2024/10/18(金曜日)
君のいない金曜日がやってきた。
早朝、ここ最近で日課となった特に用もないけど「おはよう」とLINEを送る、を熟そうとすると、ほどくのトークルームは消えていた。
あたしの知らないうちにほどくの願いが叶っていて、金曜日もほかの曜日と同じように過ごせていたらいいなぁ、と淡い期待を抱いていたけど、その希望はまんまと打ち砕かれた。
今日でほどくと顔を合わせなくなって四日目だ。
恋しくて仕方なかった。
一週間ぶりに制服に着替え、リボンの形を整えて姿見で確認する。
……どこも乱れていないけど、似合っていないなといつも通り思う。着たくて着ているのではなく、着せられている、といった雰囲気が醸されている。
鏡に映る切れ長の瞳の不愛想な少女を見て、そりゃこんな顔してちゃみんな怖がるよなと頬を緩める。
柔らかい表情を意識して過ごしても周囲のあたしを見る目は変わらないから、ここまでくるともはやどうしようもない。先入観とは恐ろしいものだ。
タイツにマフラー、防寒具をばっちり装備した状態で外に出る。ブレザーに手を突っ込んで息を吐くと、瞬く間に白く染まった。いつの間にか季節は移ろっていた。
無言で歩くこと十五分、学校に到着する。
生徒玄関の前にある掲示板には、文化祭に関連するポスターが所せましと貼られていた。HR三十分前にもかかわらず既に多くの生徒が登校しているのは、文化祭の準備が切迫しているからだろう。
通りすがった一年生の教室を見やると、となりのトトロの特大工作パズルがまもなく完成する段階にあった。すごいクオリティで、思わず足を止めてしまった。
階段に乾いた足音を響かせ、一週間ぶりの二年C組に向かう。
教室の扉は既に開いていて、中では体操着のクラスメイトが熱心に稽古に励んでいた。
一目見ただけでわかった。みんな一週間前とは比にならないくらいに上達している。
「はいっ、一旦休憩!」
丸めた台本を手に当てて威勢よく言うのは窪安だ。
時間が不安をかき消したのか、今の彼女は自信に満ち満ちしている。おどおどしていた一週間前よりもずっと好印象だ。
「おはよう」
タイミングを見計らって教室に足を踏み入れる。
誰も反応しなかった。
あたしは音源をコピーしたCDを窪安に突き出す。
「ごめん遅れて。七曲分、ちゃんと用意したから」
正直言えば七曲目、劇のフィナーレで主人公が歌う歌に関しては納得していないけど、それはあたしの主観でしかない。
窪安が良くないといえば直すし、これでいいというのならそれで構わない。ほどくが主演じゃない時点で、あたしの熱は冷め切っている。
「はいっ! じゃあ練習再開するよ!」
台本をぱんぱん手のひらに当てて鬼教官のように窪安は言う。
あたしを放置したままで。
「……おい窪安」
「そこ台詞の言いまわし違うよ! 何回言えばわかるの!」
窪安がビシッと突き出した、丸められた台本があたしのCDを叩き落とした。勢いよく落ちたものだから、透明なケースにはヒビが入っていた。CDのほうは問題なさそうだ。
「……窪安?」
そんな出来事があったというのに、誰もあたしに注目していなかった。
人間誰しも、音には過敏に反応するものだ。けど、さっきあたしのCDが落ちたとき、劇は止まらなかったし、誰も動揺しなかった。予告されていたわけでもないのに、突然鳴り響いた音を無視するのは不可能だ。
その事実が、ひとつの非現実的な可能性を導き出した。
「あたしが、視えていないのか?」
心臓の音が脳まで響いている。馬鹿げていると現実を否定している自分と、そうなんじゃないかと現実を肯定して恐怖する自分が胸の内側で喧嘩している。
唾を呑み、窪安におっかなびっくり手を伸ばす。
指先が背中に触れるまで残り十センチ、五センチ、一センチ……
「きゃっ!」
「っ! なんだよ!?」
「あ、いや、誰かが肩をつついた気がして」
「誰かって誰だよ。誰もいねーよ?」
触れることはできた。
けど、視えてはいないのだと、窪安と周りの反応が物語っていた。
「……はは」
笑ってしまう。
なんだよこれ。元から透明人間のような希薄な存在だったけど、ついに紛うことなき透明人間になっちまったっていうのか。
いつからだろう。
不意に一昨日の朝、母親に無視されたことを思い出した。
あの時は意図的にあたしを無視して記事を優先していると思っていたけど、さてはあたしが視えていなかったのではないだろうか。
「……どういうことだよ、ペトリコール」
あたしがこんな目に遭っているのは、十中八九あの女のせいだろう。
CDを教卓の中に突っ込み、ギターを背負ったまま屋上に駆ける。
「おい、ペトリコール!」
勢いよく扉を開くと、秋風にそよと靡く透き通った深青が目についた。まるで朝に夜が紛れ込んだかのようだった。
鉄柵に両腕を乗せて街を眺望する不気味なほどに美しいその女は、微風に髪を泳がせながらゆっくりとあたしを振り返る。
涙を流していた。
「一週間ぶりだね、伊都」
「……どうしてお前が泣いてるんだよ」
泣きたいのはあたしのほうだ。
指摘されてはじめて気づいたらしく、ペトリコールは両眼の端から伝う星屑のような煌めきを手のひらの甲で拭った。その所作がやけに子どもめいていて、こんな状態だというのにあたしは笑ってしまった。
ペトリコールの隣に並び、同じように鉄柵に体重を預けて訊ねる。
「で、この状況はなんだ」
「予定調和だよ。世界の歪みが修繕され、世界が正しい形に戻っている証拠だ」
「はは、なんだよそれ」
あたしが認識されなくなることが世界の正しい形だというのだろうか。
確かにあたしはどうしようもない人間だ。けど、だからって、理由なくこの世界から抹消するのはあんまりだろ。
「伊都、大事な話があるんだ。聞いてくれるかい?」
ちらと隣に目をやる。ペトリコールは胡散臭い……とは言えそうにない真剣な瞳であたしを見つめていた。ため息をついて言う。
「断っても勝手に話すんだろ。いいよ、聞いてあげる」
「ありがとう」
やけに感情の込められた声だった。ペトリコールは今にも泣き出しそうな微笑をたたえていた。
「今日は涙目を強いられるほど潮の強い日じゃないと思うんだけど」
くんくん鼻を鳴らす。風に乗る潮のにおいは、むしろいつもより弱いくらいだ。
「君は優しいね。優しい子だってわかってるから、ツンツンした態度も可愛く思えてくるよ」
「誰がツンデレだ。調子こいてると屋上から落とすぞ」
「はは、こわいこわい」
目の前には、海が浮かび上がったかのような群青の空が続いている。ほどくがいるときは曇天続きだったのに、ほどくがいなくなった途端に元気になる天気に無性に腹が立った。
「私は伊都のことが好きだよ」
「そりゃどーも。あたしのどこに好きになる要素があるのかはわかんないけど」
「むしろ好きになる要素しかないよ。
――だって私は、君たちから生まれたんだから」
「は?」
なにを言っているんだろう。
あたしの疑問に応じることはなく、ペトリコールは相変わらず瞳を潤ませたまま、言った。
「今日までにほどくが君に伝えることができなかったら、私が伝えるという約束になっているんだ。だから伝えるね?」
一拍置いて、ペトリコールは告げた。
「君はもう、死んでいる。この世にいないんだ」




