2024/10/14(月曜日)2/3
今日も太陽はご機嫌だった。
十月中旬にもかかわらず気温は二十度近くあり、すれ違う人は半分が秋の装い、半分が夏の装いといった風だ。夏と秋の衣替えをするタイミングは難しい。
「今日はね、どの試合も注目カードなんだ」
「ふぅん」
「特に注目してるのは七試合目。デビュー五戦目の萩庭選手対ウェルター級チャンピオン阿部選手の一戦。戦績だけ見れば実力差のある一戦に思えるけど、わたしは番狂わせが起きると思ってる。阿部選手はオーソの相手が得意だけど、サウスポーの選手に弱い傾向があるの。実際、過去に二回カウンターのフックでKO負けしてる」
「ふぅん」
「で、次に注目してるのがスーパーバンタム級タイトルマッチ、土屋対柘植3なんだけど――」
この話いつまで続くんだ。
相槌を打ちつつ話にしっかりと耳を傾ける。南野は、ジャブの刺し合いを制した方が勝利を手にすると見ているようだ。
「あとねっ」と、話がひと段落するなり興奮冷めやらぬ様子で次の見どころ解説に移ろうとする南野に、「あのさ」とあたしは言葉をかぶせる。南野は口をつぐんだ。
「会場どこだっけ」
「茂代木体育館だよ」
南野と前に一度行ったことのある会場だ。電車で移動するのにどれだけの時間を要するのか、どこにあるのか、調べずとも記憶が教えてくれる。
「今回は前回と比べて迫力が段違いだと思うよ。なにしろ今回は手前から八列目の席だからね」
「ごめん行けない」
足を止める。「え?」と困惑し、南野もすぐに足を止めた。
ババアにカッとなり、南野の傷を癒すことばかりを考えていたために、あたしは自分の置かれている状況をすっかり忘れていた。
「どうして?」
あたしの言葉を無視して手を引くことも、あたしの身勝手な手のひら返しに地団太を踏むこともなく、南野はただ優しく訊ねてくる。まず第一にあたしの意を汲もうとする。
「ペトリコールとの契約の影響かどうかわからないけど、県外に出ることができなくなってるんだ」
この馬鹿げた話を信じてくれる誰かがいるとすれば、それは南野だろう。こいつもペトリコールになにかを願い、そしておそらく、なにかしらの縛りを課せられているはずだから。
南野はハッとし、少し俯いてつぶやいた。
「……そうだった」
「そうだった?」
違和感のある言い回しだ。
それじゃあまるで、知っていたけど失念していた、と言っているみたいだ。
顔を上げ、南野はにこりと笑う。
「いっしょに家で見よっか」
「いいよ。南野だけでも会場に行ってこい」
ポシェットから財布を取り出し、一万円札と五千円札を南野に突き出す。前に当日券を購入したとき、二枚で二万四千円だった。これで南野が無駄な出費をすることはないだろう。
南野は受け取らなかった。
「わたしが勝手に買ったから気にしないで」
「お前に奢られたって事実を許容したくない。だから受け取れ」
「……じゃあありがたく」
観念して、南野は二枚の札束を受け取り財布にしまった。
これで用は済んだだろう。身を翻してポケットに手を突っ込み、来た道を引き返すために足を一歩進める。
しかし、二歩目を刻むのは躊躇ってしまった。
右腕に南野がくっついていたからだ。
「帰りにジュースとお菓子買ってこ。今日はなんでも伊都の好きなの奢ってあげる」
「驕ってんのか」
「ん、ボケてる?」
「偶然だ。言っとくけど、あたしがお前と同じ熱量で格闘技を観戦することはないぞ」
「けど、観てはくれるもんね。なら充分! さ、帰ろ帰ろ、わたしたちのおうちに!」
あたしの腕に抱きつく力を強め、南野はウザいくらいに明るい顔を向けてくる。
視線を頬に滑らせる。
頬にはまだうっすらと打擲の痕が残っていた。
その痕に手を伸ばし――あたしは途中で引っ込めた。
その後、格闘技鑑賞用のお菓子を買うためにスーパーに寄るまで、南野があたしの右腕から離れることはなかった。
視線が重なるたびに南野は「えへへ」と間抜けな笑みを浮かべ、その笑顔にほっとしつつも、あたしは不愛想な膨れっ面で応じた。それでも南野の相好は崩れたままで、あたしは徐々に居たたまれない気持ちになる。
殻が、破れそうだった。
※
普段は折り畳んでいるテーブルを組み立て、その上にジュースと紙コップとお菓子を置き、並べておいたクッションに腰を下ろせば、試合会場よりも断然快適な観戦席の完成だ。
PPVを購入すれば、わざわざ会場に行かずとも試合を観ることができる。
それは今の時代においてはあたりまえのことで、けどそのあたりまえがなければこうして南野と試合観戦できていなかったわけだから、このシステムをつくった誰かに心の中で感謝する。おかげで南野に降りかかる不幸をひとつ取り除くことができた。
「伊都」
「ん」
「あ~ん」
南野はあたしにポッキーを突き出している。カントリーマームに、ホームパイに、チョコパイに、アルフォートに、ポッキーに。
