2024/10/15(火曜日)
【伊都】いっしょに登校しよう。してくれないなら休む
なんて、字面だけ見たら怖気の走るメンヘラめいたLINEを送ったのは一時間前のこと。未だに既読はついていなかった。
「大丈夫かな」
既読スルーされたという可能性よりも、既読できない状況にあるという可能性のほうが気にかかり、あたしは通話ボタンを押す。
二回、三回――。
しつこく電話していると、やがて着信拒否された。その現実に悲しみを覚えつつも、ほどくが無事でいることにほっとする。
「ちゃんと学校行くんだぞ」
自分のことを棚にあげてつぶやき、朝食を摂るために一階に向かう。昨日、日がなお菓子を暴食したからか、空腹感はほとんどなかった。
明け方の廊下には、夜の寒気の余韻が残っている。
二の腕をさすりながら速足で階段を降りて扉を開けば、今日もリビングは真っ暗だった。カーテンが閉まっているのはいつものことだけど、悪天候ということも相俟って、なおのこと部屋は暗い。まるで夜だ。
電気を点ける。
机の上にはなにも置かれていなかった。
「遅刻しそうにでもなったのかな」
母親はあたしに興味の欠片もないけど、それでも最低限のことはしてくれる。朝食も弁当もないけど、それには相応の理由があるのだろう。なら手紙のひとつくらい残してほしいけど。
さしてお腹も空いていないので、コップ一杯の牛乳とバナナで朝食を済ませる。コップを軽く水ですすいで、洗面所で歯磨きをして、部屋でいつも着ている白のカッターシャツとチノパンツに着替えて、脱いだパジャマを洗濯かごに突っ込んで、朝のルーチン終了。自室に戻って、ベッドのへりに座る。
「なにしよう」
これまでは悩まずとも、ギターを弾く、あるいは曲をつくるという選択を無意識にしていた。
その選択が無くなった途端、なにをすればいいのかわからなくなった。
勉強する、という選択は論外のため、とりあえず目についたマンガを読むことにした。
あたしはマンガを月並みに好いている。
その程度の熱意しか持っていないのに、六段ある本棚三つがほぼマンガで埋まっているのは、ほどくの家ではマンガを買うことが禁止されているからだ。
毒親、という言葉を知ったとき、それはまさにババアとジジイのような親を指すんだと思った。
マンガ禁止、ゲーム禁止なんて、性格が歪んだキャラクターのバックボーンくらいでしか目にすることのない誇張に思えるけど、ほどくはそんな現実味の欠ける家庭に身を据えている。
親が選んだ道しか選べず、テストの点が悪ければ平手打ち。隣の家から怒鳴り声が聞こえるたびに、あたしは家を飛び出して隣の家の扉を全力でノックした。すればババアかジジイがやってきて、あたしはほどくが忘れものをしていっただの、ほどくと話したいことがあるのだの、適当な嘘をでっちあげる。そうすることでほどくへの虐待教育は沈静化できるけど、できることならなにかが起きる前にほどくを救いたかった。
……そういえば、最近は全然ジジイの声が聞こえてこないな。
半分ほど読み終えたあたりでマンガを閉じた。ひとりで読んでいても楽しくない。ほどくがあたしが未読であることをお構いなしにネタバレしてくるけど、その時間が楽しかった。マンガの初見のワクワク感よりも、ほどくが今を楽しんでいることに何倍も価値があった。
「どれだけほどくのことが好きなんだよ」
さっきから思考に絡みつくのはほどくのことばかりだ。
これまで自分に無理やりほどくを嫌いだと認識させようとしていた反動か、ほどくを想う気持ちが絶えずあふれてくる。
ほどくの声が聞きたい。
あたしはPCを手に取り、プラグをジャックに差し込んでからヘッドフォンを装着する。途端に外から運ばれていた近所のおばさまたちの話し声が一切聞こえなくなった。
デスクトップのwavファイルをクリックすると、方位磁石のオリジナル曲で構成されたトラックが表示される。
五十九分三十七秒。収録曲は、YouTubeで公開している十曲に、未発表の三曲を加えた計十三曲。
トラック名は『通り雨』。
ネーミングしたのは、ほどくだ。
一曲目から音楽を再生する。問題なく音楽が流れていることを確認し、あたしは背中からベッドに倒れ込んだ。
一曲目。『糸、まだ解けず。』
聞いていて恥ずかしくなる拙いメロディだ。それに乗る歌声が不釣り合いに綺麗なものだから、当時のあたしの実力の低さがより浮き彫りになっている。
