第3章 「空が崩れ、影が生まれ」 第7話
次の日の稽古場は、いつも通り照明が落とされ、
緊張した空気が満ちていた。
翼の姿は、そこにあった。
けれどその瞳には、焦点がなかった。
ただぼんやりと虚空を見つめ、動きが遅く、
どこか抜け殻のようだった。
——何を信じればいいのだろう。
私は飛彩翼?
それとも雪叢翼?
どちらの名にも、今は実感がない。
周囲の声が遠い。
仲間たちの笑顔も、演出の指示も、
すべてが水の中で聞こえるようにくぐもっていた。
——そのときだった。
『……そこまでして、何になるの?』
耳元に、冷たい声が囁いた。
それは“ユキムラ・ツバサ”の正気の無い冷たい声。
『裏切られたのに、何を信じるの?』
ふいに、翼の身体が止まった。
脚が動かない。
空気が、急に張り詰めていく。
『あなたじゃ“白雪姫”になれない。』
心が、強く締めつけられた。
演目は、二乃が演じる“継母”との対決シーン。
白雪姫の心の揺れを象徴する、重要な場面だった。
音楽が流れ、稽古が始まる。
けれど翼はうまく呼吸ができない。
セリフが、喉の奥で詰まって出てこない。
「白雪姫、なんでこんなことすらできないの?」
二乃のセリフ。
……のはずだった。
けれど翼には、“李梨奈の声”に聞こえた。
「あなたなんて、必要ない」
今度は、“ツバサの声”だった。
「……必要ない、必要ない、必要ない……」
どこからともなく、
誰のものともつかない声が重なり合う。
怜人の声。
学院のざわめき。
生徒たちの冷たい視線。
ロゼの冷たい指摘。
「必要ない、必要ない、必要ない、必要ない……」
真っ暗な闇に落ちていくような感覚。
翼の手が震え出す。
頰を、熱いものが伝う。
「……ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
——そんなセリフは、台本にはなかった。
舞台上の空気が、ざわついた。
アンサンブルたちが動きを止め、
互いに顔を見合わせる。
ロゼの表情が、わずかに動いた。
二乃が慌てて翼に駆け寄った。
「翼!?ねえ、大丈夫!? 翼!」
けれど、その声は届かない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
翼の膝が折れ、ゆっくりと崩れ落ちる。
それはまるで、
白雪姫が毒リンゴに倒れる瞬間のようだった。
けれど、そこには夢も魔法もなかった。
ただ、“舞台”という光の中で、
ひとりの少女が壊れていく音だけが、
静かに響いていた。
この日、空が崩れた。
翼の胸の中で、
“飛彩翼”という名前と“雪叢翼”という名前が、
激しくぶつかり合いながら、
静かに、音を立てて砕け散っていた。
稽古場に落ちた重い沈黙は、
誰にも、容易く破ることができなかった。
控室の空気は、重い沈黙で満たされていた。
さっきまでの稽古場の喧騒が、
まるで遠い夢のように感じられる。
翼の崩壊を目の当たりにしたその場に、
ただ4人のエーデルが残っていた。
誰もが言葉を失い、
ただ自分の膝や床を見つめている。
先に口を開いたのは、八重だった。
「初めて白雪姫の稽古が始まった日、あれからずっと焦ってた。
どこかで自分を責めてるような目をしてた……」
二乃は拳を強く握り、
うつむいたまま唇を噛んでいた。
言葉が喉の奥でつかえて、うまく出てこない。
砂月が小さくため息をつき、静かに言った。
「……実力が伴ってないのは事実ですわ。
でも、まさかあんなことになるとは思ってませんでしたわ」
けれど、そんな中で唯一、
冷たい声音で語ったのは張哪吒だった。
「……心が弱いだけだ」
三人が、同時に哪吒を見た。
哪吒は表情一つ変えず、まっすぐに言い放った。
「ミスしたからなんだ。罵倒されたからなんだ。
嫌なら舞台になんか立たなければいい」
その言葉は、控室の空気を一瞬で凍りつかせた。
「エーデルという立場は、そんなことで崩れていいものじゃない。
あいつも白羽結依と同じ。
“エーデルの責任”を果たせない、“弱い存在”だったというだけの話だ」
空気が、さらに冷たく張りつめた。
二乃の目が、ゆっくりと見開かれていく。
その瞳には、静かな、
しかし確かに燃える怒りが宿っていた。
「……取り消して」
哪吒がわずかに目を細めた。
「……何を?」
「今の言葉全部。
翼と結依ちゃんは——
“弱くなんかない”!!」
次の瞬間、
パンッ!という乾いた音が控室に響いた。
二乃の掌が、哪吒の頬を強く打っていた。
「舞台をやりたくて、信じたくて、ずっと前を向こうとしてたのに……!
