2024/10/14(月曜日)3/3
「もう大丈夫」
「うん。じゃあぎゅってしてるね」
意図的に会話を成立させていないのか、試合に夢中になっているのか。
まぁどちらだっていい。背中に感じるほどくの温もりは、いつまでも味わっていたいと思えるほどに心地良かった。
本戦第八試合。2R序盤、左ストレートが顎を打ち抜いての失神KOという形で試合の幕が閉じられる。
大興奮のほどくを横目に映し、コーラで喉を潤す。
紙コップを机の上に置いて、あたしは言った。
「仲直りしよう」
自分で言っていておかしな話だと思う。
いっしょに下校して、いっしょに休日を過ごして、涙を流して寄りかかって。
だけど、あたしとほどくは絶交している。
名目上は、だけど。
「あの頃に戻ろう」
戻るもなにも、あたしたちの根底にあるものは、あの頃からなにも変わっていなかったのだろう。ほどくはあたしを想い、あたしはほどくを想っていた。
「去年の冬にさ、一時の感情にまかせて絶交だってほどくに言ったことをずっと後悔してたんだ」
一週間も経てば怒りの熱は冷めていて。だけど、あれだけの苛立ちをぶつけた手前すぐに元通りになるのは気まずくて。
あと一週間、もう一週間だけ。そうやって嫌な瞬間から逃げて先延ばしにしているうちに、今の奇妙な関係が構築されていた。
あたしは、変わらずほどくを好いているのに嫌っているように振る舞って、そんなあたしにほどくがこれまで通り構ってくるという関係性が。
「けど、ありがた迷惑なことにそれからほどくが表立って悪口を言われることが無くなってさ」
突然グレた北原伊都。そんな彼女がいじめのターゲットとして選んだのが、幼なじみで仲が良かったはずの南野ほどく。
ほどくになにかすることはあたしに喧嘩を売ることと同義とされ、誰も表立ってほどくに悪さをしなくなった。
「ほどくに平穏が訪れた。そこで満足できればよかったんだけど、あたしはそれだけじゃ満足できなかったんだ。仲直りして、またほどくって名前を呼びたかった」
だから、自分に制約を課したんだ。
ほどくを救えたら仲直りしようって。
ほどくを傷つけるものは大きく分けて二つあった。ひとつはほどくをよく思っていないクラスメイト、そしてもうひとつは彼女の家族だった。
あたしは、ほどくをあの狂った家族の束縛から解放することができたら仲直りしようと決めていた。
「だけど、ぜんぜんうまくいかなくてさ」
具体的にどうやってほどくを救うか。
あたしは自分が先陣を切って音楽の世界に居場所をつくり、そこに無理やりほどくを引っ張りだそうとしていた。ほどくは歌うのが好きだから。
だけど、スカウトを受けては方位磁石の歌唱担当であるほどくがいないなら不必要だと切り離される日々が続いていて、第一関門をくぐれないことに絶望していて……
「そんなときに、ペトリコールと出逢った」
そしてあたしは「世界をぶっ壊したい」と願った。無力なあたしがほどくを救えないのなら、すべてを0から始めればいい。何度生まれ変わろうとも、あたしはほどくの側にいられるという、根拠のない確信があった。
「だけどさ、あいつは無茶な課題を出してくるんだ。願いを叶えるためにはほどくと嫌い合うことが絶対条件だっていうんだよ?」
そんなことできるはずがないのに。
だけど、ほどくを嫌う努力をして。予期せぬチャンスが来訪したことによってそうする必要がなくなって、けれどもそのチャンスを掴むことはできなくて……
「今日まで酷いこと言っちゃってごめんね」
あたしはなにも成し遂げられない無価値な人間だ。
いや、はじめから無価値な人間だった。
そんなあたしに生きる希望を与えてくれたのは、ほどくだった。
誰もがあたしが明日死のうが知ったことかとばかりに無関心で。
あたしは常に透明人間で。
「あたしがほどくを嫌ったことは一度だってないよ」
だけどほどくだけは、いつだってあたしを見つけてくれた。
話しかけてくれた。笑いかけてくれた。海に行こうと誘ってくれた。
格闘技を観に行こうと誘ってくれた。バンドしようと誘いかけてくれた。
「あたしはいつだって、ほどくを想ってる」
だからきっと、北原伊都は南野ほどくとの想い出でできている。
ほどくいるから、あたしは今日を歩き、明日に一歩を踏み出せる。
振り返る。
ほどくは呆然としていた。
「ほどく」
名前を呼ぶだけで安心する。
こんなにも綺麗で優しい名前をあたしは知らない。ババアを高く評価する要素は皆無に等しいけど、娘にこの名前を授けた点だけは高く評価していい。
そっと手を伸ばし、早朝うっすらと赤く腫れていた頬に手のひらで触れる。痛いの痛いの飛んでけ、なんて心の中で念じながら頬をそっと撫でる。
「もう痛まないか?」
「……うん」
「ならよかった」
もう目を逸らしはしない。テレビの中で興奮気味にこれまでの試合の解説をする声が、どこか遠くに感じた。
「長々と語っちゃってごめんね。けど、今のがあたしの本音だから……」
勇を鼓して、口にする。
「ほどく、仲直りしよう? あの頃に戻ろう?」
「いやだ」
間髪容れずにほどくは口にした。
あたしが思っていたものとは真逆の答えを。
「あの頃には戻ってもいい。けど、仲直りは今月末までしないよ」
背を向けたまま、ほどくにはにべもなく言う。意味が分からない。
「……なんで?」
「仲直りはしたくないから」
「これまであたしがしてきたことを恨んでるのか? だったら何度だって謝る。これからどんな頼みだって聞く。だから、仲直りしてくれないか?」
「いやだ。それだけはぜったいいや」
「どうして」
「いやなものはいやなの」
「……あたしのことが嫌いだからか?」
「きらいじゃないよ。……きらいなわけないよ」
「じゃあどうして」
「しつこいなぁ!」
悲鳴にも近い声をあげてほどくが振り返る。
瞳からは大粒の涙が滴り落ちていた。
「いいじゃんか。ゼッコーしたままで。……ゼッコーしてるけどなにも変わってないじゃんかわたしたち」
「嫌だよあたしは。なにも変わらないとしても、言葉が意味を持たなかったとしても、絶交なんて言葉をあたしたちの絆の中に混ぜたくない。ほどくも嫌だろ?」
「……っ!」
あたしの問いかけに答えることなく、ほどくは部屋を転げるように飛び出した。
「待ってほどく!」
どたどた階段を猛スピードで降りる音に続けて、玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえた。
「……ほどく」
カーンとゴングの音が部屋に響いた。本日のメインイベント、スーパーバンタム級のタイトルマッチが幕を開けた音だった。
「……わかんないよ」
ほどくがなにを思っているのかも、この試合の見どころも、あたしひとりではわからない。君のいない世界では、どうやって生きればいいのかさえもわからない。
「……どうしてだよほどく」
1Rの途中でテレビを消し、あたしはベッドに身体を沈めた。シーツに染みついたほどくのにおいが、彼女は今、ここにいないのだと突きつけてくる。
「ほどく、ほどく……」
涙を流しても、誰も慰めてくれなかった。
当然だ。
あたしの世界はほどくとふたりぼっちで完結していて、彼女がいなければあたしはひとり孤独になるのだから。




