2021/2/4(木曜日)2/2
病院の受付で「北原伊都さんの病室はどこですか」と慌て気味に聞くと、「ご家族の方ですか」と穏やかに聞き返された。
ここで「いいえ親友です」と答えたら部外者と識別されて追い返されてしまいそうなので、「はい、妹です」と盛大に嘘をついた。背丈が低いこととコートで制服が隠れていることが功を奏し、その言葉が疑われることはなかった。
看護師さんから、伊都が303号室にいると聞いてほっとする。部屋にいてかつ面会可能ということは、命にかかわる大きな怪我をしてはいないと見ていいだろう。
病院内は走ってはいけないと理解しつつも、急ぎ足で伊都の部屋に向かう。なかなか降りてこないエレベーターがじれったくて、非常階段を駆けのぼる。ここなら走っても誰にも咎められない。
三階に到着する。
303号室の札はすぐに見つかった。
深く息を吸い込んで、こんこんと扉をノックする。すぐに「はい」と聞き慣れた声が返ってきて、わたしは安堵の息をつく。取っ手は簡単にスライドすることができた。
「ほどく……」
目を丸くする伊都を見て、わたしは泣き出しそうになった。
ベッドから身体を起こした伊都は病衣を着ていて、頭には包帯、腕には点滴と、万全とは言い難い状況にあるけど。
それでも、生きている。
話ができている。
気づけば、伊都の元に駆け出して抱きついていた。
「ちょ、ほどく……」
「伊都ぉ~、よかったぁ~、よかったよぉ~」
「……ありがとう。心配してくれて」
わたしの背中を慰めるように撫でてくれる。安心できて、心地良くて、ずっとこうしていたいなって思う。
病室にはやっぱり伊都しかいなかった。
その事実が、わたしの胸をますます締めつける。
「ほどくは昔から泣き虫だな」
「だって、すごい不安だったんだもん。伊都がいなくなったらどうしようって……。伊都がいなくちゃ、わたしは生きていけないよぉ」
「重いって」
くすっと伊都は笑う。
それと同時、わたしはへくしょんって大きなくしゃみをしてしまった。
「入るか?」
伊都はベッドの隅に移動してわたしを招くように布団を持ち上げる。伊都と隣合って眠るなんていつ以来だろう。少しワクワクしながら隣にお邪魔しようとし、ハッとして動きを止める。
「寒いし早く入ってきてよ」
「だめだよ。伊都は病人なんだし」
「病人が見舞いにきたやつと寝ちゃいけないなんてルールはないだろ。……それにさ、どこも痛みは引いてきたけど、胸がずっと痛いままなんだ。だからほどく、今日は側にいて痛みを和らげてくれないか?」
驚いて固まってしまった。
あの伊都が、わたしに弱さをさらしている。わたしは泣き虫で、そんなわたしをしょうがないなぁって慰めてくれてた伊都が、わたしに慰めてほしいと求めている。
わたしがいつも「大丈夫?」って聞くと、伊都は「平気だよ」って答える。それは全然繕った感じのしない〝平気〟で、なら大丈夫かなってわたしは思ってたけど、そんなはずないんだ。
伊都がずっと苦しみつつも我慢していたことに気づけなかったんだと思うと、わたしってなんて自分本位なんだろうと嫌になる。
自分は甘えて、だけど伊都の拠り所にはなれなくて……。
「ごめんね……」
申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら謝ると、腕を引っ張られた。わたしは小柄で伊都は長身だから、引力に抗うことができずに、あたしは伊都の隣に吸い寄せられる。
「どうして泣いてるんだよ」
わたしの涙を、伊都がしなやかな指でそっと拭う。
