2024/1/8(月曜日)
張り詰めるような寒さが街を凍えさせる、冬期休暇最終日のことだった。
伊都の部屋で身体を寄せ合って、わたしたちはまじまじとPCの画面を眺めていた。表示されているのは、YouTubeに届いていた一件のダイレクトメッセージだ。
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―方位磁石様―
突然のメール失礼致します。
株式会社ダイビングでプロデューサーを務めております、廣渡と申します。
先日、方位磁石様の「深青の宝石と浅い僕ら」を拝聴したのですが、繊細で玲瓏な聴き手を魅了する歌声、そしてその持ち味を最大限引き出すメロディラインに心を奪われまして、スカウトせずには居られませんでした。
つきましては一度お話をしたいのですが、ご都合の良い日はありますでしょうか。
対談でも、オンラインでも、弊社としては問題ございません。
方位磁石様からのお返事をお待ちしております。
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生まれてはじめて目にするけど、たぶんスカウトメールだ。そう理解しつつも画面に釘付けになって口を開けずにいるのは、唐突で現実味を伴わない出来事だからだ。
ホットココアで満たされたお揃いのマグカップから立ち昇る白い湯気が、視界をぼやけさせる。先に口を開いたのは伊都だった。
「これって、あたしたちプロになれるってことだよね?」
「うん、たぶん」
曖昧な返事になってしまう。経験したことがないから、絶対にそうだとは言えなかった。
伊都がちらっとわたしに視線を流してくる。
それに気づいて、わたしも伊都に視線を重ねる。
伊都はふっと唇に弧を描き、わたしをそっと抱き締めてきた。
「ようやくふたりだけの世界に行けるね」
それはいつか病室で聞いた言葉だった。
ふたりだけの世界に行こう。
その誘いに、わたしは叶わないだろうなと思いつつも頷いた。
けど、伊都は違った。
妄言にしか思えないあの言葉を、伊都は本気で叶えるつもりでいたのだ。
「好きで歌を作ってたんじゃないの?」
音楽をはじめてから二年ちょっと。わたしは伊都のギターの音を聴かなかった日がなかった。中学三年生の修学旅行のときもギターを背負っていたし、コロナウイルスに感染した日も隣の家からわたしのよく知るメロディが運ばれてきた。
それだけ音楽が好きなんだと思っていた。
けど、もしかしたら……
「あたりまえのこと聞くなよ。好きでもないことにここまで没頭できないって」
「ほんとに?」
「ほんとにほんとだ。だからこれ以上はなにも聞くな」
伊都が頭を撫でてくる。ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に優しい手つきで、わたしは予感が当たらずとも遠からずであるのだと確信する。
きっと、伊都はわたしのために、すべてを投げ出して音楽に時間を注いでくれたんだ。
それはちょっと言いすぎかもしれないし、ほんとうに音楽を好いているのかもしれないけど。
わたしを救う。
それが伊都の中で最優先事項であったことは疑いようがないだろう。
「ほどく、歌うの好きだろ」
「うん。……伊都もギター弾くの楽しい?」
「うん、楽しいよ。あたしを音楽の世界に導いてくれたほどくにはいつも感謝してる」
「……そっか」
嘘をついてる感じはしなかった。
わたしのせいで伊都がやりたくないことを好いているふりをしていないことにほっとする。伊都には、ほんとうは嫌いなのにわたしに合わせて好んでいるふりをする悪い癖があるから。
「行こうね、わたしたち、ふたりだけの世界に」
ぎゅ~っと伊都の胸に抱きつく。
伊都は「うん、行こう」と優しく応えて、わたしの背中を撫でた。
※
その夜、わたしは夕食中に入浴を終えたら和室に来るようお父さんに言われた。
