要がなかった。
カシミヤ素材のマフラーを首に巻き、もこもこの手袋をつけて外に出る。
右手に折れると、伊都が壁に寄りかかっていてわたしは腰を抜かしそうになった。
「おはよう」
ポケットに両手を突っ込み、顎まですっぽりマフラーに埋めた伊都はどこか不機嫌だ。
わたしも伊都も冬は嫌いだ。伊都は寒さに弱いから。わたしは冬が来るたびに、伊都がいなくなってしまうのではないかと恐怖に駆られた中一の冬を思い出すから。
「おはよ。ちゃんと起きれてえらいえらい」
「ま、最初くらいはちゃんとしないとな」
「ずっとちゃんとしよーよ」
「嫌だ。その生き方は疲れる。あたしに日本の水は合わないんだよ」
伊都の思考がますますロックになっている気がする。カッコいいけど、ふとした拍子にわるい道に逸れてしまわないかと時々不安になる。
今日も伊都は背中にギターを背負っている。クリスマスにわたしがギターをプレゼントしたけどそれは有名になってから使うとのことで、あの時はだいぶ先になりそうだなぁと思っていたけど、思いのほか近い未来だったのかもしれない。
……そう、だったのかも知れないんだ。
「行こう」
伊都に先導される形で足を進める。わざと半歩遅れで足を前に出してしまうのは、罪悪感というおもりが足首についているからだろう。
薄雲がたなびく青天だった。時折緩やかな潮風がやってきて、わたしたちの髪をからかっては去る。わたしが上機嫌だろうが落ち込んでいようが、太陽にとってはどうでもいいみたいだ。
「今週の土曜日、面談に行こうと思う」
出し抜けに伊都が言った。心臓が大きく跳ね上がった。
「あたしは頭が悪くて難しい話はよくわかんないから、そのへんはほどくにまかせるよ。あ、あと『君のいない〇曜日』の最初のメロディができて――」
「伊都」
遮ってぴしゃりと言う。
それに気分を害することなく、伊都は首を捻る。
「……あのね」
言わなきゃいけない。わたしはもう歌えないんだって。
打ち明ける覚悟はできている。けど、どうやって伝えるべきか悩んでいる。
親に辞めるように言われたから辞める。
ありのままの事実を伝えれば、伊都はわたしを責めないと思う。けど納得はしないだろう。ババアとジジイを説得してやる、なんて躍起になる姿がありありと想像できる。
だけど、伊都がどれだけがんばっても未来は変わらない。伊都が傷つくだけだ。その未来は避けたかった。
選択はもうひとつある。
それは、わたしが勉強に集中したいから音楽を辞めたいと嘘をつく選択だ。
この選択をしたら、さいあく伊都との友情が瓦解しかねない。けど、伊都がわたしの両親に傷つけられる可能性はほとんどゼロになる。
近くにある木の上で、キョロッキョロッと、ツグミがさえずる音が沈黙を埋めている。
鳴き声が止み、静謐が訪れた。
わたしは言った。
「わたし、勉強に集中したいから音楽辞めたい。ごめん、ずっと言い出せなくて」
深々と頭を下げる。これだけはっきり言えば、嘘だとは見抜かれないはずだ。
言葉を訂正することなく、頭を下げたまま、伊都の返事が沈黙を断つ瞬間を待つ。
「ババアとジジイに辞めるよう言われたのか」
いつもと変わらない平坦な調子で伊都は言った。わたしは思わず顔を上げてしまった。
「昨夜、風呂に入る前にババアがあたしんちに来たんだ。で、ほどくとYouTubeに曲を出してることがどうしてか割れてて、今すぐほどくを解放しろって言われた。束縛してんのはそっちのほうだろうが、娘にろくに弁当も用意できないあんたは母親失格だってキレたらババアは引き下がって、あの子にもう音楽はさせませんからって捨て台詞を残して逃げていきやがった。はっ、旗色が悪くなった途端に尻尾巻いて逃げるなんて心底汚い大人だなって失望したよ」
声を荒らげながらまくしたてるように語ると、伊都はふぅと息をついて柔和に微笑んだ。
「あたしを選べ、ほどく」
手を伸ばしてくる。
「契約したらさ、高校を辞めて、どこか遠くに行って、それなりに幸せな生活を送ろうよ。誰にも邪魔されない、あたしとほどく、ふたりだけの世界でさ」
そこはきっと居心地のいい世界なのだろう。わたしたちは自由で、心無い態度や選択を強制する暴力に怯えることはなくて。
けど、やっぱりそれは幻想だって知っている。
「わたしは、わたしの意思で音楽を辞めることを選んだんだよ」
「いいんだほどく。あたしの前で強がる必要はないんだ」
嘘で塗り固められたわたしの言葉は、伊都の耳には届かないようだった。
「ほどくが一言、助けてって言ったら、あたしはすべてを賭けてほどくを救ってやる。あたしを信じて、ほどく。あたしは、もう大好きなほどくが傷つくさまを見たくないんだよ」
伊都の瞳は潤んでいた。
ほどく。
わたしをそう呼んでくれるのは伊都くらいだなぁとふと思う。
いつだって、誰よりもそばにいたのは伊都だった。伊都だけが、わたしを愛してくれていた。
泣きそうになる。嘘ついてごめんね、わたしも伊都が大好きだよって、抱きつきたくなる。
だからだろう。
わたしは弱さに屈せず、強い自分を演じることができた。
「わたしはへーきだから。わたしのことは気にしないで、伊都は夢を叶えてよ」
にっこりと応援するように笑う。
――今にして思えば、この時がわたしたちの転換点だったのだろう。
伊都は愕然とし、中空に伸ばした手をポケットにしまって自嘲するようにつぶやいた。
「……そうかよ。あたしはそんなに頼り甲斐がないのかよ」
「そんなことないよ。伊都はいつでも頼りになって――」
「黙れよ」
鋭い言葉がかぶせられた。
伊都は、教室でわたし以外に向ける肉食動物のような瞳をわたしに向けていた。
伊都が心を許していない相手に向けるまなざしだった。
「絶交だ。もう二度と話しかけるな」
淡白に言うと、伊都は身を翻して足早に歩を進めた。
……今なんて? ゼッコー?
少し遅れて漢字に変換される。
絶交。文字通り、交わりを絶つこと。
――両者のあいだで結ばれた糸が、ほどけてしまうこと。
「待ってよ伊都!」
伊都はすぐに振り返った。ぽろぽろ泣いていた。
「話しかけるなって言っただろ。……もうあたしに構うな――《《南野》》」
ずんと、胸に五寸釘を打たれた気がした。
伊都が走り去る。わたしは糸が切れた人形のように膝から崩れ落ち、その後ろ姿を追いかけることができなかった。今のわたしにその資格はないと思った。
「……これでいいんだよね」
いいはずだ。こうすれば、伊都が無駄な傷に苦しむことはない。絶交だって伊都は言ったけど、たぶんいっときの感情にまかせてそう言っただけで、きっとすぐに仲直りできる。
伊都とは何度か喧嘩したことがある。けど、絶交とまで言われたのはこれがはじめてだった。
もしほんとうに絶交してしまったら……なんて妄想をしてしまう。
いつも隣にいた伊都は居なくて、わたしに愛情を注いでくれる誰かはいなくて。
愛の枯渇したわたしはどうやって生きていくんだろう。
誰にも愛されずに生きるわたしは、そもそも人間と呼べる存在なのだろうか。
「伊都がいなきゃ生きていけないよ……」
どうして現実はこうも理不尽なのだろう。
わたしは、青空で燦々と輝く太陽を睨みつけた。




