2024/10/14(月曜日)1/3
【了解致しました。では、また後日お会いしましょう。お大事に】
昨日、あたしが失礼極まりない仮病メールを送ってから十分と経たず、今別府さんから折り返しのメールは届いていた。
文面や高速レスポンスを見る限り、あたしを突き放そうという意思はないように思える。しかし、作曲演奏オンリーという使い勝手の悪さに加えて、県外に出ることもできなくなったあたしを、今別府さんは欲するだろうか。それを、あたしはどう説明すればいいのだろうか。
県外に出ることができないんです。
文字にするのは簡単だ。だけど、文字にできるからといってすべてが純然たる事実として鵜呑みにされるわけじゃない。
幸いにも、あたしは非現実的なその現象を証明することができる。ただ、その瞬間を今別府さんに見てもらって「ね、あたしの言った通りでしょ?」と非現実を現実のものに昇華させるのは双方にとって面倒だし、それを知った上で今別府さんがそれでもあたしを起用する、という結論に至るとは考えにくい。
だから、あたしは自ら今別府さんとの関係を断つことにした。
昨夜さんざん悩んだ末に出した結論ということもあり、起床からほどなくして今別府さんのアカウントをブロックする指にはそれほど抵抗がなかった。
髪を掻きあげ、息をつく。
「これからどうしよう」
長年部屋の隅に鎮座しているギタースタンド。そこに主の姿はなかった。
いい機会だと思い、あたしはギターを追うことを諦めた。
夢は叶わないと知った。文化祭で必要な曲は、すべてPCの音楽ソフトで作っている。今のあたしにとって、ギターは必要不可欠なものではなくなっていた。
今日はスポーツの日、ということで学校は休みだ。祝日だろうがなかろうがどの道休んでいたけど、祝日であるおかげで南野が構ってこないから助かる。
あいつにはまだ、昨日の結果を告げていない。催促するLINEが入っていたけど無視した。
起きてまもないのに頭が重たい。目がしょぼしょぼする。部屋に入りたがる朝陽に気づいていないふりをして、あたしは枕に頭を埋めて布団をかぶる。
……あぁ静かだ。いつまでもこの静寂の中に浸っていたい。
しかし、そんなあたしの望みも虚しく、玄関のインターフォンが軽やかな音を奏でた。
……なんだかすごく嫌な予感がする。
すぐにスマホが震動し、その予感が的中したと悟る。
「……どっかいけよ」
音を無視して布団に包まる。両親は今日も不在だ。仕事なのか、それとも別の要件で家を留守にしているのかは知らないけど、なんにせよあたし以外に誰もいないのなら、家の扉が勝手に開いて無神経なあいつがあたしの領域を侵害することはない。
――ピンポーン!
――ブー、ブー!
――コンコンコン!
――ブー、ブー!
インターフォンが響き、スマホが震動し、扉がノックされて、またスマホが騒がしくなる。
しつこいにもほどがある。
普段のあたしならここらで我慢比べに負けてあいつを迎え入れてしまうんだろうけど、今日に関しては絶対にあいつに屈しないと心に固く誓っている。
やがて部屋に再び静けさがもたらされた。
ほっと息をつき、頭のてっぺんまでがっぽりかぶっていた布団から顔を出した――直後。
「やめなさい! 迷惑でしょう!」
あたしはベッドから跳ね起き、乱れた服とぼさぼさの髪を直す間も惜しんで、飛ぶように玄関に駆け出した。
「あっ」
階段を半分ほど下ったあたりで、勢い余って足を滑らせてしまった。
景色が上向いた。ほどなくして腰をしたたかに段差に打ちつけ、仰向けのまま一階まで滑り落ちる。
「いた……くない?」
当たり所が良かったのか、頭部から臀部まで不自然なほどに痛みはなかった。あたしに辛辣な神様だけど、この時ばかりは味方してくれたようだ。
サンダルに足を引っかけ、あたしは勢いよく玄関の扉を開けた。
「……伊都?」
まず目に映ったのは南野の潤んだ瞳だった。視線を下げれば、一昨日あたしが選んだ洋服に身を包んでいる。
似合っている。……と、そんなことはどうでもいい。
「なにしてるんですか」
南野の脆そうな細い腕を乱暴に掴む女を、あたしは射殺さんばかりの眼光で睨み据える。