今日はとみに冷え込んでいる。ゆっくり湯船に浸かってあたたまりたいけど、烏の行水で済ませて和室に向かった。
襖をこんこんと叩くと、中から「入りなさい」と厳めしい声が聞こえた。
「失礼します」
断ってから襖を開いて足を踏み入れる。
畳の濃いにおいが鼻をつく。床の間に虎の描かれた水墨画の掛け軸が掛かり、床脇にはムッとした顔をする達磨と木で彫られた仏像が並んでいる。
部屋の中央にはちゃぶ台が置かれていて、その奥にあぐらをかいて座る甚平を着たお父さんが、達磨に負けず劣らずの仏頂面でわたしを見つめていた。
足がすくむ。
ここはわたしの折檻部屋だからだ。
お父さんの隣には警策が置かれており、それを見ただけで背中がずきずきと痛む。お母さんは舌峰こそ鋭いもののまず暴力に訴えないのに対し、お父さんは言葉よりも先に暴力に訴える。
ばちんと、お父さんが唐突に警策を畳に叩きつける。
わたしはネズミみたいに飛び上がった。
「早く座りなさい」
「……はい」
相当に不機嫌だ。おっかなびっくりしていると苛立ちに拍車をかけてしまうので、わたしは動じていないふりをして座布団の上に正座する。
「これはなんだ」
お父さんがスマホを突き出してくる。
画面には方位磁石の動画が表示されていた。
どうして気づかれたんだろう、と戸惑いと焦りで頭がいっぱいになる。
無感情な面持ちのままお父さんは続けた。
「教えてくれた北原さんに感謝だな。おかげで娘を下賤な世界から連れ戻すことができた」
なにも知らないくせに音楽の世界を下賤だなんて言うな、と妄想の世界で睨みつけながら反駁する。実際は拳を固く握り締めることくらいしかできなかった。
「秘密にしていてすいませんでした」
畳に額を押しつける。直後、ばんっと、すぐ隣で破裂音に似た音がしてわたしは勢いよく顔をあげる。警策が叩きつけられて舞った藁が目に入ってちくちくした。
「今すぐ音楽を辞めなさい」
なにを言われたのか、瞬時には理解できなかった。視界は霞んでいた。
「再生回数というのは、この動画を見た人の数なんだろう。曲を聴いた。自分の娘がこんな曲を歌って支持されているのだと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうになった。北原さんの娘がどれだけ恥を重ねようと知ったことではないが、お前は大切な後継ぎだ。まさかこっそりデビューして、後継ぎする未来から逃れようとしていたんじゃないだろうな?」
お父さんは零細企業の社長で、将来的にわたしを後継者にしようとしている。こういうのを親族内継承というのだそうだ。
家の規則が厳しいのも、週に四日塾に通っているのも、クラス委員を率先してやっているのも、ぜんぶぜんぶ、お父さんの会社のため。夢を語れる同級生が羨ましくて恨めしかった。
うつむいて、拳をきつく握る。
わたしと伊都がなにをしたというのだろうか。
世界には愛と優しさが満ちているっていうけど、そんなの嘘っぱちだ。
世界はいつも冷たくて、真っ暗で。不意にかすかな希望が差し込んだかと思えば、すぐに絶望という壁で閉ざしてしまう。
……だけど、そんな世界でも。
たったひとつだけ、消えることなく明かりを灯しつづける小さな希望がある。
「……いやです。音楽を辞めたくないです」
お父さんは目を見開いた。
思えばお父さんに反論するのはこれがはじめてだ。
いつだって、はいよろこんで、となんでも聞き入れてきた。抗ったところでどうせ未来は変わらないという諦観と逆らったら痛めつけられるという恐怖が、わたしから反抗して異見する勇気を根こそぎ奪い取っていた。
けど、今は状況がちがう。
わたしがいつもどおり流されたら、これまでの伊都の努力まで水の泡になってしまう。自分が傷つくのは許容できるけど、伊都が傷つくのは認められなかった。
やがてお父さんの顔から戸惑いの色が剥がれ落ち、憤怒の色に塗り替わった。ちゃぶ台をどかし、警策でわたしの二の腕を叩きつけてくる。
「~っ!」
痛い! 痛い痛いっ!
