2021/2/4(木曜日)1/2
「ねーねー伊都」
「ん」
「呼んだだけ~」
「なんだよそれ」
中学一年生の冬。なんでもない日常の一幕だった。
道路の脇に積もる解けかけの雪が夕陽を照り返している。
お揃いのダッフルコートを着たわたしたちは、長靴でしゃびしゃびと音を立てながらゆったり帰路を辿っていた。
「ねぇほどく」
「なあに?」
「なんでもない。大好きな名前を呼びたくなっただけ」
「えへへ~、そっかそっかぁ」
わたしは、ほどく、という名前が嫌いだった。みんな名前を漢字で書けるようになって少しだけおとなに近づいているのに、わたしだけいつまで経ってもこどものままで、クラスの子にはまだ名前を漢字で書けないのって馬鹿にされた。
けど、伊都だけは違った。
普段は教室の隅でじっとしているのに、わたしの名前を馬鹿にした子たちと喧嘩してまで、わたしの名前はきれいだって主張してくれた。
『優しくて綺麗な名前じゃないか!』
伊都がそう言ってくれたことがうれしくて、わたしはちょっと泣いてしまった。
「ねー伊都」
「何回同じことするんだよ」
「ちがうちがう。今度はちゃんと頼みたいことがあって呼んだんだよ」
「なにしてほしいの?」
雪が静かに舞い落ちてくるみたいな声だ。クラスの子たちは伊都のぶっきらぼうな話し方がこわいって言うけど、わたしは伊都がすっごく優しい子だって知ってる。
「手、つなごっ」
「やだ。寒いし、恥ずかしいし、手袋外すのだるい」
「えー、伊都の手のほうがあったかいし、ぜんぜん恥ずかしくないし、手袋外すのはぜんぜんめんどくさくないよ」
駄々をこねるように論破し、手袋を取って手を伸ばせば、伊都はため息をつきつつも手袋を取って、わたしの手をぎゅ~って握り締めてくれる。
「これで満足か」
「伊都の手、手袋よりあったかい」
「大袈裟だろ」
大袈裟なんかじゃない。伊都の優しさが染み込んでいるのか、伊都の手のひらは手袋よりもずっとあたたかい。
お互いに手をにぎにぎし合いながら歩いているときのことだった。
ブーとけたたましいクラクションの音が聞こえた。
ハイビームがわたしの目を焦がした。
「ほどくっ!」
肩に強い衝撃があって、わたしは車道とは逆の方向によろける。
次の瞬間、キキーっと鋭い音が鳴り響いて、どんっと、音がした。
伊都と車体が衝突した音だった。
「……伊都?」
うつ伏せになった伊都はぴくりとも動かない。
しゃびしゃびの氷に、鮮やかな赤が溶け込んでいく。伊都の額から絶えず血が流れている。
車体から出てきたおじさんがパニックになっている。
人がどんどん集まってくる。喧騒がどんどん膨れ上がる。
……伊都が轢かれた?
理解が追いつかない。これは悪い夢ではないだろうか。
「少しお話を聞かせてもらってもいいかな」
声を掛けられて正気を取り戻す。警察の人が目の前にいた。
それから警察署に連れていかれて、名前を聞かれて、事故発生状況を聞かれた。
質問に答えるうちに、これは現実なんだと実感が湧いてきた。遅れて涙があふれ出した。
「伊都、伊都ぉ……」
伊都がいなくなっちゃったら、わたしはどうなっちゃうんだろう。
考えずともわかる。生きていけない。
わたしは伊都がいるから生きていられる。誇張なんかじゃない。
わたしの心臓を動かしているのは、北原伊都という大好きな幼なじみだった。
※
事情聴取を終えると、すっかり日は沈んでいた。
自動ドアをくぐると、「ほどくっ」と誰かがわたしの名前を呼んだ。お母さんだった。
お母さんは、駆け寄る勢いそのままにわたしを抱き締めてくる。苦しくなるくらいに力強い抱擁で、ちっとも心地良くなくて、だけど警察の人はほっこりした顔をしている。
「よかった無事で」
「うん」
娘が無事でよかった、と解釈するのは誤りだ。自分の駒が無事でよかった、というのが正しい解釈となる。
この人は、わたしをひとりの人間として認識していないから。
娘さんは気が動顛しているので可能な限り寄り添ってください、という警察の人の言葉にお母さんが力強く頷いたのを最後にお開きとなる。
お母さんが運転席に乗り、わたしはその対角線上の後部座席に乗る。
ウインカーがかかると同時、わたしは口を開いた。
「病院に連れて行ってくれませんか」
「どうしてですか」
冷え切った声。
数分前までとはまるで別人だ。けど、これがお母さんの本来の姿だ。
警察で事情聴取されているときにふと思った。ここでわたしが背中にある痣を見せたら、この牢獄から抜け出せるのではないか、と。
両親はわたしを虐待しています。言葉のみならず、わたしには暴行を加えられているという物的証拠まである。両親に罪を下すのは容易だろう。
けど、今から抜け出すことは、同時に伊都から距離を置くことを意味する。
両親がいなくなったら、きっといままでどおり生活することはできなくなる。両親に不自由を強いられる日々は苦しいけど、それ以上に伊都と過ごす毎日は楽しい。
まだ伊都がいなくなると決まったわけじゃないのに結論を出すの気が早いと思い、わたしは両親から虐待を受けていることを隠すことにした。
「伊都のそばに居たいんです」
「側に居たから何になるというのですか」
何になるとか、そういう実利的な話じゃないよ。
太腿の上に置いたこぶしをぐっと握り締め、感情を落ち着かせてからつづける。
「目を覚ましたとき、近くに誰もいないのは寂しいと思うんです」
「いるでしょう。父親か母親が」
「いいえ。いません」
きっぱりと言い切る。
お母さんがバックミラー越しにわたしを睨むように見つめる。
「明日、学校はどうするんですか」
「休みます」
「学業に支障を来たしたらどうなるか、わかっていますよね」
「はい、承知の上です」
学校の評価とか、両親からの叱責とか、世間体とか、そんなのはどうだっていい。わたしのいちばんはいつだって伊都だ。
いつもは屈してしまうお母さんの服従の視線に、わたしは反抗しつづける。
折れたのは、お母さんのほうだった。
「わかりました。風邪だけは引かないよう気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
途中、お母さんがコンビニに寄って、貼らないカイロとあったかいレモネードとサンドイッチを買ってくれた。「ありがとうございます」とお礼を口にしたけど無視された。
病院に着くまで、お母さんと言葉を交わすことはなかった。