机上に置かれた無数のバラエティパックを見ていると、それだけで辟易してくる。部屋に甘い空気が揺蕩っているように感じるのは気のせいではないだろう。
「いい」
視線を切り、あたしはコーラで喉を潤す。すると無性にカントリーマームが食べたくなり、バニラ味を口に放り投げる。それから数秒と経たずして、コーラの入ったコップに口をつける。
頬に視線が刺さっていることに気づき横目を流すと、南野がのほほんとした顔をしていた。
「……べつにがっついてるわけじゃない」
ついと南野が再びポッキーを突き出してくる。
このまま何度も同じことをされたら面倒なので、あたしは視線を切ると同時に先端をかじり取った。
※
本戦四試合目。
スーパーフェザー級の一戦。
「カーフ嫌がってるカーフ嫌がってる! あぁもう、左フックは見切られてるって前のラウンドでわかってるじゃん! そう! それでいいんだよ! 足を殺せばパンチが死ぬから!」
南野は立ち上がって応援し、選手の一挙手一投足に一喜一憂している。その都度、空の紙コップが形を変えていた。
3Rの幕が開ける。開始十八秒、南野の応援している選手の蹴りが相手選手の腹部に突き刺さりKO勝利を収めた。華麗な三日月蹴りだった。
南野は我がことのようにぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいる。
「これだけインパクトある勝ち方ならタイトル戦線にも絡めそう。伊都もそう思うよね?」
「そうだね」
おざなりに相槌を打ってポッキーをかじる。
その後もKO決着が続き、予定よりも早く休憩時間がやってくる。
チョコパイの封を開け、あたしはなんでもないように言った。
「駄目だった」
なにが駄目だったのか、わざわざ言わずとも南野には伝わるはずだ。
早朝からいつ昨日の結果を尋ねられるのかとヒヤヒヤしていた。けど、あたしの懸念に反して南野がその話題を口にすることはなかった。格闘技のことで頭がいっぱいで、昨日があたしの一世一代の大勝負であることを忘れている、ということはないのだろう。
南野はきっと、あたしを気遣ってその話題を避けている。
あたしが結果を告げない。
その行動が、雄弁に結末を物語っているから。
「ごめん」
多くは語らず、チョコパイにぱくつく。
視界の端で栗色が動いた。お手洗いかと思っていたら、南野は扉ではなくあたしの方に歩いてくる。
スプリングの軋んだ音。
南野はあたしの背後、ベッドの上に座ったようだった。
身体が少し後ろに傾いた。
「ありがと」
優しいささやきが鼓膜を撫でる。見えてはいないけど、南野の顔が近くにあることはわかる。
吐息さえも感じる距離。
南野はあたしの首に腕を絡めて抱き寄せていた。
「……感謝されるようなことをした覚えはないんだけど」
「強がって隠しても無駄だよ。ぜんぶわかってる。だから伊都、我慢しないで」
「……勝手なこと言うなよ」
なんとか絞り出したその声は、情けなく震えていた。
「がんばってくれてありがと」
甘いささやきと共に頭を撫でられて、目頭はみるみる熱を帯びていく。
決壊の瞬間はすぐに訪れた。
「ごめん……ごめんねほどく」
「泣かないで。だいじょうぶ。伊都はこれからもだいじょうぶだから」
「……どうしていつもそうなんだよ。自分よりも誰かを優先して、平気なふりしてへらへら笑って。ほどくのそういうところがあたしは大嫌いなんだよ。……見てて苦しくなるんだよ」
「ふりなんてしてないよ。つらいときはいつも伊都が助けてくれるからわたしはへーきなんだ」
「あたしはほどくのヒーローなんかじゃない」
夢が潰えた。県外に出られなくなった。ギターがなくなった。
そんなのはどうだっていいんだ。
あたしを苦しめているのは、南野を――ほどくを救えなかったという現実だった。
それさえ叶えばほかになにもいらないのに、そのたったひとつを、唯一守りたかったものを、あたしは取りこぼしてしまった。
「ううん、伊都はわたしのヒーローだよ」
「やめろよ」
「そばに居てくれるだけでいつも助けられてる。楽しくて、つらいことをぜんぶ忘れられる。伊都がそばに居てくれるだけで、わたしは幸せなんだ。それだけで、満ち足りてるんだ」
言葉に違わない幸せそうな声色だった。
ほどくが指先であたしの涙を拭う。
あたたかさと情けなさが綯い交ぜになる中、今後の方針が明確となる。夢を失ったあたしに、新しい道が用意される。
「ありがとう、ほどく」
「こちらこそ、いつもありがと。今日は存分に甘えてね」
休憩時間が終わり、ほどくが注目していた第七試合目の幕が開ける。
試合のあいだ、ほどくがあたしの頭を撫でる手が緩まることはなく、すんと鼻を鳴らせば「だいじょうぶ?」と顔を覗き込んでくれた。そのせいでKOの瞬間を見逃したというのに、ほどくは文句のひとつも言わなかった。
優しさが胸に沁みて、心はなかなか元の調子に戻りそうになかった。