ひさしぶりに目にするあたしの大嫌いな厚化粧のババアは、あたしの威嚇を意に介することなく、南野の腕を掴んでいた手を頬に添えて微笑んだ。
「すいません。娘が迷惑をかけて」
「迷惑じゃないです。悪いのは約束を破って眠りこけてたあたしのほうですから」
でっちあげじゃない。あたしは先日南野と交わした約束を覚えていながらも、すっぽかすつもりでいたのだ。
ババア――南野の母親が手を離したことで、南野の腕にくっきりとついた手の形が公になる。
視線を上げ、あたしはますます怒りと情けなさに身を震わす。さっきは横顔しか見えなくて気づかなかったけど、南野の左頬は赤く腫れ上がっていた。
「待たせてごめんな。じゃ、あたしたちはあたしたちの時間を過ごすんで」
遠まわしにこれ以上干渉するな、と圧を掛け、あたしは南野にこっちに来いと顎を上げて指示する。その意を解き違えることなく、南野はとてとてこちらに駆け寄ってくる。
南野を家に押し込み、続けて家に戻ろうとすると、「北原さん」と声を掛けられた。
「なんですか」
「あの子の夢の邪魔をしないでくださいね」
あたしじゃなけば見抜けないであろうアルカイックスマイルだ。
けど、あたしは知っている。
胸の内側では、あたしをゴキブリのように煩わしく思っているということを。
「言われなくてもわかってます」
感情の乖離した返事をして扉を閉める。ババアはもう声を掛けてこなかった。
ほっと息をついて振り返ると、胸にどんと強い衝撃があった。南野が抱きついていた。
「おい南野……」
背中にまわされた腕は、小刻みに震えていた。
あたしは、栗色の小さな頭をそっと撫でて囁いた。
「ごめん。こわかったよね」
こうやって南野があたしに寄りかかるのはいつ以来だろう。
この二週間、安寧の日々が続いていたから、常にこいつの側には絶望の影が付きまとっていることを失念していた。
南野は強い人間だ。陰口を叩かれても「全員から好かれるなんて土台無理な話だよ~」と強がって笑い飛ばすし、あたしが嫌いだと言ってもへらへら笑う。その笑顔が嫌いだけれど、それでもまだ、今の彼女を見るよりはマシだった。
だって、こんな弱り切った姿を前にしたら、あたしは図らずも〝あの頃〟に戻ってしまうから。
「あたしがいる。もう大丈夫だよ」
あたしが南野を嫌い、南野もあたしを嫌う。
願いを叶えるにあたって必要なその条件を満たしていないと聞いたとき、ペトリコールは今のように、あたしが南野に優しく接するときの感情を読み違えてそう言っているのだと思った。
柔らかくあたたかな熱と鼓動を味わいつつ、これはあたし自身のためだと言い聞かせる。あたしの所有物があたし以外の脅威によって傷つくのは納得がいかないから、あたしは南野の傷を癒そうと試みているのだ。
……そう言い聞かせる。
互いの熱を共有し合ったまま一分が過ぎる。
やがて「もうへーき」と、胸からくぐもった声がした。
あたしを見上げる南野は、いつもの間抜けな笑みをたたえていた。目尻は少し赤いけど、あまり意識しないようにする。意識すると、ババアに対する怒りが再燃してしまうから。
「メインはスーパーバンタム級のタイトルマッチだったっけ」
出し抜けにあたしが言うと、南野はぱちぱちと目を瞬かせた。あれ、違ったか?
「土曜日言ってたろ。月曜日はキックボクシングの大会を観に行こうって」
こいつはコロッケと格闘技をこよなく愛している。どちらも女子高校生らしさからはかけ離れたもので、それらの話題であたし以外の誰かと話を弾ませている場面は見たことがなかった。
その話題で話を弾ませることができるのは、この広い世界であたしだけだった。
「違った?」
「ううん、その通りだけど」
「少し待ってて。着替えてくる」
まだ朝食を摂っていないけど、空腹感はほとんどなかった。食事は移動途中に軽く済ませてしまえばいい。
身を翻し、目にかかった髪を搔きわけると、「伊都」と背中に声を掛けられた。首を巡らすより早く、言葉が続く。
「ありがと」
「ん」
感謝されるようなことはしてないけど、心地良いので訂正しないでおこう。
……よかった、大事になる前にほどくを守れて。