ま、当時は劣等感なんてほとんど感じなくて、ほどくとあたしの歌ができた、という事実がなによりうれしかったんだけどさ。
音楽というのは不思議なもので、音を聞いているとあの頃の情景がありありと蘇る。
『曲名、もうちょっと明るくならないのか』
『気に入らなかった?』
『あたしは好きだよ。けど、客観的に見てどうなのかなって。これが一曲目だし』
『だいじょうぶ。ちゃんと伏線回収するから』
『ほう。どんな?』
『まだ駆け出しで、現実や常識っていう糸に囚われているわたしたち。けど、アーティストとして大成したら、その枷から解けて飛び出すことができる。プロデビューしてから一曲目は、この曲と対になる「糸、解ける。」を発表しようと思うんだ。ちなみに歌詞はもうできてる』
『いつの間に。……できるかな、あたしたちに』
『ぜったいできるよ! わたしと伊都が組めば、どんな困難だって打ち勝てるよ!』
『なにを根拠に言ってるんだか』
肌を刺すような空気が街で迷子になっている中学二年生の冬だった。
「……まさか三年後には解散してるなんてな」
二曲、三曲と、聴くたびに胸を満たす郷愁が強くなる。
目を閉じてあの頃に逃げ込み、しかし目を開けば、すっかり色褪せてしまった現実があたしを見つめ返している。
目を逸らし、あたしはまたあの頃に浸る。
ほどくの紡ぎ出したリリックが、胸の奥のやわらかい部分にそっと触れるような歌声が、傷ついた心を癒してくれる。まるでぬるま湯に浸かっているみたいだ。
そうやってどれだけ音楽に身を委ねていただろう。
音楽を止める際にPCの右下を見やると、時刻は十六時をまわろうとしていた。え、昼食すっぽかしたのに全然お腹空いてないんだけど。
数時間ぶりに立ち上がり、クローゼットを普段開く方向とは逆方向から開く。そこには、いつもと変わらずギタースタンドとカバーに覆われたギターが置かれている。
「やっぱり、あたしはほどくに歌ってほしいよ」
それが何時間も狂ったように音楽を聞いた末に芽生えた、あたしのしたいことだった。
歌を聴けば聴くほど、ほどくが歌いたいと訴えているような気がした。
ほどくは歌うことが嫌いになったと言っていたけど、実際はあの頃から変わらず歌を好いているとあたしは知っている。夜、あたしがギターを弾けば、符節を合わせたように歌詞を口ずさんでいたのに、それで歌うことが嫌いだというのは無理があるだろう。
母親から音楽を辞めるように強いられたから、やむなく歌を嫌っているふりをすることにした。
そう言えばいいのに、ほどくは下手くそな嘘で隠そうとした。
それが絶交の原因だった。
あのとき、ほどくがあたしに助けを求めなかったことが、頼らなかったことが、堪らなく悔しくて悲しかったんだ。
「今度はあたしがほどくを救う番だ」
あたしはギターを二つ所有していた。
ひとつは、電車に座ったまま遠くどこかに旅をしてしまった安物の愛用ギター。
そしてもうひとつは、プロになったら使おうと決めていた高級なギター――去年のクリスマス、ほどくがプレゼントしてくれたギターだ。
ほどくには粗大ごみの日に捨てたと嘘をついている。
……あの瞬間のほどくの悲しそうな顔が頭をよぎり、胸が悲鳴をあげた。
カバーを外せば、雪原のような白いフォルムが部屋の明かりに照り映える。ホワイトクリスマスにこのギターで歌を贈ったらさぞロマンティックなんだろうな、なんて思った。
ピックで弦を弾く。
……うん、多少音が狂っているものの弦を張り替える必要はなさそうだ。
「よし」
チューニングが済んだところで、楽曲製作に乗り出す。
幸運にも作りかけで不完全の曲は腐るほどにある。その中から一曲でも満足いくものが仕上がれば上出来だ。
あたしはプロにはなれない。だから音楽を辞める。
それは一見すれば理に適っているようで、しかし実際は誤った帰結なのだろう。
だってあたしは、ほどくともう一度、歌いたかっただけなんだから。
ギターをかき鳴らし、ペンを走らせては唸り、紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てる。
夕方と夜の狭間がなくなったのか、部屋の空気が一段と冷たくなる。はぁと指先に吐息をかけ、あたしは無我夢中で音色を奏でる。
あぁ楽しい。生きた心地がする。
音楽の世界に導いてくれたほどくには、感謝してもしきれない。