誰よりも“SNOW WHITE”を心からやりたいって願ってたのに……!」
二乃の声が震え、
その目には、涙がじわりと溜まっていた。
「翼は……毎日、必死に頑張ってたよ。
翼は本当に、本当に、白雪姫になりたかったんだよ……!
なのに……そんな風に、簡単に“弱い”だなんて……」
二乃の声が、徐々に大きくなっていく。
八重が静かに立ち上がり、
二乃の肩にそっと手を置いたが、
二乃はそれを振り払うように続けた。
「結依ちゃんも……あの時、誰も本当のことを聞いてあげられなかった。
ただ“空から堕ちた”って言葉だけを残して……。翼まで、同じ目に遭わせる気なの!?」
控室に、再び重い沈黙が落ちた。
哪吒は打たれた頬をゆっくりと手で押さえ、
冷たい瞳で二乃をじっと見つめ返した。
砂月はため息をつき、八重は静かに目を伏せた。
二乃の拳は、まだ小さく震えていた。
「結依ちゃんがいなくなった日、私は何も言えなかった。
“エーデル”のことなんて、分からなかった。
でも今なら分かる。あのときの結依ちゃんは、
ずっと苦しんでたんだ」
控室に、静かな緊張が走った。
二乃の声は震えながらも、
はっきりと響いていた。
涙で潤んだ瞳が、
哪吒をまっすぐに見つめている。
「“エーデルの責任”って何? 導く者? 完璧であれってこと?
私たちが“流星たち”に憧れたのは、舞台を楽しんでいたから**じゃないの?」
二乃は拳を胸の前で強く握り、言葉を続けた。
「翼も、結依ちゃんも、舞台を“愛してた”
私はその姿を、誰よりも“エーデル”だって思ったよ……。
完璧じゃなくても、頑張って、笑って、時には泣いて…… 。それでも舞台に立ち続けようとしてた姿が、私には一番輝いて見えた」
誰も、すぐには返せなかった。
八重は静かに目を伏せ、
砂月は唇を固く結んだままだった。
哪吒も黙っていた。
打たれた頬の赤い痕が、まだはっきりと残っている。
その重い沈黙の中で、二乃の声だけが、静かに、しかし熱を帯びて響いていた。
控室の空気は、張りつめたまま動かない。
その沈黙の外――
控室のドアのすぐ向こうには、
ロゼが背を壁に預け、じっと立っていた。
彼は腕を組み、すべての会話を聞き終えていた。
やがて、ロゼは小さく、しかしはっきりと呟いた。
「こりゃ……練習どころじゃねぇな」
その声は低く、苦笑混じりだったが、
ロゼはゆっくりと目を細め、ドアの向こうの4人を思い浮かべた。
完璧を求め、結果を求め、
しかし心はそれぞれに傷つき、揺れている少女たち。
そして、その中心で壊れかけているひとりの白雪姫。
エーデルたちの物語は、
まだ始まったばかりだった。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
夢を叶える物語である。
第7話 完