小さくて整った顔立ちは少し不愛想だけど、そこがクールビューティって感じがしてカッコよくて。腰付近まで伸びた髪は、手入れしていないだなんて嘘じゃないかと思えるほどに艶やかで。食生活に気を配っていないのにスタイルは抜群で。カッコよくて、可愛くて、優しくて……。
「悔しいよぉ」
「なにが悔しいんだ」
「こんなに素敵な子なのにさぁ、伊都の両親は伊都をいないものみたいに扱うんだもん」
伊都にはお姉ちゃんがいる。砲丸投げの選手として将来活躍することを嘱望されている五つ年の離れた姉だ。歩夢さんという。
わたしは彼女が嫌いだ。
なぜなら伊都を見下しているから。
伊都の両親は、歩夢さんのバックアップに注力し、その結果、伊都とのかかわりが希薄になった。親が過剰なほどに干渉してくるわたしとは正反対だ。
授業参観に伊都の親がやってきた姿も、運動会で伊都を応援する姿も、卒業式で娘の成長に涙する姿さえも、わたしは見たことがなかった。
伊都がわたしを遊びに誘うとき、北原家にいるのはいつも伊都だけだった。
歩夢さんは三日前から海外に遠征している。それに両親も付き添っているから、今、伊都は病室でひとりぼっちなのだろう。
両親から期待されず相手にされない家庭環境が影響してか、伊都は常に無気力で、なにかに前のめりになった姿をこれまでに見たことがなかった。
伊都がなにか情熱を注げるものを見つけられたら……と前々から思っているけど、今のところ見つかりそうになかった。
「ほどくが側にいてくれれば、あたしはそれだけ充分だよ」
わたしを抱き寄せて、伊都は照明の電源を落とす。
暖房の駆動音しか聞こえない真っ暗で静かな部屋。
やがて夜目が効いて、伊都の顔が見えてくる。伊都も同じように目が慣れたのか、わたしと視線を合わせてくすっと笑った。
「この広い世界に、わたしたちふたりだけしかいなくなっちゃったみたいだね」
もしそうなったら、すごく幸せだと思う。
絶景も、絶品も、ぜんぶぜんぶ、わたしたちのもので。
わたしたちの邪魔をするものはなにもなくて。
想像するだけ楽しくなってくる。
けど、現実は無慈悲だ。
伊都とふたりぼっちの世界に浸るこの時間も、夜が明けて朝がやって来れば、自ずと終わりを迎える。
今日だけは、ずっと真夜中が続いて欲しかった。
「じゃあふたりだけの世界に行こう」
藪から棒に伊都が言った。
布団のなかで、伊都の指先がちょんちょんわたしの手の甲に触れてくる。最初は狭いからかなと思っていたけど、どうやらわざとそうしているみたいだ。
わたしは不安げに手の甲をちょんちょんしてくる伊都の手をえいやと掴む。逃げてしまわないように、五本の指をしっかり絡めた。
「うん。行こう」
それはきっと叶わない願いだけど、今ならそんな無茶な願いも叶う気がした。
やがて睡魔が襲ってきた。
うとうとしていると、そっと頭を撫でられた気がした。
「おやすみ、ほどく」
気のせいじゃなかったみたいだ。わたしのなかでもたげる睡眠欲求を鼓舞するように、伊都は心地いいリズムを刻んでわたしの頭を撫でてくる。
「今さらだけど、明日学校はどうするの?」
「やすみゅ」
朦朧とする意識の中、舌ったらずな腑抜けた声でなんとか応える。
「休むって……ジジイとババアはなんて言ってたんだよ?」
「関係にゃいよ。りゃって、わたしのいちばんは……ずっとずっと伊都だから」
数秒後に完全に眠りについてしまう自覚があった。
わたしは最後の力を振り絞り、伊都の身体にぎゅ~って抱きついた。
「いたいのいたいのとんでけ~」
「とっくに飛んでいってる」
伊都が抱き締め返してくる。
「ありがとう。この先も、ほどくの痛みはあたしが背負ってやる。だから大丈夫だよ」
カッコいいけどそれは違うんじゃないかなぁ、と思っているうちに眠りに落ちた。




