第10章 「少女は片翼でも空へ行く」 第1話
翼は自分の部屋に篭ったままだった。
いや、自分の部屋じゃない。
自分は飛彩じゃないのだから。
自分の名前が分からない。
今は何を信じればいいの。
憧れの存在だった人も、
大好きな大切な家族だった人も、
すべてが、嘘のように感じられた。
ベッドの上で膝を抱え、翼は小さく震えていた。
部屋の明かりは落としたまま。
カーテンの隙間から差し込む薄い月明かりだけが、
彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「そりゃそうだよ」
冷たい、嘲るような声が響いた。
ユキムラツバサは、
部屋の隅の影の中に立っていた。
淡い金色の長い髪、破れた白いワンピース、
汚れた裸足。
そして、光のない瞳。
「翼は捨てられたんだから。いらない子」
私はいらない子なの……。
その言葉が、胸の奥を鋭く抉る。
「私の両親ってどんな人なの」
翼の声はか細く、掠れていた。
「私はあなた。あなたの知らない事は私も知らない。 まぁ、実の子を平気で捨てるくらいだからロクな親じゃないことは確かね」
ツバサの笑みは冷たく、残酷だった。
翼は膝を抱えたまま、ゆっくりと身体を丸めた。
涙が、制服の膝を濡らしていく。
李梨奈さん——
憧れの歌姫。
大帝都劇場で手を差し伸べてくれた人。
怜人さん——
いつも温かく見守ってくれた兄さん。
朝食を作ってくれ、
夜遅くまで待っていてくれた人。
すべてが、嘘だった。
私は、捨てられた子。
いらない子。
「私……なんなの……?」
翼の声は、ほとんど息のように消えていった。
ツバサはゆっくりと近づき、
翼の目の前にしゃがみ込んだ。
光のない瞳が、翼をまっすぐに見つめる。
「捨てられた、要らない存在」
その言葉が、翼の心を深く、深く切り裂いた。
部屋の隅で、ツバサの影が長く伸び、
翼の小さな身体を飲み込もうとしているように見えた。
翼はただ、膝を抱えたまま、
静かに、静かに、涙を流し続けていた。
外では、夜の風が窓を優しく叩いている。
しかし、翼の心の中は、
真っ暗な闇だけが広がっていた。
今日のゼロタイムも、いつものように賑わっていた。
午後の柔らかな陽光がレースのカーテンを透かし、店内に温かな光を落としている。
カウンター席や窓際のテーブルでは、
百合々咲の生徒たちが制服姿で集まり、
甘い紅茶やケーキを味わいながら、
今日の授業や明日の授業の話をしていた。
「怜人さん、翼さん大丈夫ですか?」
1人の女子生徒が、心配そうな顔で怜人に尋ねた。
「大丈夫だと思うよ……」
怜人は穏やかな笑みを浮かべながら答えたが、
その声にはわずかな翳りがあった。
「いつも元気だったのに……最近、全然見かけないから……」
他の生徒たちも同調するように頷き、
声を潜めて囁き合う。
「エーデルになったばっかりなのに、大変なんだろうね……」
「ロゼさんのレッスン、相当厳しいって聞いたよ……」
怜人は静かに耳を傾けながら、
コーヒーを淹れる手を止めることはなかった。
ただ、心の奥で重いものが沈んでいくのを感じていた。
営業終了後。
店内の灯りを落とし、椅子を上げた後、
理央がカウンターに寄りかかりながら言った。
「怜人、翼ちゃんとちゃんと話してみた方がいいんじゃないか?」
「……そうかもしれないけど」
怜人はノートPCの画面を閉じ、
ため息を小さく吐いた。
翼になんて声を掛ければいいのだろうか……。
李梨奈の存在。
本当の家族の秘密。
すべてを話すべきか。
まだ、そっとしておくべきか。
怜人はカウンターの奥にある写真立てに視線を落とした。
幼い翼と自分の笑顔が、そこに並んでいる。
理央はグラスを拭きながら、静かに続けた。
「翼ちゃん、相当参ってるみたいだぜ。
部屋からほとんど出てこないし……俺らで何かできることないのか?」
怜人は答えられず、
ただ黙って窓の外の夜の街を見つめた。
ゼロタイムの灯りが、静かに2人の影を床に落としている。
翼の苦しみを知りながら、
兄として何もできない自分に、怜人は静かに歯がみした。
「もう少し……時間をあげよう」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるように小さく響いた。
夜のゼロタイムは、
兄の静かな葛藤を、優しく包み込んでいた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第1話 完




