第4章 「零は全ての起点なり」 第8話
昼下がりのゼロタイムは、
ゆったりとした時間が流れていた。
ランチラッシュを終えた店内には、穏やかなBGMとともに、午後の柔らかな陽光が差し込んでいる。
カウンターの中では、
理央が手元のグラスを静かに拭いていた。
「……翼ちゃん、まだ部屋から出てこないの?」
「……今はそっとしておこう」
倒れたあの日から、
翼は自分の部屋に籠ったままだった。
心配はもちろんある。
しかし、今どんな言葉をかけたらいいのか、
怜人には分からなかった。
そんな重い沈黙の中、
ドアベルの音が軽やかに鳴った。
チリン——
扉が開き、風のように明るい女性が入ってきた。
「こんにちは〜!」
「いらっしゃいま──……」
理央が目を丸くした。
「あれ? 理央じゃん!」
「……え……?」
「え〜〜! まさか覚えてないの? ひなただよ、ひ・な・た!」
その屈託のない笑顔に、理央の記憶がざわめいた。
——同時に、奥から怜人が顔を出す。
「……二柳……ひなた……?」
「お〜! そっちは覚えててくれたんだね〜」
女性は風が吹き抜けるように明るく笑った。
明るいオレンジ髪を軽やかに揺らし、
笑顔はまるで太陽のようにまぶしい。
かつて『フラウ・ヴィンド(風の君)』と呼ばれた、
二柳ひなた。
怜人は一瞬言葉を失い、
カウンターの端に手をついた。
理央はグラスを拭く手を止め、
呆然と彼女を見つめていた。
店内に流れるBGMだけが、静かに続いている。
かつての「風の君」が、
今、再びこの小さな喫茶店に舞い戻ってきた。
カウンター席で、ひなたは涼しい顔でアイスコーヒーをくるくると回していた。
グラスの氷が軽やかに音を立てる。
しかし、その明るさとは裏腹に、
店内の空気はどこか気まずく淀んでいた。
「……怜人、俺、買い出しいってくるわ。店、頼んだ」
理央は小さく呟き、
エプロンを外して店を出ていった。
ドアベルが寂しく鳴り、店内に再び静けさが戻る。
残された怜人が、ゆっくりとひなたに向き直った。
「……どっちから別れるって言ったんだ?」
「ん?あ〜……どっちだったっけ。あの時いろいろあったから……
あんまり覚えてないなぁ」
再び、短い沈黙が落ちた。
ひなたはストローを軽くかき回しながら、
静かに言った。
「ていうか、あなたでしょ?りーちゃん……“雪叢李梨奈”を探してるのって」
怜人の動きが、ぴたりと止まった。
「……!」
「察しはついてたよ。りーちゃんから、話は聞いてたし」
「……そうか」
ひなたはアイスコーヒーを一口飲み、
穏やかな声で続けた。
「まさか、同じ“フラウ・ヒンメル”で白雪姫を演じるなんてね」
「……あの子はリリィに、憧れを持ってる」
「憧れてるからこそ、言えない——か。まぁ、分かるよ。
でもね、“憧れ”ってさ……越えるためにあるものなんだよ」
しばしの静寂が流れた後、
ひなたは少し声を柔らかくして言った。
「今のエーデル、真っ白だよ。何にも染まってない。
だからこそ——“ゼロ”なんだ。
ゼロってのはね、
何にでもなれる数字」
その言葉は、静かに、
しかし確かに怜人の胸に響いた。
——その会話を、
階段の影からそっと聞いていた者がいた。
飛彩翼。
ひなたの言葉が、胸の奥深くに刺さっていた。
(何にでもなれる——)
その一言が、閉じかけた心に、
小さな風穴を開ける。
翼は階段の手すりを握りしめ、
息を殺したまま立ち尽くしていた。
夕方。理央が買い物から戻った頃、ひなたはまだカウンター席にいた。
「……そろそろ帰ろっかな」
ひなたが軽く立ち上がり、振り返った。
「理央〜、駅まで送って?」
「当店はそういうサービスやってません」
カウンターの奥から、怜人がぼそっと呟いた。
「行ってこいよ。百合々咲の子たちが来るまで時間あるし」
「ナイス、怜人くん!」
ひなたは明るく笑い、理央の腕を軽く引いた。
──駅へと続く、少し坂になった道。
二人は、無言で並んで歩いていた。
夕陽が道を長く染め、
影を二人の足元に伸ばしている。
「……あの時みたいだね」
「……は?」
「私が練習終わって、理央が学院の前まで来て。
そのまま、こうやって歩いて帰ってた」
「……そうだったな」
「でもさ〜、あの時の理央、今よりずっと不良っぽかったよ?」
「……不良だったし」
ふっと、二人の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「ねぇ、どっちが振ったか覚えてる?」
「いや……覚えてねぇな。……十二年も前だし」
「じゃあ、“どっちも振ってなかった”ってこと、あるかもね」
「……かもな」
駅の入り口が見えてくる。
「ここまでで、いいや」
ひなたが足を止めた。
「またね〜」
「……気をつけてな」
背を向けたひなたが、ふいに振り返る。
「ねぇ、理央〜?
まだフリーならさ、私がまた拾ってやろっか?」
「ばっ、バカ……何言ってんだよ……はよ帰れ!」
「はーい」
大きく手を振りながら、
“風のような彼女”は、夕陽の中へ去っていった。
理央は、その場でしばらく立ち尽くしていた。
ひなたの後ろ姿が、駅の階段を上っていく。
オレンジ色の髪が、夕焼けに染まって輝いている。
十二年前の記憶が、胸の奥で静かに蘇った。
あの頃の自分は本当に不良で、
ひなたはいつも明るく、自由で、
風のように軽やかだった。
今も変わらない。
理央は小さく息を吐き、
ゆっくりと店へと踵を返した。
夕陽が、住宅街の道を優しく照らしている。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第8話
完




