2024/10/13(日曜日)
朝から透き通った青空が広がり、街には澄んだ空気が満ちていた。
時刻は十時。陽射しを窓越しに背中で浴びながら、あたしはずっと望んだ未来を掴み取ったイメージをしている。
『まもなく茂沼に到着します』
車内にアナウンスが入る。家族連れや学生と思しき集団が会話を弾ませているので、そのアナウンスはぼんやりとしか聞こえなかった。茂沼駅は、あたしの最寄り駅からひとつ進んだ先にある駅である。
今別府さんとは、十一時三十分に県外にある詩ノ葉プロダクションのオフィスで落ち合うことになっている。電車移動で要する時間は一時間弱。
スマホで調べたら最寄駅から五分ちょっとで行ける場所にあったけど、はじめて行く街だから、迷うことも想定して余裕をもった行動をしている。
「……」
今日はなんだかやたらと視線を感じる。
曖昧な意識を正面やや左に絞ると、ポロシャツを着た大学生と思しき男がハッとした顔をしてスマホに目を戻した。確信犯だ。詰め寄る気はないけど。
あたしの衣装がそんなに似合っていないのだろうか。
白のインナーにデニムジャケット、下はショートパンツ。膝付近まで、昨日の試し履きを除けば人生ではじめて履くロングブーツが覆っている。
いつもは雑に手櫛で梳いているだけの髪も今日はハーフアップにまとめ、唇には控えめながらリップなんかも塗ってみた。……正確には塗ってもらった、だけど。
可愛く見られたいな、なんて。
そんな如何にも年頃の女の子らしい感性があたしの識閾下でひっそりと息を潜めていたことがおかしくて笑ってしまいそうになる。
一駅。二駅。
電車はゆっくりと、けれども着実にあたしを目的地へと運んでいく。
到着はまだだいぶ先だというのに、鼓動はテンポを上げ、手には汗が滲みはじめる。緊張を紛らわせるため、あたしは耳にワイヤレスイヤホンを差し込んだ。流れるのは、方位磁石のオリジナル曲だ。
贔屓無しに、最前線で活躍するアーティストに劣らない完成度だと思う。
楽器の奏でる音色には荒さがある。けれど、それを忘れさせてしまうほどの色気が南野の綴ったリリックと歌声には宿っている。
過去にアカペラで歌った動画を挙げてほしいというコメントをもらったことがある。当時、視聴者と真摯に向き合っていたあたしたちは指定された曲を南野が歌う動画を撮影し――しかしその動画が世に出ることはなかった。
その動画をみれば一目瞭然だった。
あいつは天才で、あたしは月並みだって。
方位磁石はソロアーティストとして認知されているため、あたしが南野と釣り合っていないと非難されることはない。
だけど、ほかでもない自分自身が「お前はこの天才と並ぶのにふさわしくないよ」と冷酷に告げてきた。
言われずともわかっていた。
だからすべてを音楽に捧げたのだ。
「あの頃から成長したんだよ、あたし」
今なら確実に南野ほどくの才能をあの頃以上に引き出すことができる。
それはきっとあたしにしかできないことで、まだあいつの本領が発揮されていないことをあたしだけが知っている。
あいつが今も歌うことが好きなことを、あたしだけが知っている。
『まもなく茂沼に到着します』
脳を心地よく揺さぶる音色にアナウンスが混じる。
そのアナウンスに違和感を覚え、あたしはイヤホンを外して電車の外に目をやる。看板には「茂沼」と書かれていた。
「……は?」
どうして茂沼に戻ってきてるんだ?