奥歯を噛み締め、わたしは妄想の世界でのたうち回る。
お父さんはいつも、肩や背中、二の腕といった、服で隠れて見えなくなる場所めがけて警策を振るってくる。だから、わたしの身体に定期的に紫の痣ができることを知っているのは伊都だけだ。
伊都だけが心配して労わってくれる。
優しさで傷を癒してくれる。
それさえあれば、わたしは何度でも立ち上がれる。
「辞めなさい」
「いやです」
ばちん。打擲された。
「辞めなさい」
「……いやだ」
ばちんっ。また警策で叩かれた。
やがて脳が麻痺して痛みを感じなくなる。こうなってしまえば楽だ。注射の刺しはじめは痛いけど、刺さってからは痛くないのとおんなじ。
腕が動かなくなればいいのに、と暴行を受けながら思う。
そうなれば両親はわたしを後継ぎにすることを諦めて、失望という名の自由をくれる。もしわたしの片腕が駄目になっても、もう一本腕があれば、歌詞が書けて歌えて笑えるだろうから、なにも問題はないだろう。そんな不完全なわたしでも、伊都はぜったいに愛してくれる。
「……辞めなさい」
叩きつかれたのか、お父さんは肩で息をしていた。
「いやです」
冷徹な瞳をまっすぐ見つめ返して言う。
これ以上は無駄だと悟ったのか、お父さんがわたしに警策を叩きつけてくることはなかった。
二の句を継がないお父さんを見て、わたしは一縷の希望を見出す。今勇気を振り絞れば、強引に握らされた未来行きの切符を捨てることができるのではないだろうか。
右腕の感覚はなくて、口のなかは鉄の味で満たされている。
けど、脳は機能しているし、舌は動く。
息を吸った。――そのときだった。
襖が開いた。
お母さんだった。
「あなたが音楽を辞めないのなら、金輪際北原さんと会うことを禁じます」
心のどこかで、お母さんは味方をしてくれると思っていた。
今でこそわたしを駒みたいに扱っているけど、幼い頃は優しくて。そんなお母さんのことがわたしは大好きで。
虐げられる音が聞こえていたはずだ。服が乱れて、唇はきっと鮮血に彩られていて、そんな姿をみれば、わたしの痛みと苦しみが多少なりとも理解できるはずだ。
その上で、お母さんは冷ややかな顔つきをしている。まるで出来の悪い娘に呆れるように。
六歳の頃に海で溺れる幼い子どもを助けて亡くなったお父さんが生きていれば、お母さんは優しいお母さんのままでいたのではないだろうか。七歳の頃にお母さんがこの人と再婚しなければ、幸せな日常が訪れていたのではないだろうか。
不幸の扉が開いたきっかけとして思い当たる出来事はいくつかある。けど、気づいたところで、今が大きく変わるわけじゃない。時間は後ろには進まず、前にしか進めない。幸福も、不幸も、分別することなく平等に未来に運んでいく。
「音楽を辞めなさい」
お父さんの冷たい声。
このまま反抗しつづければ、未来が変わるのかもしれない。
けど、もうだめだった。こころが痛くて痛くて、うまく酸素を吸えないわたしは、短く一言発するので精いっぱいだった。
「はい」
その返事を聞けて満足したのか、お父さんとお母さんが和室から出て行く。
わたしは部屋にぽつねんとひとり残される。顔をあげれば、不機嫌そうな達磨と険しい面持ちをした仏像の彫刻が、わたしを窘めるように睨み据えている。
「冷たいね、わたしたちの世界は」
呟くと、思い出したかのように瞳が熱を帯びはじめた。
しゃくりあげながらわたしは言った。
「……ごめんね伊都」
音楽アーティストになる。
中学二年生の頃にわたしと伊都がひっそり志し、叶う寸前までやってきたその夢は、わたしに降りかかった理不尽によって閉ざされてしまった。
せめて伊都だけでも、音楽アーティストになってくれたらいいなと思う。
伊都のつくった曲を、わたしじゃない誰かが歌う場面を想像する。
悔しくて涙があふれた。




