2021/4/3(土曜日)
中学一年生の春休み。またの名を中学二年生の〇学期。
伊都の部屋は日当たりがいい。暖房がなくても春の麗らかな陽射しだけで部屋は充分あたたまる。とはいえ暑いというほどではなくて、あたたかいといった程度だ。
「もしかして体調悪い?」
わたしの膝を枕にする伊都の額にはだらっと汗が滲んでいた。
「いや全然」
「じゃあ暑い?」
「むしろちょっと寒いくらい」
「ならどうしてそんなに汗かいているの?」
「……こわいんだよ」
「こわい?」
ムスッと顔をしかめると、伊都は視線を外してボソッとつぶやいた。
「誰かに耳かきされるのははじめてで緊張してるんだよ」
驚いた。不審者と対峙してもツンとした態度を貫きそうなあの伊都が、たかだかわたしが手に持つ耳かきごときに怯えている。
どうしてこんな状況になっているのか。それは耳かきしようとする伊都に、わたしがやってあげると提案したからにほかならない。
伊都ははじめ「いいよ」と言っていたけど、わたしがやりたいと強情を貫けば、いつもどおり「仕方ないなぁ」と折れてくれた。伊都はいつもわたしに甘いのだ。
誰かに耳かきされるのははじめて。伊都の返事が頭の中で反芻されて、やっぱりお母さんに耳かきしてもらったことはないんだなと悲しい気持ちになる。
今でこそ、期待に応えなければ正座を強いて説教ばかりしてくるお母さんだけど、幼い頃は耳かきしてくれたりいっしょにお風呂に入ったりして、わたしはそんな親子の時間が好きだった。
小さい頃はお母さんが好きだった。おかしくなったのは、離婚して再婚してからだ。だから、もしかしたらお母さんはお父さんになにか唆されておかしくなっているだけで、実はまだあの頃の優しいお母さんがどこかに隠れているんじゃないかって、そう心のどこかで期待している。
耳かきを持っていないほうの手で伊都の耳にそっと触る。伊都はきゅっと目をつぶり、背中を丸めてぷるぷると震えていた。
「だいじょうぶ。痛くないよ」
「……本当に?」
「ほんとにほんと」
ふっと笑みをこぼし、伊都が目に見えてリラックスした状態になる。
好機と見た。
油断している獲物を狙う鷹のように、わたしは素早く、けれども辿りつく寸前で勢いを殺して、形のいい耳の凹凸をなぞる。「んっ」と押し殺した声を出す伊都から、嫌がっている気配は少しだけするけど、痛がっている感じはしなかった。
「痛くない?」
念のため確認すると、伊都は「……大丈夫」と震える声で応えた。
誰しも最初はなんだってこわいものだ。慣れればだんだん気持ち良くなってくるとわたしは経験を通して学んでいるので、「んっ、んんっ!」と、勘違いされそうな色っぽい声を発する伊都を耳かきで優しく責め続ける。
一分もすれば、伊都は喘ぐような声を出すこともなく、陶然とした顔をしていた。
「もう少ししたら反対のお耳もお掃除しよっか」
「うん。ほどくの太腿、すべすべで気持ちいい」
普段なら「いい」と仏頂面で言う場面だろうけど、今は気分がいいからか素直になっている。
わたしは基本、嶋中のジャージにホットパンツという身なりで伊都の家に遊びに来ている。
ジャージがだぼだぼだからパンツはすっかり隠れていて、下はすっぽんぽんと誤認されても文句の言えない出で立ちだ。
当然恥ずかしいけど、この格好をしていると伊都はそれだけで頬をやわらげてくれるので、伊都の家でだらっと過ごす日は迷わずこの装いを選んでいる。
伊都が楽しそうにしてくれる。
わたしの羞恥心と引き換えに伊都の笑顔が手に入るのなら安いものだった。
それから十分ほど耳掃除を続けた。
『音楽をはじめようと思ったきっかけはなんですか?』
不意にテレビからそんな声が運ばれてきた。
このテレビは先週からの新顔だ。先週この家を出て大学の寮で暮らすことが決まった歩夢さんが伊都に譲ったものらしい。
譲ったというか押しつけたんじゃないかと思うけど、伊都は見たい番組があるわけでもないのに電源を入れるくらいにテレビが部屋にある日常を好いているから、まぁいいかと留飲を下げた。伊都が楽しそうならなんでもいい。
画面では、人気絶頂にある音楽アーティストがお天気お姉さんと一問一答している。
『そうですね。……僕ってこの世の中があまり好きじゃないんですよ』
瞳は前髪で隠され、カッターシャツにジーパンと、街中ですれ違っても気づけないであろう平凡な身なりをした音楽グループのリーダーは、マイクがかろうじて拾える密やかな声で語る。
『昔から生きづらくて。常識の奴隷でいるのが、窮屈で苦しくて。そんなときに鬱憤を吐き出すような音楽と出逢って。そのときにこのモヤモヤした感情を音楽なら肯定してくれると思ったんです。……中学二年生の頃だったかな。それが音楽をはじめたきっかけでした』
気づけば、手を止めて話に聞き入っていた。
『音楽は自由です。綺麗な感情も、醜い感情も、平等に表現することを許してくれます。たとえば僕がこんな社会クソくらえだって言ったら、品性を疑ってしまうでしょう? けど、曲にその感情を落とし込めば許容されてしまうんです。そうすれば、僕の胸はすいて、僕と同じ感情を抱えた人は、あぁこの感情を抱えているのは自分だけじゃないんだなって安心できる。素晴らしくないですか。音楽って』
うん、素晴らしいと思う。
「……わたしたちもなろうよ」
「なろうってなにに?」
「音楽アーティスト」
伊都はぽかんと口を開けていた。
「……本気で言ってる?」
「うん」
わたしは鬱憤を溜め込んでいる。それはきっと伊都も同じで、今はまだ我慢できているけど、いずれ爆発する日がやってくるのは目に見えていた。
伊都と過ごすことで嫌な気持ちは紛れる。
けど、紛れているだけだ。なくなっているわけじゃない。
わだかまりを吐き出す場所が必要だと前々から思っていた。とはいえ、そんな都合の良い場所はなかなか見つからなくて。
そんな中で、わたしは偶然音楽というツールの可能性を耳にした。運命だと思った。
わたしは、小学生の頃にあった合唱会で歌うのがすごく上手と音楽の先生に褒められたことがある。伊都は、小学生の頃に鍵盤ハーモニカを弾くのがクラスでいちばん上手だった。
ささやかなものではあるけど、どちらも音楽の分野における才能の欠片を持っていた。
「やろう、伊都」
もう一度、わたしは伊都に誘いかける。
むくりと身体を起こし、わたしを振り返って伊都は言った。
「わかった」
その日、人知れず一組のバンドが結成された。