困惑しつつ、まずは時間を確認する。
十時三十二分。
ますます疑問が深まる。
この電車は終点に到着したら来た道を引き返す仕組みになっていて、仮にあたしが無意識のうちに転寝していて再び茂沼に戻ってきたのなら、所要時間は優に一時間を越すことになる。
それがどうだ。過ぎた時間はたったの三十二分である。
音楽に意識を傾けていたものの、正体は鮮明にあった。そもそも今この瞬間も夢の中にいる、と結論づけるのは無理があるだろう。現実と夢の判別くらいはつけられる。
「……どうなってるんだ?」
お決まりのアナウンスが入り、いつ何時も変わらない緩慢さで扉が閉まり、あたしの疑問に答えることなく、電車は次の駅に乗客を運んでいく。
車内の温度が急にぐっと下がった気がする。
まわりに目を配る。誰も「え、今のなに?」と戸惑うことも、「やべぇやべぇ! 今のヤバくね!?」と騒ぎ立てることもなく、友人との会話やスマホとの対話に興じている。異常事態に気づいているのはあたしだけだった。
一時間後に控えた今別府さんとの対談のことも、南野との想い出も、すべてが脳内から弾き出されて、この現象はいったいなんなんだという恐怖と困惑だけが頭の中を占領する。
電車が二駅ほど進み、そこでふと車内の顔ぶれが大きく変化していることに気づいた。
茂沼駅からあたしの正面やや左に座っている、杖を両手で握っている老人。あそこにはついさっきまで、あたしをちらちら見ていた大学生が座っていたはずだ。目をつぶり音楽に浸っていたけど、ずっと視界を閉ざしていたわけじゃない。少なくとも三分ほど前まで大学生はいた。
電車が止まり扉が開くたび、外からカラっとした風が運ばれてくる。空は早朝から変わらず清々しい青に満ちている。
さっきまであたしの心を軽やかにしていた空模様が、今は作りものめいたものに見えてこわい。途端にまわりの人も全員が人に擬態したなにかに思えてきて、あたしは逃げ出したい気持ちに駆られる。
それでも頑なに座席から腰をあげないのは、今日があたしたちの未来がかかった日だからだ。
あたしだけならよかったけど、あたしたちの、だから譲るわけにはいかない。
あたしの記憶が正しければ、茂沼駅の前に停車していたのは向坂駅だ。あと一駅進めば県外という、昨日南野とふたりで赴いた近隣ではもっとも発達している地域。
向坂駅に到着した。
車内の三分の一ほどが入れ替わり、席に座ろうとした人が座席のひとつをギターに充てているあたしに冷ややかな目を向けてくる。あたしは俯いてやり過ごした。
乗客の乗り降りが終わり、電車がのろのろと進み出す。
神経を研ぎ澄ます。音に、景色に。作曲するときにそうするように、五感を十二分に機能させる。
後ろに流れていく、車窓の向こういっぱいに広がる見ているだけでにおいや声までも感じてしまいそうな繁華街。
少しだけ開いた窓から車内に流れ込んでくる秋の澄んだ風……。
唾を呑む。
しかし、その緊張は徒労もいいところだった。
瞬きする。
――次の瞬間、車窓の景色が大きく変化した。
「は?」
発展した街が、緩やかな曲線を描く山々へ。乗客の顔ぶれもまるきり変わっている。
つい数秒前まで、あたしの正面に赤子を抱きかかえた妊婦なんていなかった。
平坦なアナウンスが入る。
『まもなく茂沼に到着します』
「……」
スマホを見る。
時刻は十一時六分。
さっきと同じく、時間は正確に流れていた。
とすれば、過去に戻っているのではなく、あたしが茂沼に着く直前の電車にテレポーテーションしている、とでも言うのだろうか。
……馬鹿げている。ならどうして突然出現したあたしに誰も驚いていないんだという話になるけど、今はそれ以外の可能性が思いつかなかった。
スマホが震える。
今別府さんからDMが入っていた。
【大丈夫そう?】
「……どうしていつもこうなっちまうんだろうな」
ようやく感情が追いついてきた。
茂沼駅で電車を降り、閑散としたベンチに腰掛ける。降りる最中、「あのっ」と背中に声を掛けられた気がするが気のせいだろう。
