第9章 「太正桜は運命の始まり」第1話
夕暮れの風が、二乃の頰を優しく撫でていた。
二乃は走っていた。
制服のスカートが翻り、
ポニーテールが軽やかに跳ねる。
息が上がり、心臓が激しく鳴っている。
百合々咲音楽学院に向かって、
ただひたすらに走っていた。
今更行ったって、遅いかもしれない。
みんなはもう何度も練習を重ね、
ロゼの厳しい指導に耐え、
一つの舞台を創り上げようと必死に頑張っているはずだ。
自分だけが、逃げていた。
怖がっていた。
エーデルという重い名前に押しつぶされそうになって、仲間たちから離れてしまっていた。
でも——
やりたい。
私も、SNOW WHITEをやってみたい。
風になってみたいと、二乃は思った。
風はいつでも自由だ。
強く吹く時もあれば、弱くそよぐ時もある。
時には嵐のように荒れ狂い、
時には優しいそよ風となって、誰かの頰を撫でる。
風はわがまま。
だからこそ、我がままにまっすぐ進む。
二乃の足が、地面を強く蹴る。
胸の奥で、何かが熱くなっていた。
これまで抑え込んできた想いが、
今、風のように吹き荒れようとしていた。
翼の笑顔。
哪吒の強さ。
八重の優雅さ。
砂月の気品。
そして、自分が背負う
「フラウ・ヴィンド」という名。
もう、逃げない。
風のように、自由に、
自分の想いを、舞台の上で解き放ちたい。
夕陽が沈みゆく空の下、 二乃の足音は、
百合々咲に向かって、 力強く響き続けていた。
夕暮れの光が、砂月の頰を優しく照らしていた。
砂月は走っていた。
百合々咲音楽学院に向かって、自分の足で。
自分自身の足で走ったのは、いつぶりなのだろう。
制服のスカートが軽やかに翻り、
長い紫髪が風に乱れる。
息が上がり、胸が熱い。
足が痛い。でも、悪くない。
地に足をつけて、自分の足で進むこと。
今、砂月は初めてそれを実感していた。
(楽しい……)
今なんだか、笑えそうな気がする。
自分に正直でいられるのは、
心が軽くなる気がした。
完璧な仮面を被り、
誰かの期待に応えることだけを生きてきた日々。
プリベンターの娘という肩書きに縛られ、
笑顔さえも「作られたもの」だった頃。
でも今は違う。
フィーアさんの言葉が、
胸の奥で静かに響いている。
「心に正直になってみたら?」
「不完全でも、あなただけの花を咲かせて」
砂月は走りながら、ふと微笑んだ。
今なら出来る。
昔のような、無邪気な笑顔を。
父と母に見せつけてやりたいくらいに、
輝く笑顔を。
足が痛くても、息が苦しくても、
この痛みさえも、今は自分のものだと思えた。
エーデルとして、フラウ・ボーデンとして、
完璧を求められてきた自分。
でも、今は違う。
自分の足で、
自分の心で、
自分の舞台を創りたい。
砂月の瞳は、夕陽を映して輝いていた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第1話 完




