第8章 「地上は全て誰かの舞台」 第4話
百合々咲音楽学院の校門の前に、
砂月の迎えの車が静かに停まった。
降りてきたのは、宗介ではなかった。
初老の執事だった。
普段は屋敷内の仕事をしているはずの人物。
「宗介はどうしたの?」
砂月の声には、わずかな違和感が混じっていた。
「急な来客対応で、私が代理で参りました」
来客対応?
来客はよくあることだが、基本的にメイド長か執事長が当主に代わって対応するはず。
宗介は砂月専属の執事。
立場として、来客対応をしてはいけないはずだった。
屋敷に着き、車を降りると、砂月は近くにいたメイドに鞄を預け、すぐに宗介を探した。
中庭の庭園の方から、
かすかに話し声が聞こえてきた。
砂月は静かに足を進め、庭園へと向かった。
そこには、宗介と一人の女性がいた。
フィーア・ウィナー。
過ぎ去りし流星たちの一人であり、
元・フラウ・ボーデン。
フィーアはテラス席に優雅に座り、給仕されたであろう紅茶をゆっくりと飲んでいた。
その姿は、まるでこの屋敷の主であるかのように自然で、気品に満ちていた。
砂月は木陰に身を隠すように立ち止まり、
2人の様子を静かに見つめた。
宗介の表情はいつもより少し硬く、
しかしどこか懐かしげでもあった。
フィーアは紅茶のカップをソーサーに戻し、
軽やかに笑った。
「久しぶりね、宗ちゃん。 相変わらず真面目そうで安心したわ」
宗介は軽く頭を下げ、静かに答えた。
「先輩もお変わりなく……」
フィーアが砂月に気がついた。
「あら、おかえりなさい」
まるで自分の家であるかのように、
フィーアは優雅に微笑んだ。
「フィーアさん……何しにいらしたの?」
「うーん、特に理由はないけど。宗ちゃんに会いに、ただ遊びに来ただけ。……ダメだった?」
「……いえ、別に」
そのとき、フィーアの目に映った。
邸宅の窓の奥にずらりと並ぶトロフィーや表彰状の数々。
「すごい量ね、あのトロフィー」
「今まで獲得してきた賞たちですわ。
……欲しい賞はすべて、手に入れてきました」
「……でも、面白くないんでしょ?」
「……さすがですね。最初は楽しかったんですけど、
今ではもう“取って当然”になってしまいました」
「作業、だね」
「否定は……しません」
「舞台、楽しくない?」
砂月は、ほんの一瞬、目を伏せた。
「……分かりません。
最初は、楽しかったかもしれません」
「いつから、あなたは笑えなくなったのかな?」
「完璧である必要が……あったからでしょうね。
賞を取るのが当然、トップスタァであるのが当然。
期待に応えるのが“正しい私”だったから」
「エーデルって制度、めんどくさいわね」
「めんどくさい、ですか……」
「私、あんまり好きじゃなかったよ。
みんな“完璧”であろうとしてて、逆にすごく不完全だったから」
「……完璧って、なんなんでしょう?」
「演技、歌、ダンス……どれも高レベルでも、
“心”が置いてけぼりになってたら、それは完璧じゃないの」
「…………」
「完璧って言葉は、自分の限界を定義する言葉よ。
“もうここまででいい”って思わせる、呪いでもある」
「…………」
「あなたの心は、いま、満たされてる?」
砂月は何も答えなかった。
「花って、不思議よね」
フィーアが、庭に咲いた一輪の花にそっと手を伸ばした。
「どれも完璧なんかじゃないのに、咲くだけで誰かを幸せにする。 あなたも、咲いていいのよ。たとえ不完全でも」
「……私、完璧じゃなくて……いいのでしょうか?」
「不完全。それが“人間”。でもね、一歩を踏み出すそれもまた人間。」
「…………」
「あなたの立つ、その大地こそあなただけの舞台」
その言葉が落ちた瞬間——
「きゃっ」
足を滑らせたフィーアが、庭の池に落ちた。
水音が響く。
砂月は、思わず笑ってしまった。
それは、いつ以来だろうか。
「……ほら、笑えてる」
フィーアが水の中から、にこっと笑っていた。
「宗介、この方にタオルとお風呂を。 あと、私、学院に戻ります」
「お車は?」
「いいわ、たまには自分の足で走ってみたいから」
砂月の瞳は、ほんのり濡れていて、しかし、
確かに輝いていた。
「舞台で待ってるわ」
フィーアは、びしょ濡れのままウインクしてみせた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語、
そして……
夢を叶える物語である。
第八章 「地上は全て誰かの舞台」 完