乗客を吐き出しただけでほぼ迎え入れることのなかった電車を見送り、あたしはベンチを殴りつけた。
「くそがっ!」
一発だけでは激情が収まらず、二発、三発とベンチに拳をぶつける。
どうしてこんな目に遭っているのか、どんな理屈なのか、そんなのはどうだっていい。明確なのはただひとつ。
あたしは失敗した。
……また失敗したんだ。
ペトリコールに願いを取り消してもらうんじゃなかった、と遅れながらに後悔する。
この世界は、ほんとうにふざけてる。勝負して負けるならまだいい。だけど、土俵に立つことなく棄権を強いられるなんてあんまりじゃないか。
……あいつに服を選んでもらって、朝早くから着替えの手伝いまでしてもらって、「伊都ならぜったい大丈夫!」って満面の笑みで背中まで押してもらったのに、どんな顔して会えばいいんだよ……。
全部……全部全部、台無しだ。
いっそ電車に身投げでもしてやろうか。
……いや、それで満たされるのはあたしの刹那的な葛藤だけだ。無価値な命。されど一個人の命。もっと有意義な使い道があるはずだ。
と、まずは今別府さんに連絡しなければ。
【すいません。今朝から体調が優れないので顔合わせは後日でよろしいですか】
もう十一時十分で、約束の二十分前だ。今さらになってドタキャンなんて人として終わっている。
きっとあたしと今別府さんの交流はこれきりで途絶えるのだろう。前にあたしをスカウトしたやつが言っていた。約束と時間を破らないことが、雇用するための最低条件なのだと。
高速で既読することでなにかが変わるわけでもないのに、あたしは小さな希望に縋るように今別府さんとのDMを見つめる。画面をスワイプ。オフィスの住所と最寄り駅が丁寧に記されたメッセージが目についた。
あと一駅前なら県内だったんだけどな。……と、特に深い意味もなく思ったことが引き金となり、あたしの中でじわじわと違和感が蠢き出す。
「……県内」
ひとりごつ。
県内。
……なんだろう。このワードが妙に引っかかる。
ふと横に目をやり、ギターを電車に置き忘れるという大失態を侵したと気づくと同時、違和感の正体を掴んだ。
「ペトリコールか」
あたしが世界をぶっ壊してほしいと願った日のこと。
あいつは課題を二つ提示した。
ひとつは、南野と一日三十分話すこと。
ひとつは、あたしと南野が嫌い合うこと。
その途中で、あいつは思い出したように付け加えた。
県外に出ることもできなくなるから合計で三つだね、と。
明確な縛りとして機能しているのは県外に出られなくなることだ、と。
「ふざけるなよ……」
早くギターを取りに行かなくては、という焦りよりも、あの綺麗すぎて胡散臭い女に向ける怒りのほうが勝っていた。
勢いよく立ち上がって空を見上げ、爪を皮膚に食い込ませて声を張り上げる。
「おい、ペトリコール! 視てるんだろ!? なんとかしろよ!」
遠くで次の電車を待つ人たちが、何事かとあたしを振り返る。
構わず叫ぶ。
「あたしは願いを破棄した! その後も強いられた代償が継続するとは一言も聞いてないぞ!」
人様に迷惑だ、とあたしを窘めるように強い風が吹きつける。
「……なんとか言ったらどうなんだよ」
悄然とベンチに座る。
なんだかもう、ギターもどうでもよくなっていた。
「……あたしは一生、県外に出られないって言うのかよ」
とはいえ、生活する上で不自由を感じない都心郊外だ。それに加えて、山があって、海があって。これだけ揃っていながらそれでも物足りないというのなら、そいつはどこにいっても常になにかが足りないと感じながら生きていくことになるだろう。
あたしは自分の生まれ育った街が好きだ。けど、この街から一刻も早く抜け出したいと思っている。
好きだけど、泣く泣く手放さなくちゃいけない理由がある。
「……ごめんね、ほどく」
そのつぶやきは、誰にも届くことなく、こわいくらいに澄んだ空に運ばれていく。
遠くから潮騒が聞こえる。
やがて目の前に電車が停車し、あたしを置いて進んでいった。




